Runaway Love
 仕事が始まると、そんな事は、意識の外に追いやられるほどに忙しかった。
 部長が出向するまで、あと三日。
 それまでに、大野さんの手を煩わせないレベルまで、こなさないと。
 大野さんは、部長と話し合いをしながら、引き継ぎをしている。
 一か月の予定だけれど、本当に一か月で済むのかわからないのだから、できるだけの事は引き継いでおきたいのは、全員一緒だ。
 ――まあ、あたしは、それ以前に辞めるかもしれないけれど。
 だからって、手を抜く事なんてできない。
「杉崎、ちょっと、営業部に交通費申請の確認したい。先、榎本部長出してもらってくれ」
「はい」
 あたしは、固定電話の受話器を上げると、内線番号一番を押す。
『はい、営業一課、早川』
 一瞬止まりそうになるが、すぐに立て直す。
 ――今は仕事中だ。
「――お疲れ様です。経理部、杉崎です。交通費の確認があるので、部長にお繋ぎください」
『お待ちください』
 淡々としたやり取りに、何故かホッとする。
 以前のような態度に戻ったみたい。
『お待たせしました、交通費がどうかしましたかい?』
 三十秒ほどで、営業部長が出ると、あたしは大野さんを見やった。
「昨日のヤツ、行き先が原島物産だが、営業車使わなかったのか?」
 あたしは、渡された交通費申請書を見てうなづく。
 そして、大野さんと同じように伝えると、榎本部長は、大声で、ああ、と、返した。
『すみませんね。朝イチで車のバッテリーが上がった上、部品交換がいるってコトで、急遽、私の車を出したんですわ!』
 なあ、早川、と、向こうが続けるのが聞こえた。
 車は、早川が使っているものらしい。
『修理に時間かかりそうだったし、他の車も出払ってて、代車も待ってるヒマも無かったんでね!』
「承知しました。総務の方にも申請お願いします」
『ああ、早川が出してるはずですわ!』
 無駄にデカい声に、耳が痛くなりながら、あたしは受話器を置いた。
「大野さん、車の故障で急遽、榎本部長の車を出したそうです」
「ああ、そう。了解。まあ、一言、言っておけっつー話だけどな」
「そうですね」
「じゃあ、杉崎、あと伝票確認頼むわ」
「はい」
 あたしは、渡されたファイルを受け取り、パソコンとにらみ合う。
 目が痛くなるほど凝視していると、ふと、手元に何か置かれた。
 見上げると、野口くんが、苦笑い気味にあたしを見下ろしている。
「ディスプレイ、見過ぎですよ。目薬、使ってください」
「あ、ありがと」
「おや、気が利くねぇ。野口くん、彼氏の自覚が出てきたのかなぁ?」
「いろんな所に支障が出るので」
 ニコニコと、部長が冷やかすと、野口くんは淡々と返す。
 どうやら、大野さんが昨日のやり取りを伝えていたようだ。
「杉崎主任、ラブラブじゃないですかぁ」
「……それ、死語じゃない?」
 あたしは、隣からのぞき込んで言ってくる外山さんに、眉を寄せた。
「良いんですー!そう見えるんですから」
「……そ、そうかしら」
 そう見えるように、振る舞っているんだから、見えてくれないと困るというのが、本音だが。
 あたしは、ありがたく目薬を借りると、目頭を押さえる。
 少しだけスッキリとしたので、また、パソコンをにらみつけたのだった。
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