曇りのち晴れ、SWAN航空幸せ行き〜奥様はエリートパイロットともう一度愛しあう〜
第五話
夜勤明けで希空が家に帰ってくると、しん……としずまりかえっている。玄関には夫の靴はない。
「理人さん、早番だったはず……あ」
夫はとうとう希空のもとに帰らないことを決断したのだ。
「潮時だったんだ……」
つぶやくと同時に涙が流れた。
「なにが潮時なんだ」
夫がシャワーを浴びたばかり、という格好で出てきた。
希空は迷った。ここで誤魔化してもいずれは対決する。あとは早いか遅いかだけ。
決心した彼女は、ストレートに告げた。
「離婚しよう」
「いやだ」
意味がわからない。
「どうして。この結婚は会社と和解するための手段だったんでしょう? もういい、十分に理人さんは義務を果たしてくれた。だから今度こそ、本当に愛する人と幸せになって」
嘘だ。本当は他の女性のところになんか行かないで。自分と幸せになって。そうすがりたいところだったが、なんとか言い切る。最後だけは本心だ。
微笑もうとしたが、失敗した。
理人が近づいてきて、頬に手を添えられる。顔をあげさせられた。けれど目を逸らせば、覗き込まれる。
「それは誰から聞いた話だ? 俺からじゃない」
「それは」
希空は言い淀む。
「なにを勘違いしているのか知らないが、俺は本当に愛している人と結婚しているよ」
希空は、自分が極限まで目を見開いているのがわかった。
「君に俺が幸せじゃないように見えているとしたら、それは俺が希空を不幸にしたせいだ」
そんなことない、とうまく微笑まなければならないのに。
「俺達の披露宴の日になにがあったか、ようやく知った」
夫の言葉を聞いた途端、体が反応してしまった。
あの女性のことが、フラッシュバックして蘇ってくる。どうしようもなく震え、冷たく凍えてくる体。息ができない……!
「希空、大丈夫だ。ゆっくり息を吸って」
そんな自分を、理人が抱きしめてくれる。
宥めようとしてくれているのだろう、髪を撫でてくれる手や背中を上下していく手に体を委ねる。
だんだん、呼吸が穏やかになってきた。
「昨日。ミカに手伝ってもらって、あの女やその妹と対峙した」
理人はかいつまんで昨日の夜のことを話した。希空が目を丸くする。
「あの女が君にほざいた言葉を一言一句聞いたが、全部嘘だ。俺が会社に提示されたのは披露宴だけで、それだって断っても良かった」
理人は確かに断りたがっていた。それなのに、希空が無理やり意見を通してしまったのだ。
「ごめ、んなさい」
謝れば、抱きしめてくれたまま囁かれる。
「希空の立場なら俺だってそうした。君は良識のある社会人として、一サラリーマンである俺の立場を慮ってくれただけだ」
愛おしそうに理人から頬を擦り寄せられる。
希空はたまらず彼にしがみつく。
すると、ますますキツく抱きしめてくれる。
「すまなかった、俺のせいで辛い想いをさせた」
視界がぼやけ、双眸から熱い雫が流れてくるのを感じ取る。
夫の唇が近づいてきて、涙を吸い取ってくれた。
見上げれば、彼の目がとても甘い熱情を湛えて自分を見つめている。
「俺には希空だけだ。空を飛びたい希望のほかに初めてほしいと思ったのが希空、君だ。愛している」
理人が懸命に訴えてくる。
「俺は君が得られるなら、他のものはなんにもいらないんだ。お願いだ、一生俺の隣にいてほしい」
思い出せば、彼はいつも変わらぬ愛を送ってくれていたのに。
「ごめんなさい、私が理人さんを疑ってしまった」
ちゅ、ちゅ、……と、理人の唇が希空を溶かすように何度も降りてきた。
希空は目を閉じて受けとめる。
「あの日、希空になにが起こったのか、必死に考えた。希空が出ていったあとに退室したあの女を思い出さなければ、俺は君が俺に飽きたのかと今でも勘違いしていただろう」
理人は一生懸命問題を探り、解決しようとしてくれたのだ。
「私が、理人さんに相談していれば……」
「俺のほうこそ。俺一人の力で解決できず、希空を長く苦しめてしまった」
涙が止まらなくなったが、今度は嬉し涙だった。
希空はあの日からの苦しみや悲しさを流してしまおうと、涙がこぼれ落ちるに任せる。
しばらくして。
「……止まった?」
「うん」
