かりそめ婚のはずなのに、旦那様が甘すぎて困ります ~せっかちな社長は、最短ルートで最愛を囲う~
急いで会計してもらおうと、望晴は立ち上がる。
望晴から伝票を受け取りながら、藤枝がたしなめた。
「そんな言い方しなくてもいいじゃない、拓斗。気をつけないと、西原さんに愛想を尽かされるわよ」
拓斗は眉をひそめたが、なにも言わず、ぷいっと外に出てしまう。
「ここの会計は拓斗につけておくからいいわよ」
「あの、私たちは……」
「いいからいいから。ほら拓斗がじりじりしてるわよ」
藤枝が自分たちの関係を誤解したままなことに気づき、望晴は訂正しようとしたが、拓斗を待たせるのも申し訳ないと、彼女はぺこりと挨拶して、店の外に出た。
きっと後で拓斗から訂正されるだろうと思ったのだ。
望晴が近づくなり、拓斗は歩き始めた。
それとなく、辺りを窺いながら、望晴は後に続いた。
先ほどの男の姿は見当たらなくて、小さく息を吐く。
そんな望晴を見て、拓斗はぼそりとつぶやいた。
「……大丈夫か?」
「え?」
「顔色が悪い」
ぶっきらぼうな言い方なのに、内容は優しい。心配してくれているようだ。
胸が温かくなって、望晴は微笑んだ。
「由井さんが助けてくれたから、大丈夫です。本当にありがとうございました」
「別に、通りかかっただけだし」
望晴はそっけなく返す彼の綺麗な顔を見つめた。
「どうして、そんなに親切なんですか?」
思わず問いかけた望晴を、拓斗は戸惑ったように見た。
「親切? 僕が気になるだけだ。君を一人残してまた変な男に絡まれないかと気にするより、送っていったほうが手っ取り早い。言っただろう。気になることが頭にあり続けると余計なリソースが割かれる。それくらいなら、問題をさっさと解決したほうがいい」
気になると言われて、ドキッと心臓が跳ねた望晴だったが、彼の後半の台詞を聞いて、どう考えたらいいか、わからなかった。
彼は目の前になにか問題があったら、解決しなくては気が済まないたちなのかもしれないと思った。
「でも、普通、気になるだけで、自宅を提供する人はいませんよ」
「まぁ、それは乗りかかった舟のようなものだ。たまたま事情を知ってしまった以上、見過ごせなくなっただけだ」
「それが親切だって言うんですよ」
「そうか? 冷たいと言われることはあれ、そんなこと初めて言われたな」
確かに拓斗の態度は誤解されやすいかもしれない。クールな顔でズバズバと思ったことを言い、せっかちで情緒がない。でも、行動は優しい。
(もったいないな)
なかなか感情の出ない彼の顔を見て、望晴は思った。
でも、どちらにしても優しい心の持ち主だということには変わりない。
モールを出て、客待ちをしていたタクシーに乗る。
ノースエリアへ入る門をくぐると、望晴はほっとした。
ナンパしてきた男がたとえ追いかけてきたとしても、ここには入ってこられないからだ。
そもそも追いかけてくるはずはないのだが、敢えてそう考え、自分を落ち着かせようとした。でも、まだ手は震えている。
望晴はちらっと拓斗の横顔を見た。
彼に迷惑をかけることになるかもしれないから、ちゃんと話しておこうと思った。
「実は昔、ストーカー被害に遭って、それ以来男性恐怖症になってしまったんです。だから、さっきも怖くて声が出なくて……」
驚いたように拓斗は望晴を振り返った。
「でも、僕とは普通に接しているし、普通に働いているようだが?」
「カウンセリングを受けて、だいぶよくなったんです。男性恐怖症といっても、仕事だと思うと大丈夫で、採寸とかで自分から触る分には問題ありません。でも、ふいに触れられるのはまだだめですね」
「だから、さっき僕が肩に触れたとき、こわばっていたのか」
「すみません」
「いや、気にしなくていい。不用意に触った僕が悪い」
「いいえ、由井さんはかばってくれただけなので」
謝られて、反対に申し訳なくなる。
それと同時に、望晴は肩に置かれた手の感触を思い出し、顔が赤らんだ。
(嫌ではなかったわ。むしろ……。ん? むしろ?)
びっくりしただけで、今思うと、むしろときめいた。
拓斗はいつも手を差し伸べてくれる。
(こんなの勘違いしちゃいそうになるわ。由井さんは親切なだけなのに)
注意しようと思いつつ、自分が久しぶりにそんな気持ちになったことをうれしくも感じた。
「ところで、母とはどういう知り合いなんだ?」
「そういえば、藤枝さんが由井さんのお母様だなんて、驚きました。藤枝さんとはあのカフェに通ううちに顔なじみになって、お菓子の感想を言っているうちに仲良くなったんです」
「あぁ、あの溢れだすような感想か。母が喜びそうだな」
ふっと口もとを緩めた拓斗に望晴は一瞬見惚れた。めったにない笑顔に胸がとくんと高鳴る。
でも、自分が笑われていると気づいて、少しふくれる。
「だって、好きなんだから、仕方ないじゃないですか!」
「あのときも思ったが、君はお店にいるときと雰囲気が違うんだな」
「すみません」
ブティックで働いているときには、穏やかで丁寧を心がけていたけど、プライベートでは子どもっぽさがにじみ出ていたかもと、望晴は反省した。
「いや、おもしろいと思っただけだ。僕はそんなに意欲を燃やすものがないからな」
「拓斗さんはお仕事を頑張っているじゃないですか」
「僕にとっての仕事は……。いや、なんでもない」
時間を惜しんで働いている彼にそう告げると、拓斗はなにか言いかけて、首を振った。
そんなことを話している間に家に着き、拓斗ははるやの紙袋を置いて、書類封筒を手に会社へ戻っていった。
はるやカフェのあとにぶらぶらと買い物でもしようと思っていた望晴だったが、ナンパ男の登場に心が乱れて、それどころではなくなった。
「ふぅぅ……」
ソファーに腰かけ、深い溜め息をつく。
ストーカーのことを思い出してしまって、胸がざわめく。みぞおちがきゅうっと詰まるような感じになる。
(ここにいさせてもらえてよかった)
一人暮らしだったら、不安で仕方ないところだった。
家に一人でいても落ち込むだけなので、望晴は食材を買いに行くことにした。
幸い、ノースエリア内にスーパーマーケットがある。高級スーパーだが、拓斗から食材費をたっぷりもらっているので、問題ない。
「沈んだときには肉よね! いいお肉買ってきちゃおう!」
自分を鼓舞するようにつぶやいて、望晴はふたたび外出した。