ミューズな彼女は俺様医師に甘く奏でられる
 高橋の気配が消えるのを待ち、息を吐く。我々医者は時折、痛みに対して残酷なまで鈍くなる。ならざる得ないとも言えるが、伊集院桜の症状を重く受け止める同業者は多くない。
 腱鞘炎ーードケルバン病の手術難易度は難しくない。入院の必要はなく日帰りで帰れるケースが大半だ。

 パソコンを開き、資料として集めた彼女の演奏を流す。ヴァイオリンを弾くには顎、肩、肘、手首のバランスが大切。

 ドケルバン病を発症する前と後ではヴァイオリンを構えるフォームが全然違うのが分かる。ステロイド注射を限界までうち、腱は伸び切っている可能性が高い。このまま放置しておいても改善はせず、最悪、腱が切れてしまう。

 では何故、海外の医師が伊集院桜の手術を引き受けないのかーーそれは彼女が腱の維持ではなく元通りにして欲しいと強く望むからだ。はっきり言えば、その願いは叶えられない。

 人間は悲しいかな、歳を重ねた分だけ肉体は劣化する。避けられない宿命だ。

 クラシック界の最前に身を置きながら昼夜問わず、寝る間も惜しんで弾き続ければ手首も悲鳴をあげよう。一体何がそこまで彼女を急き立てるのか、本人はおろか誰も知ろうとしていない気がする。

 画面はチャルダッシュを弾く場面へ。日付は約三年前。メイクやドレスも今程の派手さがなくて垢抜けない。彼女の演奏は当初、令嬢の手慰みと揶揄され記念すべき日本公演は定員割れしていたと記憶する。
 俺が伊集院桜を知ったのはこの頃だった。
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