鼻をぐしゅぐしゅしながら、希空は返事をした。彼女を抱きしめてくれている夫の体が冷えてしまっている。
理人も気がついた。
「希空、一緒に入ろう。今は君と一秒も離れていたくない」
自分も夫と同じ気持ちだった。
「希空」
キスされながら服を脱がされていく。夫に伴われて浴室に入れば、バスタブに湯が張ってあった。
「そろそろ希空が帰ってくる時間だなと思って湯を溜めておいた」
「……なんで理人さんは朝からシャワーを浴びてたの」
「毒を浴びてたから、ミカと禊をしてたんだ」
親友とワインを飲みながら夜を明かしたのだと教えてくれる。
希空は彼の靴がないことを思い出した。
「靴はどうしたの?」
一日以上履いていたからベランダで日光浴させている、と。なんのことはない話だった。
希空は勇気を出して、体の向きを変えると夫と向き合う。
「レセプションの時、『失敗した』って呟いて不機嫌だったのはどうして?」
「聞こえてたのか……」
理人が顔を逸らすが、希空は彼の両頬をつまむと、自分の目の前に引き戻した。
夫は痛いよと文句を言いつつ、希空の視線に負けて告白する。
「あのドレスは君を引き立てるのに最高だった。だが、ドレスを着た希空があまりに素敵過ぎて、失敗した。他の野郎どもがジロジロみるのが気に食わなくて」
独占欲をあらわにしてしまった、と告白された。
「……ホールドが強いなと思っていたんだけど……」
やきもちだったのだと知り、今さらに希空は気持ちが明るくなった。
「レセプションの夜にも伝えたぞ?」
夫にじろりと睨まれたので、希空は真っ赤になる。
「あの時は久しぶりに愛されて、気持ちよくて夢中になっちゃってて……」
「これで許してやる」
頬を甘噛みされた。
希空は夫の首にしがみつくと、彼の耳元で謝った。
「私、いちいち悪いほうに考えちゃって……ほんと、ごめんね……」
理人の肩に頭を預けてしょぼんとしていると、顎を掴まれて唇を重ねられた。
「俺はシップに乗っている以外は希空のことを考えていたい男だから、浮気をする暇がない」
彼がキッパリと言ってくれたから、希空はようやく笑うことができた。
二人の唇が触れ合う。
理人が恐ろしく真剣な顔になった。
「希空。リヒト(Licht)って、ドイツ語で『ひかり』って意味。キザだけど、俺は希空の曇りを吹き飛ばす、『ひかり』でありたい」
止まらない涙のなか、希空は微笑む。
「理人さんは、いつだって私を明るい世界に連れていってくれるの」
「希空。俺の奥様、愛してる」
「理人さん……、あなた……」
レセプションの晩と同じくバスルームで愛し合ってしまったが、あの日と違って翌朝の希空はとても幸せだった。
「理人さん、早番だったはず……あ」
夫はとうとう希空のもとに帰らないことを決断したのだ。
「潮時だったんだ……」
つぶやくと同時に涙が流れた。
「なにが潮時なんだ」
夫がシャワーを浴びたばかり、という格好で出てきた。
希空は迷った。ここで誤魔化してもいずれは対決する。あとは早いか遅いかだけ。
決心した彼女は、ストレートに告げた。
「離婚しよう」
「いやだ」
意味がわからない。
「どうして。この結婚は会社と和解するための手段だったんでしょう? もういい、十分に理人さんは義務を果たしてくれた。だから今度こそ、本当に愛する人と幸せになって」
嘘だ。本当は他の女性のところになんか行かないで。自分と幸せになって。そうすがりたいところだったが、なんとか言い切る。最後だけは本心だ。
微笑もうとしたが、失敗した。
理人が近づいてきて、頬に手を添えられる。顔をあげさせられた。けれど目を逸らせば、覗き込まれる。
「それは誰から聞いた話だ? 俺からじゃない」
「それは」
希空は言い淀む。
「なにを勘違いしているのか知らないが、俺は本当に愛している人と結婚しているよ」
希空は、自分が極限まで目を見開いているのがわかった。
「君に俺が幸せじゃないように見えているとしたら、それは俺が希空を不幸にしたせいだ」
そんなことない、とうまく微笑まなければならないのに。
「俺達の披露宴の日になにがあったか、ようやく知った」
夫の言葉を聞いた途端、体が反応してしまった。
あの女性のことが、フラッシュバックして蘇ってくる。どうしようもなく震え、冷たく凍えてくる体。息ができない……!
