ミューズな彼女は俺様医師に甘く奏でられる
 二手に別れ、先輩は引き続き商業施設が豊富なサウスエリアを巡回。俺はノースエリアを担当する。

 閑静な住宅が並ぶノースエリアは既に夢を見ているように灯りが消えていた。一度、伊集院邸へ寄ろうか考えていると着信が入る。

「もしもし? あぁ、連絡を差し上げようと思っていたところでした」

「それはありがとうり妻は薬が効いてきたみたいで先程ベッドへ。桜を探させてしまい、すまない」

 ハザードを焚き、車を脇へ寄せた。

「いえ、伊集院さんは奥様の側にいて下さい。お嬢さんは俺が必ず見付けますから」

「お嬢さん、か。私は桜の父親失格だろうね。桜の演奏を聴いた妻が前の夫の名を呟いた時、怖くなってしまった。妻が私の元を離れていくんじゃないかって」

「あのチャルダッシュはとても良い演奏でした。ドクターストップを掛けられなかったです」

 目を閉じれば桜の演奏が蘇る。あの日、レストランで初めて聴いた音色以上だった。彼女はミューズだ、断言できる。

 もしも、桜からヴァイオリンを奪う事態となれば俺は音楽の神様を呪う。

「あぁ、あんな楽しそうにヴァイオリンを弾く桜を初めて見たよ。私も妻も桜からヴァイオリンを奪おうとしていたんだ。桜の音色はフィリップさんを蘇らせる」

 伊集院夫妻はお互い通じ合いながらも、心の片隅で不安を拭えなかった。前夫フィリップさんのメロディーを受け継ぐ桜と上手く付き合えず、関係を悪化させてしまう。

 しかし、こうも感じたんだーー伊集院さんは胸の内を明かす。

「私はフィリップさんを愛していた妻を愛している。そして妻の愛する娘も自分の娘として愛したい。フィリップさんを無理に忘れなくていい、恐れず彼の遺した音楽を楽しめばいいんだ」

 伊集院家の長い間空回りしていた歯車がやっと噛み合い、正常に動き始めて家族として進もうとしていた。

(あとは桜を見付けるだけ)

「今、ノースエリアに来ているんですが、確かこの辺りに伊集院家が所有する別荘があるんですよね?」

「あぁ、あるよ。桜にカードキーを渡してあるーーもしかして、そこに?」

「その可能性はありますね!」

「分かった。今すぐ地図を送る」

(桜、どうか別荘にいてくれ)

 ワイパーをもう一段回早める雨脚は、じきに雷を連れてくるだろう。
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