かりそめ婚のはずなのに、旦那様が甘すぎて困ります ~せっかちな社長は、最短ルートで最愛を囲う~
「この部屋を使ってくれ」

 寝具を運びながら、拓斗は部屋に案内してくれた。
 リビングを挟んで、彼の寝室とは反対側にある部屋だった。
 壁の一面は作りつけの本棚が占めていて、難しそうな本がいっぱい入っていた。
 あとは一人用のソファーがあるだけのシンプルな内装だ。
 でも、望晴(みはる)の住んでいた部屋より広い。

「クローゼットはからっぽだ。自由に使ってくれ。ここの本は保管用で、めったに読まないものだから、部屋に入ることはない」
「ありがとうございます。でも、必要になったら、私は構いませんので、どうぞご自由に出入りしてくださいね。由井様のお部屋なんですから」

 気遣いに感謝して望晴が言うと、拓斗が顔をしかめた。

「その由井様っていうのはどうにかならないか?」
「すみません。それでは、由井さんとお呼びしても?」
「あぁ、そうしてくれ」

 拓斗はうなずいてから、付け加える。

「家のものは適当になんでも使っていい。冷蔵庫の中のものもだ。前の家政婦の残していった食材もある。そういえば、食費を渡しておこう」

 そう言った拓斗は懐から財布を出し、お札を抜きとった。
 それは明らかに十万円ぐらいありそうな束で、彼はこともなげに望晴に渡そうとする。

「現金をあまり持ち歩かないから、これだけしかないが」
「い、いいえ! 十分です!」

 拓斗に札束を押しつけられた望晴は挙動不審になってしまう。
 そのお金を自分の財布に入れる気はしなくて、どこで保管しようかキョロキョロする。

「あの、封筒かなにかいただけませんか? お金を入れるための」
「会社の封筒がどこかにあったな」

 別の部屋でごそごそしていた拓斗は封筒を手に戻ってきた。

(いったい何部屋あるのかしら?)

 寝室とこの部屋以外にもまだ部屋があると知って、掃除が大変だと思った。

「これでいいか?」
「はい、ありがとうございます」

 もらった封筒にお金を入れて、落ち着いた望晴だったが、次の拓斗の言葉にまた慌てた。

「ついでに報酬を決めておこうか。週三回家政婦に来てもらって、月二十四万払ってるから、それでいいか?」
「二十四万円ですか!?」
「少ないか?」
「いえいえ、そんなのいただくわけにはいきません。住むところを提供していただけるだけで有難いのに」

 驚いた望晴は首を横に振る。
 対する拓斗は不満げに首を傾げる。

「だが、毎日料理を作ってもらおうと思ってるんだ。正当な報酬だろう?」
「料理するのは当然です。私も食べますし。でも、プロのような料理は作れませんので――」
「もちろん、そんなことは思っていない」

 報酬額を聞いて、拓斗の期待値が高すぎるのではないかと望晴は不安に思ったが、そうでもないらしい。

(由井様……いいえ、由井さんはどういうつもりなのかしら? ただの親切?)

 物入りだろうと言われたのを思い出す。
 確かに、今日だけでも着替えその他に散財せざるを得なかった。貯金はそれなりにあるので、すぐに困るということはないが、新たに部屋を借りたり、家財道具を揃えるにはお金がかかるだろう。
 それに気を使ってか、布団代や食事代は拓斗がさっさと払ってしまって、望晴に払わせてくれなかった。

(施し? それは嫌だわ)

 同情して部屋を貸してくれる気になったのだろうが、過度な待遇は望晴のプライドが許さなかった。
 だいたい、アパートは火災保険に入っているから、保険が下りるはずだ。
 望晴はきっぱり言った。

「とにかく、そんな大金は受け取れません。この部屋をお借りできるだけで十分です。そのお礼に料理もしますし、掃除もしますから。そういえば、お洗濯はどうなさっているのですか?」

 拓斗はまだ不満そうだったが、望晴は話題を変えた。

「クリーニングに出してる。コンシェルジュのところに持っていけばクリーニングに出してくれるから、君も使うといい」
「まさか下着もですか?」
「あぁ、そうだが?」

 聞き返した望晴を拓斗は不思議そうに見る。
 住む世界が違うと望晴は頭を抱えたくなった。

「洗濯機はないんですか?」
「あるが、使ってない」
「使ってもよろしいでしょうか?」
「さっきも言ったが、この家にあるものは自由に使っていい。ただ洗剤を買ってこないといけないが」
「承知しました」

 そのあと、望晴はこれからの生活のことを軽く拓斗と打ち合わせた。
 朝食はパンでもご飯でもいいから七時半には用意してほしいということだ。八時に出かけるそうだ。
 そのために起きなくても作り置きでいいと言うが、望晴もいつもそれくらいに起きるので、苦ではない。
 夕食は望晴が帰宅するのは八時過ぎになるから、それから作ると九時ごろになるが、拓斗も九時前に帰ることはまずないから大丈夫だということだ。
 彼女の生活サイクルにマッチしていて有り難い。
 掃除をする気満々でいたが、週一でハウスクリーニングが入るから、簡単に片づけをすればいいらしい。

(さすがセレブ!)

 生活レベルの違いに驚くことばかりだ。
 とりあえず、その日は風呂を用意して、拓斗に先に入ってもらう。

「お先」

 リビングでテレビを見ていた望晴に、パジャマ姿の拓斗が声をかけてくれた。
 いつもはセンターで分けている前髪が下りていて、その間から見える切れ長の目がセクシーだ。くつろいだ姿を見ると、急に親密度が増したようで、ドキドキした。
 速くなった鼓動を抑えて、望晴は立ち上がる。

「じゃあ、私もお風呂に入らせていただきますね」
「あぁ、おやすみ」
「おやすみなさい」

 拓斗は寝室に入っていった。
 パジャマを持って、望晴も浴室へ行く。
 浴室は望晴のアパートのものの倍ぐらいのスペースで、浴槽も脚が完全に伸ばせるほど広い。

「ふぅぅぅ……」

 温かい湯につかり、望晴は伸びをした。
 今日はいろんなことがありすぎて、くたくただった。

(まさか、由井さ……んの家でこうしてお風呂に入ることになるとは思わなかったなぁ)

 火災に遭うなんて思ってもみなかった。
 路頭に迷うところだったのに、こんな至れり尽くせりの条件で住まわせてもらえるなんて、驚きだ。
 彼に感謝して、一日を終えた。
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