「希空、大丈夫だ。ゆっくり息を吸って」
そんな自分を、理人が抱きしめてくれる。
宥めようとしてくれているのだろう、髪を撫でてくれる手や背中を上下していく手に体を委ねる。
だんだん、呼吸が穏やかになってきた。
「昨日。ミカに手伝ってもらって、あの女やその妹と対峙した」
理人はかいつまんで昨日の夜のことを話した。希空が目を丸くする。
「あの女が君にほざいた言葉を一言一句聞いたが、全部嘘だ。俺が会社に提示されたのは披露宴だけで、それだって断っても良かった」
理人は確かに断りたがっていた。それなのに、希空が無理やり意見を通してしまったのだ。
「ごめ、んなさい」
謝れば、抱きしめてくれたまま囁かれる。
「希空の立場なら俺だってそうした。君は良識のある社会人として、一サラリーマンである俺の立場を慮ってくれただけだ」
愛おしそうに理人から頬を擦り寄せられる。
希空はたまらず彼にしがみつく。
すると、ますますキツく抱きしめてくれる。
「すまなかった、俺のせいで辛い想いをさせた」
視界がぼやけ、双眸から熱い雫が流れてくるのを感じ取る。
夫の唇が近づいてきて、涙を吸い取ってくれた。
見上げれば、彼の目がとても甘い熱情を湛えて自分を見つめている。
「俺には希空だけだ。空を飛びたい希望のほかに初めてほしいと思ったのが希空、君だ。愛している」
理人が懸命に訴えてくる。
「俺は君が得られるなら、他のものはなんにもいらないんだ。お願いだ、一生俺の隣にいてほしい」
思い出せば、彼はいつも変わらぬ愛を送ってくれていたのに。
「ごめんなさい、私が理人さんを疑ってしまった」
ちゅ、ちゅ、……と、理人の唇が希空を溶かすように何度も降りてきた。
希空は目を閉じて受けとめる。
「あの日、希空になにが起こったのか、必死に考えた。希空が出ていったあとに退室したあの女を思い出さなければ、俺は君が俺に飽きたのかと今でも勘違いしていただろう」
理人は一生懸命問題を探り、解決しようとしてくれたのだ。
「私が、理人さんに相談していれば……」
「俺のほうこそ。俺一人の力で解決できず、希空を長く苦しめてしまった」
涙が止まらなくなったが、今度は嬉し涙だった。
希空はあの日からの苦しみや悲しさを流してしまおうと、涙がこぼれ落ちるに任せる。
しばらくして。
「……止まった?」
「うん」
鼻をぐしゅぐしゅしながら、希空は返事をした。彼女を抱きしめてくれている夫の体が冷えてしまっている。
理人も気がついた。
「希空、一緒に入ろう。今は君と一秒も離れていたくない」
自分も夫と同じ気持ちだった。
「希空」
キスされながら服を脱がされていく。夫に伴われて浴室に入れば、バスタブに湯が張ってあった。
「そろそろ希空が帰ってくる時間だなと思って湯を溜めておいた」
「……なんで理人さんは朝からシャワーを浴びてたの」
「毒を浴びてたから、ミカと禊をしてたんだ」
親友とワインを飲みながら夜を明かしたのだと教えてくれる。
希空は彼の靴がないことを思い出した。
「靴はどうしたの?」
一日以上履いていたからベランダで日光浴させている、と。なんのことはない話だった。
希空は勇気を出して、体の向きを変えると夫と向き合う。
「レセプションの時、『失敗した』って呟いて不機嫌だったのはどうして?」
「聞こえてたのか……」
理人が顔を逸らすが、希空は彼の両頬をつまむと、自分の目の前に引き戻した。
夫は痛いよと文句を言いつつ、希空の視線に負けて告白する。
「あのドレスは君を引き立てるのに最高だった。だが、ドレスを着た希空があまりに素敵過ぎて、失敗した。他の野郎どもがジロジロみるのが気に食わなくて」
独占欲をあらわにしてしまった、と告白された。
「……ホールドが強いなと思っていたんだけど……」
やきもちだったのだと知り、今さらに希空は気持ちが明るくなった。
「レセプションの夜にも伝えたぞ?」
夫にじろりと睨まれたので、希空は真っ赤になる。
「あの時は久しぶりに愛されて、気持ちよくて夢中になっちゃってて……」
「これで許してやる」
頬を甘噛みされた。
希空は夫の首にしがみつくと、彼の耳元で謝った。
「私、いちいち悪いほうに考えちゃって……ほんと、ごめんね……」
理人の肩に頭を預けてしょぼんとしていると、顎を掴まれて唇を重ねられた。
「俺はシップに乗っている以外は希空のことを考えていたい男だから、浮気をする暇がない」
彼がキッパリと言ってくれたから、希空はようやく笑うことができた。
二人の唇が触れ合う。
理人が恐ろしく真剣な顔になった。
「希空。リヒト(Licht)って、ドイツ語で『ひかり』って意味。キザだけど、俺は希空の曇りを吹き飛ばす、『ひかり』でありたい」
止まらない涙のなか、希空は微笑む。
「理人さんは、いつだって私を明るい世界に連れていってくれるの」
「希空。俺の奥様、愛してる」
「理人さん……、あなた……」
レセプションの晩と同じくバスルームで愛し合ってしまったが、あの日と違って翌朝の希空はとても幸せだった。