ミューズな彼女は俺様医師に甘く奏でられる
 腕の痛みが無くなった訳じゃない。親指の付け根が引き攣り、音色が捌き難い。それでも哀愁漂うラッサンから、躍動感溢れるフリスカへ切り替わる瞬間はわくわくする。

 父が好きだったチャルダッシュはハンガリー語で酒場を由来し、仲間で楽しくダンスをする為に作成された曲。

 速いテンポにピアノがついてこれなくても、私は微笑み急かさない。音楽は楽しむものだ。譜面通り弾けなくてもいい、全身で思い切り奏でてみよう。

 今夜はお行儀の良い演奏はやめ、観客にウィンクしたり、ジャンプをして、弓をくるくる回す。

 すると一組の夫婦が曲に合わせてダンスを始め、私は彼等の隣まで行きヴァイオリンを鳴らす。ピアニストの気分も段々と高まり、腰を上げて鍵盤を叩く。

「……桜」

 誰かが私の名を呼ぶ。それは記憶の中の父のようで違う。

 声がする方へ振り向く。

「あなた……どうして、フィリップ」

 母が立ち上がり、小刻みに震えていた。
 泣いているのも、父の名を呼ぶのも久し振りだ。

「フィリップ」

 母の声は切なく、まるで死別した夫を恋しがるように。

 演奏を終え、盛り上がった四方へ手を振りつつ下がろうとしたが、慎太郎に捕まる。ウィッグをつけた状態で両親が座る席へ通された。

「こんな所で何してるの?」

 興奮冷めやらぬ精神状態のまま、母へ強く問う。
 ピアニストや周囲に私が伊集院家の関係者であると知られ、気まずい。目が合っても避けられてしまう。伊集院とは当たらず障らずが適正距離だから。

「その言葉をそっくりそのまま返す。桜、ここで何をしている?」

 母の代わりに慎太郎が尋ねてきた。
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