ミューズな彼女は俺様医師に甘く奏でられる


「君が橘さん? はて、何処かで会ったことあるかな?」

 ここはツインタワーのラウンジ控室。私はオーナーの質問に首を振る。

「そうかい。それにしても素晴らしい経歴だね、どこかの楽団に所属している?」

 また首を振る。あまり頭を振るとウイッグがズレてしまうかもしれない。
 スタイリストが不在のドレスアップはいまいち決まらない。ただそれが良かったのか、周囲に新米ヴァイオリニストとして扱われる。

「ここでは状況に応じて演奏曲を選定し、お客様からリクエストを頂く場合もある。レパートリーは多いようだが、即興は出来るか?」

 頷く。コミュニケーション力が乏しい私にオーナーは少々不安そう。伴奏を務める男性が私の肩を叩き、頑張ろうなと声を掛けてくれた。

 本番前、ウォーミングアップを兼ねて軽く弾いてみる。エミリーも考え、高価過ぎないヴァイオリンを用意してくれた。

「ほぅ、いい音を出すね」

 演奏を聴き、オーナーの不安は解消された様だ。私も久し振りの音色に身体が熱くなり、早く弾きたくて店内をこっそり覗く。

 照明を最小限に落とし、語らう老若男女。ここではゆっくり時間が流れて、グラスは各々の世界で満ちる。真紅のワイン、ピンクのシャンパン、海の色したカクテル、眺めているだけで心地よさに溺れてしまいそう。

 ーーと、そこへ三人組がやってきた。夜景が一番美しく見下ろせる席へ案内される背中達を目で追い、エミリーの情報が正しかったと唇を噛む。

 慎太郎に此処へ来る旨を伝えていないが、あちらも私に言っていないのでお互い様だ。
 この位置からじゃ会話は聞こえないものの、母は上機嫌みたい。明らかに目立っている。
< 64 / 94 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop