憧れと結婚〜田舎令嬢エマの幸福な事情〜
15、違った人
バート氏との話を受け、母はハミルトン氏の申し出を前向きに考えるようになった。海軍提督まで務めた世間に明るい彼の言葉は、母の気持ちを大きく揺さぶっていた。
「でも、簡単にお返事は出来ないわ。もう少し考えさせて。とりあえず、大変なご厚意には違いがないから、心がけていただいたお礼をまた手紙に書くわね」
それでも大きな変化で、姉妹は微笑み合った。
ある日、エマは一人で歩いていた。姉は館に残り、ハミルトン氏の娘たちに手紙を書いている。一人で歩き回るのは、姉が帰宅して以来ほぼなかった。いつも二人で何か話しながら、散策している。
ダイアナはもう一月ほどこちらに残る予定だ。
(一人になったら、また寂しくなるわ)
辺りをぼんやり眺めながら歩く。牧場をのぞいてから、このままウェリントン領地まで足を伸ばし、ついでにアシェルを迎えに行こうかとも思う。
なだらかに下る、下生えの道を何となく駆けた。体重が前に傾ぎやや速度が出る。足がもつれそうになり、歩を緩めようとした。
その時だ。横たわる木の根につまづき、エマは前のめりに転んだ。手でかばったから、顔を打たずに済んだ。衝撃だけで、大した痛みもない。
「大丈夫ですか?」
背後に声がし、彼女は振り返った。すぐ後ろに男性がいた。ちょうど身を起こしたところのようで、足を伸ばしたままでいる。
彼女が木の根と思ったのは、この男性の脚だったようだ。いきなり走り出した自分も迂闊だが、こんなところで誰かが寝転んでいるなど、思いも寄らなかった。
「どこか、怪我は?」
「いえ、平気です」
手を貸してもらい、彼女は立ち上がった。
「悪かった。急にあなたが走って現れたから避けようがなかった」
「びっくりなさったでしょう?」
ドレスの草を払いながら、男性を見る。この辺りでは見かけない人物だ。
上着を着ていない。白いシャツのまま。ズボンは紳士の白やグレーのものではなく、縦に線の入った紺色だった。
軽く辞儀をし、彼女は通り過ぎようとした。ウェリントン領地の方向だ。
「どこへ行くのです?」
「この先のウェリントン領地です。弟がそちらお邪魔しているので、そろそろで迎えに行こうかと」
黒髪の男性は彼女に並んだ。
「わたしも一緒に行こう」
この行きがかりにエマはたじろいだ。迷惑をかけたとはいえ、お互い様だ。素性の知らぬ男性と一緒に歩くことは出来ない。
「こちらへ越してきたバートの弟です。リューク・バート。海軍に在籍しています」
彼女は名乗ったリュークを見上げた。バート氏が以前弟の存在を話していた。海軍士官で、エヴィの父親であると。
「エマ・スタイルズです。バートさんには母もよくしていただいております」
紹介が終わり、並んで歩き出した。
彼が言うには、少し前にこちらに着いたと言う。
「兄から景色のいいところだと自慢されていたから、少し歩きたいと途中で馬車を降りたのです。その途中、早立ちがたたって眠くなった。寝転んでうとうとしていると、あなたが転がって来た」
そこで、彼は精悍な顔を綻ばせた。エマもつられて笑った。
二人がウェリントン領地に着いた。子供たちが邸の前で遊んでいる。
「エヴィ!」
そちらへ向けてリュークが大きく呼びかけた。声の主に気づいて、エヴィが駆け出した。一度転び、すぐ起き上がってまた走り出す。
ぶつかるように抱きついた少女をリュークが抱え上げた。
「大きくなったな。重くなった」
「馬車だけ着いたから、びっくりしたわ。どこに消えたかと思った」
「辺りを見たくて馬車を降りたんだ」
「ふうん」
エヴィは父親の腕から飛び下りた。その手を引き、邸へ促す。
「伯父様がさっきから待ってるわ」
エマはエヴィに遅れてやって来たアシェルの手を取った。久しぶりの家族水入らずの再会だ。これ以上は邪魔になる。
「わたしたちはこれで」
別れを告げ、館の方へ足を向けた。
その背に、リュークの声がかかる。
「しばらく滞在します。またお会いましょう」
彼女は頷いて応じた。バート氏を通して近所付き合いが始まるのは想像がつく。
アシェルが少し寂しげなのが気に掛かった。仲良しのエヴィが父親に向けた笑顔と甘えた仕草。それらが父を亡くしたアシェルの目にどう映っただろう。
父が亡くなったのは五年ほど前で、姉妹は少女期の後半だった。悲しみは大きかったが、互いが周囲を見る目も養われていた。母を労ること、助けること、スタイルズ家のこれからを考えること。それらを意識しつつ慰め合い、いつしか喪失も癒えた。
当時のアシェルは幼く、三歳になったばかり。急に館から消えた父の存在をどう処理していったのか。母や姉妹にまとわりつくように甘えるようになったのを覚えている。
「さっきの人がエヴィのお父様?」
「ええ。リュークさんとおっしゃる軍人の方よ。任務のお休みでバートさんのところに滞在されるらしいの」
「エヴィは嬉しそうだったね」
「そうね。久しぶりにお父様に会えたのだもの」
「良かったね。エヴィはお母様もいないから、寂しいよね」
仲良しの少女を思いやれるアシェルを嬉しく思った。
