ミューズな彼女は俺様医師に甘く奏でられる
 彼は本気で帰ろうとしている。慌てて背中を追った。

「ま、待って! 私の話をーー何処に行く気ですか? 私から逃げるつもり?」

「だから肉を食いにって言った。付いてくれば話も聞いてやるし、玩具を買ってやるとも言ったぞ?」

「子供扱いしないで! 玩具なんか要らないし!」

 周囲は代休を把握しているようで、すれ違う際にお疲れ様でしたと声を掛ける。そして真田氏のシャツの裾を引っ張る私へ視線を流し、見ない振りした。

「……荷物を持ってくる。話はちゃんと聞いてくれるのよね?」

「あぁ、聞く。指切りでもするか?」

「指切りするくらいなら腕を切って、手術して」

「それは追々、な? 駐車場で待ってる。あぁ、あのサングラスと帽子はしなくていいからな」

 まんまと彼の策にハマった感が否めない。真田氏は明らかに私を外へ連れ出そうとしていた。

 また私も私で“執刀医を変える”という有効な手札を持ちながら、それを使わない。普段の私ならば迷わず使っていただろう。

「カフェインって怖い」

 そんな上手く説明出来ない気持ちは、コーヒーが飲めないせいにしておく。



「素顔で街に出て、マスコミ対策は大丈夫なんですよね?」

 真田氏の車の後部座席に乗り、ルームミラー越しに尋ねる。

「こういうのはコソコソするから余計に目立つんだよ。別に悪い事をした訳じゃねぇんだし、堂々としていればいい。
 第一、クールなミューズがショッピングモールに行くはずないって皆は思ってるだろうよ」

「クールなミューズ。その呼び方、やめてくれません?」

「すまない、やめよう。それであなたは俺を何と呼んでるんです? 心の中で」

「真田氏」

「……それこそやめてくれ。なんなら若干、傷付いたんだが。予想していたより他人行儀だな」

「どう呼べと? ドクター?」

「じゃあ、慎太郎で。アメリカはファーストネームで呼び合うんだろう?」

「オッケー、慎太郎」

「お、おぅ。さ、さ、桜」

 私は軽く返したつもりだった。けれど真田氏改め慎太郎は耳を赤く染める。
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