かりそめ婚のはずなのに、旦那様が甘すぎて困ります ~せっかちな社長は、最短ルートで最愛を囲う~
 望晴は思考が凍りついたように止まったまま、気がつくと家に帰り着いていた。
 夕食をとるのも忘れていた。
 ソファーに座り込む。

(拓斗さんでも、好きになったら口説くんだ……)

 あんないきいきと話している彼は知らない。
 仕事だからか、水樹社長だからなのか。
 自分は拓斗に心配をかけて、仕事の邪魔になるだけだったが、彼女は違うのだろう。きっと対等なパートナーとして、拓斗に必要とされている。
 本当の夫婦になれるかもと思っていたのは望晴だけで、拓斗のほうは彼女を重荷に思っていたのかもしれない。ただ優しいから切れなかっただけで。
 拓斗はきっと水樹社長が熱を出してもお粥を作ってあげるのだろう。
 望晴が特別なわけじゃない。彼女はたまたまちょうどいいタイミングで拓斗のそばにいただけだ。

 ポタッ、ポタッ……。

 涙が頬を伝って膝に落ちる。

(好きだったのに……。これからどうしたらいいんだろう……)

 結論は決まっているのに、考えたくなくて、望晴は思考を停止した。
 どんな顔で拓斗に会えばいいのだろうと心配していたが、それは杞憂で、その日の拓斗の帰りも遅く、翌朝も望晴が起きたときには出たあとだった。
 顔を見ることもできなくて、望晴はまた涙をこぼした。
 タイミング悪く、その日は定休日だったので、働いて気を紛らわすこともできない。
 仕方なく、気分転換に部屋の掃除をすることにした。
 なにか作業をしていたかった。
 自分の部屋やリビングなどに無心で掃除機をかける。
 最後に拓斗の部屋に入った。
 掃除機をかけながら、部屋の主のことをつい考えてしまう。
 ダメだと首を振った拍子に、掃除機が棚にぶつかって、そこに置いてあった箱を落としてしまった。

 バサバサバサッ。

 中に入っていた書類が床に広がる。
 慌てて拾いあげた望晴は、『離婚届』の文字が見えて、固まった。
 それは拓斗の名前だけが書かれた離婚届だった。

「あぁ……」

 望晴は立っていられず、床にぺたりと座り込んだ。

「やっぱりそういうことね……」

 ボロボロと涙があふれて止まらない。
 泣いて泣いて泣いて。
 望晴は泣きつかれると、のろのろと立ち上がった。
 すっかり身体が冷えて、こわばっていた。
 リビングに移り、震える手で離婚届に署名する。

(これで、終わり……)

 それを見ていると、また涙が出てきたので、裏返しにして、そこに付箋を貼った。
 『お世話になりました』と書いたあと、どう続けようか迷って、結局『ありがとうございました』とだけ書いた。拓斗には感謝しかなかったから。
 のろのろとカバンに身の回りのものを詰める。アパートから焼け出されてなにもなかったのに、いつの間にか、荷物が増えていた。大きなカバンはなかったから、店のショッパーにも入れる。
 荷物を抱えた望晴はロビーでカードキーをコンシェルジュに渡した。

「すみませんが、由井さんに渡してもらえますか?」
「ご旅行ですか?」

 コンシェルジュに聞かれて、望晴はあいまいな笑みを浮かべた。
 泣きはらして、紙袋をいくつも持った彼女は不審に思われてもしかたがない。
 それ以上聞かれる前に会釈して、マンションを出た。
 コンシェルジュはなにか言いたそうだったが、引き留めることはしなかった。
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