(強がりだとしても、言葉にできるのは偉いわ)
帰宅し、母とダイアナにウェリントン領地の来客を告げた。
「でも、簡単にお返事は出来ないわ。もう少し考えさせて。とりあえず、大変なご厚意には違いがないから、心がけていただいたお礼をまた手紙に書くわね」
それでも大きな変化で、姉妹は微笑み合った。
ある日、エマは一人で歩いていた。姉は館に残り、ハミルトン氏の娘たちに手紙を書いている。一人で歩き回るのは、姉が帰宅して以来ほぼなかった。いつも二人で何か話しながら、散策している。
ダイアナはもう一月ほどこちらに残る予定だ。
(一人になったら、また寂しくなるわ)
辺りをぼんやり眺めながら歩く。牧場をのぞいてから、このままウェリントン領地まで足を伸ばし、ついでにアシェルを迎えに行こうかとも思う。
なだらかに下る、下生えの道を何となく駆けた。体重が前に傾ぎやや速度が出る。足がもつれそうになり、歩を緩めようとした。
その時だ。横たわる木の根につまづき、エマは前のめりに転んだ。手でかばったから、顔を打たずに済んだ。衝撃だけで、大した痛みもない。
「大丈夫ですか?」
背後に声がし、彼女は振り返った。すぐ後ろに男性がいた。ちょうど身を起こしたところのようで、足を伸ばしたままでいる。
彼女が木の根と思ったのは、この男性の脚だったようだ。いきなり走り出した自分も迂闊だが、こんなところで誰かが寝転んでいるなど、思いも寄らなかった。
「どこか、怪我は?」
「いえ、平気です」
手を貸してもらい、彼女は立ち上がった。
「悪かった。急にあなたが走って現れたから避けようがなかった」
「びっくりなさったでしょう?」
ドレスの草を払いながら、男性を見る。この辺りでは見かけない人物だ。
上着を着ていない。白いシャツのまま。ズボンは紳士の白やグレーのものではなく、縦に線の入った紺色だった。
軽く辞儀をし、彼女は通り過ぎようとした。ウェリントン領地の方向だ。
「どこへ行くのです?」
「この先のウェリントン領地です。弟がそちらお邪魔しているので、そろそろで迎えに行こうかと」
黒髪の男性は彼女に並んだ。
「わたしも一緒に行こう」
この行きがかりにエマはたじろいだ。迷惑をかけたとはいえ、お互い様だ。素性の知らぬ男性と一緒に歩くことは出来ない。
「こちらへ越してきたバートの弟です。リューク・バート。海軍に在籍しています」
彼女は名乗ったリュークを見上げた。バート氏が以前弟の存在を話していた。海軍士官で、エヴィの父親であると。
「エマ・スタイルズです。バートさんには母もよくしていただいております」
紹介が終わり、並んで歩き出した。
彼が言うには、少し前にこちらに着いたと言う。
「兄から景色のいいところだと自慢されていたから、少し歩きたいと途中で馬車を降りたのです。その途中、早立ちがたたって眠くなった。寝転んでうとうとしていると、あなたが転がって来た」
そこで、彼は精悍な顔を綻ばせた。エマもつられて笑った。
二人がウェリントン領地に着いた。子供たちが邸の前で遊んでいる。
「エヴィ!」
そちらへ向けてリュークが大きく呼びかけた。声の主に気づいて、エヴィが駆け出した。一度転び、すぐ起き上がってまた走り出す。
ぶつかるように抱きついた少女をリュークが抱え上げた。
「大きくなったな。重くなった」
「馬車だけ着いたから、びっくりしたわ。どこに消えたかと思った」
「辺りを見たくて馬車を降りたんだ」
「ふうん」
エヴィは父親の腕から飛び下りた。その手を引き、邸へ促す。
「伯父様がさっきから待ってるわ」
エマはエヴィに遅れてやって来たアシェルの手を取った。久しぶりの家族水入らずの再会だ。これ以上は邪魔になる。
「わたしたちはこれで」
別れを告げ、館の方へ足を向けた。
その背に、リュークの声がかかる。
「しばらく滞在します。またお会いましょう」
彼女は頷いて応じた。バート氏を通して近所付き合いが始まるのは想像がつく。
アシェルが少し寂しげなのが気に掛かった。仲良しのエヴィが父親に向けた笑顔と甘えた仕草。それらが父を亡くしたアシェルの目にどう映っただろう。
父が亡くなったのは五年ほど前で、姉妹は少女期の後半だった。悲しみは大きかったが、互いが周囲を見る目も養われていた。母を労ること、助けること、スタイルズ家のこれからを考えること。それらを意識しつつ慰め合い、いつしか喪失も癒えた。
当時のアシェルは幼く、三歳になったばかり。急に館から消えた父の存在をどう処理していったのか。母や姉妹にまとわりつくように甘えるようになったのを覚えている。
「さっきの人がエヴィのお父様?」
「ええ。リュークさんとおっしゃる軍人の方よ。任務のお休みでバートさんのところに滞在されるらしいの」
「エヴィは嬉しそうだったね」
「そうね。久しぶりにお父様に会えたのだもの」
「良かったね。エヴィはお母様もいないから、寂しいよね」
仲良しの少女を思いやれるアシェルを嬉しく思った。
(強がりだとしても、言葉にできるのは偉いわ)
帰宅し、母とダイアナにウェリントン領地の来客を告げた。