ミューズな彼女は俺様医師に甘く奏でられる
 病院にグランドピアノとはいささか似合わないが、ラグジュアリーなインテリアにしては手入れが行き届いていた。

 ヴァイオリンを弾く者はピアノも弾ける傾向がある。それこそ私が最初に触れた楽器はピアノだ。

 ほこりひとつ付着していない曲線をひとしきり堪能すると鍵盤に触れてみる。ポーン、調律された音色が返ってきてニヤつく。ここ暫く、指を休める為にヴァイオリンから離れざる得なかった。ピアノに触れ、その反動が込み上げる。
 気付けば椅子を引き、齧りつくみたいに奏でていた。

 『チャルダッシュ』は父が生きていた頃、彼の伴奏でよく弾いており、日曜の朝は母を観客に見立てた演奏会をするのが我が家の恒例だった。

 前半の伸びやかな旋律から一気に弾き抜くフリスカのタイミングで私達は顔を見合わせ、粒が揃った音が未熟なヴァイオリンを誘導する。

 私が躍動感を表現しきれない指をもどかしく思えば、父は決まって瞳を細めて言う。

『桜はきっと良いヴァイオリニストになれるよ。いいかい? 君は音楽に愛されるのではなく、音楽を愛しなさい』

 音楽を愛しなさい、これが父の口癖。ヴァイオリニストとして大成したかと問われれば、商業的な意味合いではしていないと答える。しかし、父は私が目指す奏者。そして母だって、ガラス細工みたいに繊細な彼を愛していたはず。

 痛みに構わず鍵盤を叩く。演奏を聞きつけ周囲に人が集まりだしたが止まらない。溢れる感情を指先に乗せる。

 一度目の結婚を経歴から消し去って生きる母が許せない。母は愛よりお金を選んだんだ。
 だからこそ、私だけは愛の無い結婚など絶対しない。

「何をしているんだ!」

 真田氏の叫び声で我に返る。
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