おいで、Kitty cat



距離なんて、きっと最初からほとんどなかった。
私はどうして、ソファなんかに座ったのかな。
知らない男を部屋に入れて、コーヒーを出して。
それだけじゃ終わらず、どうしてよりにもよって隣に座ったりしたんだろう。

テーブルと椅子だってあるのに。
玄関前にいた迷い猫を拾って、ミルクをあげるのと勘違いしてない?
ソファの上で、撫でてあげるのとは違うのよ。


「…………」


声かと思った。
言葉にはなっていなかったけれど、けして無音じゃない。息遣いとは別の音がすぐ側で聞こえた。

――キスは、されない。

頭が真っ白で何も考えられないのに、それは確信できた。
それでもなお、久々すぎる感覚に心臓が悲鳴を上げている。

鼻先が触れるかと思った。
まるで、小動物が甘えるみたいだと思いながら、何の香水だかのいい香りが、彼が人間で男性だと認識させようとする。


「すき。したい。ほんと。……だから、俺はがまん」


囁いたつもりは、なかったんだと思う。
それでも、声が聞こえたことに驚いて、それを見てしゅんとするように目を落として、「……ごめんなさい」って消えるように言った。


「……ううん」


話せたことが、悪いわけない。
嘘を吐かれたとも思わなかった。


『あなたが、したくなるまでしない。してほしいこと、できるまでしません。えっちなことも、そうじゃなくても、何でも。でも、もしできたら。側にいてもらえるなら』


スマホでの筆談に戻ったことに少しほっとして、でも、もう既に切なかった。


『なんでも、します。本当だよ』


びっくりした顔をして、悲しませたかな。
ううん、嫌な顔をしてしまってたかもしれない。
めちゃくちゃな展開ではあるけど、彼が本気で言ってるのなら。私はどれだけ、傷つけてしまったんだろう。


(ううん。それどころか)


元々あった深い傷を、今ものすごく抉ってしまったんじゃ――……。


「……あ……」


仔猫が甘えるみたいに近づいた鼻先。
やっぱり怖くなったって、逃げていっちゃいそう。
思わず漏れた声に驚いたのは、私も同じ。


「……なまえ」


この手は何なの。
彼の頭の上で浮いた、この手。


『永遠(とわ)』


とわ、くん。
上目遣いで見つめられて、もう特に断る理由も思いつかない。


「……さくら」


『ありがとうございます』


名前を教えたことかな。
それとも、疑わなかったことかな。


「……さくら……」


呼ばれてついその口元を見ると、まだ何か言いたげだったけれど、その先は続かなかった。
照れよりももどかしさが広がったのは、声にできない辛さからなのかもしれない。


「……っ」

「ご、ごめんなさい……! 」


だから、仔猫じゃないのに。
いきなり頭を撫でるなんて、他人にも大人の男性にも失礼だ。

でも――……。


「……ううん」


伝えてくれた。
真っ赤になって、自分の行動に動揺してる私に、ただ首を振るだけでも伝わったことを、ちゃんと声に出して。


『もっと』


今度は音にはならなかったけれど、唇は動いた。
さっき触れそうなほど近かった顔が俯いて、差し出すように頭を垂れる。


「……最高」

「……そう。変なの」


なら、よかった……のかな。
もう、自分がやってることが分からないし、考えたくない気もする。


「ん。いろいろ」

「いろいろ? ……っ」


ほぼ垂直くらい下がった頭の延長線上には、仕事帰りのままのタイトスカートから覗いた太腿。


「……痛い……」


無意識に撫でていた手のまま、ぺしっと叩いてしまった。


「だ、だって……! 」

「いたた……」


あんまり痛そうには聞こえない。
そのうえ、彼の頭はころんとその太腿へ落ちてくる。


「ちょ、ちょっと……」


なぜ、膝枕。
それはさすがに、今更だけど、出会って初日で行き過ぎでは?


「ありがとう。さくら」


訳がわからない。
疲れすぎて、人生しんどすぎて、夢でも見てるのかも。
でも、たったひとつ言えるのはね。


「……ありがと」


当の本人は首を傾げたけど、私はそれだけは嬉しいってしっかり認められる。

きっと辛いと思うのに、スマホ、ソファの上に裏返してくれて。

ありがとう、永遠くん。


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