Runaway Love
「杉崎主任、眼鏡ってかけてますか?」

「え?」

 お昼休み、社食で、ようやく作る事ができたお弁当を広げていると、目の前でサンドイッチを食べていた野口くんが、そう尋ねてきた。
 周囲の好奇の視線は、完全にスルーだ。
「眼鏡なんて、縁は無いわよ」
 そう答え、里芋の煮物をつつく。
 自分で作ったものだが、味がしみていて、上出来だ。
 少しだけ気分が上がる。何て、お手軽。
 思考が逸れかけたあたしに、野口くんは続けた。
「たぶん、視力落ちてますよ」
「え……」
 確かに、パソコンを見るのは、少ししんどい時もある。
「眼科、行った方が良くないですか」
「……眼科、かぁ……」
「まあ、眼鏡屋で視力計る事もできますけど、他に病気があったら困るでしょう」
 あたしは、妙に説得力のある言葉に、野口くんを見やった。
「野口くん、眼鏡してないわよね?」
「コンタクトですよ。この前髪に、眼鏡は面倒なので」
「……ああ……」
 妙に納得してしまう。
 眼鏡で髪が上がったら、隠していた顔が見られてしまう可能性が出てくる。
 本人としては、避けたいのだろう。
「かかりつけが無ければ、オレの行ってる所、教えましょうか」
「あ、良いの?お願い。本当に、眼科は縁が無いの」
「じゃあ、地図送りますね」
 野口くんは、そう言ってスマホを操作する。
「え、え?どうやるの?」
 あたしが、慌てて貴重品バッグからスマホを取り出すと、苦笑いで手を出した。
「貸してください。――他人が触るの、嫌じゃなきゃ」
「お、お願い。ホントにダメなのよ」
 そう言って、スマホを差し出す。
 すると、野口くんは苦々しく言う。
「……ロックくらい、かけましょうよ。不用心ですよ」
「だから、疎いんだってば」
「じゃあ、後で教えますから」

「あれぇー⁉杉崎主任、三人目ですかぁ?」

 そんなあたし達のやり取りを、遠巻きに見ていた他の社員の中を縫って、甘ったるい、高い声が振ってきた。
 振り返り見上げると、篠塚さんが、あたしと野口くんを交互に見ながら言った。
 瞬間、食堂中がしん、と、波打つように静かになる。
 その反応に、内心苦笑いだ。
 ――どれだけ興味津々よ。
「違います。――正式に彼氏ですが」
 すると、淡々と野口くんが返す。
 その冷静さに、彼女は一瞬たじろいだ。
「え、でも、杉崎主任、彼氏いないって言ってましたよねぇ?」
「あなたに言う必要、無いでしょう」
 あたしは、そう言って、視線をそらす。
「もういいかしら」
「えぇー、藍香(あいか)、もうちょっと、お話聞きたいなぁー」
 何となく疑われている気がして、あたしはチラリと野口くんを見やる。
 すると、彼は、大きくため息をついて、こちらを見た。

「茉奈さん、すみません」

「え」

 瞬間、頬をかすめていく何か。

 一拍置いて、食堂中に叫び声が響き渡った。


 ――……え?あれ?

 ……何、今の……。


 あたしが硬直していると、篠塚さんが、興味深そうに、こちらを見ている。

「うわぁー!ほっぺチューなんて、新鮮ー!」

 事実を述べる彼女に、ようやく自分の置かれた状況を認識した。
「――別に、後ろめたい事しているつもりは無いんで。まだ、疑いますか?」
 当の野口くんは、そう言って、何でもない事のように篠塚さんを見やる。
 ――何で、そんな平然と……!
「……っ……い、行こう、野口くん!」
 あたしは、お弁当を雑に片付けると、立ち上がって、彼の手を引き食堂を出た。
 全速力で歩くと、すぐにエレベーターに乗り込む。
 隣で、壁に背を預けた野口くんは、手で口を押さえて、あたしを見下ろした。
「……すみません……。粘られそうだったんで……」
 あ、平然としてた訳じゃなかった。
「――……それはそうだけど……ごめん、ホント、会社ではやめて」
「……すみませんでした……」
 耳まで真っ赤になった野口くんは、体勢を直すと、気まずげに頭を下げた。
 恋愛初心者の野口くんには、苦肉の策だったんだろう。
 でも、あの場を収めるのは、あたしには無理だった。
「……まあ、これで少しは矛先が変わればいいけど」
「――はい」
 それが、お互い犠牲を払ってまで得たいものだ。

 ――ひとりきりの、平穏な生活。
 誰にも、干渉される事はない。
 そこに、ほんの少しの楽しみがあればいい。

 あたし達が望んでいるのは、そんなささいな事なんだ。
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