憧れと結婚〜田舎令嬢エマの幸福な事情〜

2、スタイルズ姉妹

 エマは窓辺に座り、姉のダイアナからの手紙の封を切った。

『少し日が空いてしまったわ。ごめんなさい。
 アメリアが風邪を引いてしまったの。その付き添いもしていたから。

 覚えている? アメリアは姉妹の五歳の妹の方よ。
 今はもう元気になって、姉のジュリアと遊んでいるわ。

 館の皆は元気? わたしも随分とこちらに慣れました。
 お邸で迷子になって、姉妹に笑われることもないわ。
 素直ないい子たちで、手を焼くことも少ないの。

 小さい頃にお母様を亡くした可哀想な少女たち、と
 わたしの方が変に二人に対して構えてしまっていたところがあると、
 反省もしているわ。

 ハミルトンさんもとても親切によくして下さるわ。
 お母様にくれぐれも安心して欲しいとお伝えしてね。

 家庭教師が勤め先のお邸でいじめられるなんてこと、滅多にないものよ。
 意地悪な雇い主ばかりではないのだもの…』


 相変わらず、優しい文章が続く。一通り目を通し、エマは姉のダイアナに会いたくてたまらなくなる。

 エマの二つ上の姉のダイアナが、館を出て他家の家庭教師を勤め出して半年が経った。手紙のやり取りは頻繁で、互いの近況を知らせ合っていた。

 離れて住み、ダイアナもこちらからの手紙を楽しみにしているはずだ。手紙の末尾には、いつも返事の催促が必ず記されている。便箋に向かい、ペンを持った。

 知らせたいこともある。それに対して姉の意見も聞きたい。

 最近の出来事を思い浮かべながら、ペンを走らせる。健康を尋ねる挨拶の後で、彼女は文章に迷った。

(どう書いたらいいかしら? ダイアナは何にも知らないから…)

 とりあえず、そのままを書けばいいと、数日前に開かれた音楽会のことを思い起こす。

 某邸で開かれた音楽会には、近在の親交のある人々が招待された。母と出席するつもりが、アシェルが寂しがり、エマ一人での参加になった。

 背格好も似ているので、衣装は仲良しの姉とほぼ共有だ。新調のドレスを着る令嬢もいる中、その一枚を纏ってきた。夜会だからとショールを羽織った。

 スタイルズの家は父を亡くして以来、倹約に努めている。議員を務めた父の収入が途絶えたのは、母には小さくない不安の種だった。

 貧しい訳ではないが、のちアシェルが大学に進学する際の費用に慌てないためだ。その目的があるから、ダイアナも外に家庭教師の職を求めた。

 会ではピアノの演奏に令嬢らが歌う。こういう場では、ダイアナがよくピアノを弾いたものだった。ピアノだけでなく歌声も美しかったが、本人が控え目であまり歌いたがらなかった。

 エマはピアノも不得手で、何とかこなす程度だ。歌も声にあまり自信がない。同じ令嬢の嗜みなら、絵を描いたりタピストリーを織ったりが性に合っていた。

 音楽の合間に、お茶が振る舞われた。

「エマのショール素敵ね」

 幼なじみの一人が褒めた。オリヴィアから離れたところでは、誰も敢えてエマを貶めたりしなかった。

「ありがとう。母から習って、レースで編んでみたの」

「いいわね。今度教えて。わたし、ケープにしたいわ」

「ええ、いいわよ」

 そこへ、オリヴィアが微笑みながら現れた。裕福な彼女は新しいドレスで誇らしげだ。これ見よがしに裾を揺らす。

「王都のデザイナーの新作物なの。お父様がお出かけの際におねだりしたわ」

織も意匠も繊細で、高価な品なのがわかる。華やか好きなオリヴィアに映えていた。

「お似合いね。素敵よ、オリヴィア」

 エマは素直にそう思った。誰かの声も続く。

「本当。羨ましいわ」

「親父殿は妹に甘い。王都に行くたび散財させられるとぼやいてたよ」

 オリヴィアの兄のキースが加わった。我の強いオリヴィアに比べ、キースはのんびりとした若者だった。 

「キースの二人乗り馬車より安上がりよ」

「領地を回るのに便利なんだ。お前の無駄遣いとは違う」

「領地なら、馬で回ればいいだろう。僕ならそうする」

 隣でレオが少し笑って言った。それには令嬢たちも白い歯を見せた。

「僕は慰問物資を届けるから、馬では不便なこともあるんだ」

「そうか、悪かったな」

「ところで、エマ、ダイアナは元気かい?」

「ええ、元気にしているようよ」

「帰る時は知らせてくれないか? 僕が乗り換えの駅に馬車で迎えに行くよ」

「ありがとう。でもまだいつ帰るか、知らせをもらっていないわ」

「遠慮する必要はないから」

念を押すキースに、エマは曖昧に頷いた。キースのダイアナへの好意は、前から透けて見えていた。しかし、伝えてもダイアナの方は「勘違いよ」と取り合わなかった。

「何だ、結局女性を乗せるための馬車なのか」

 レオがからかう。

「いろいろ使い道があった方がいいじゃないか。有効活用だよ。堅いことを言うな」

「エマのドレスを見て、キースの言う通りだと思ったわ。姉妹二人が同じものを着回せば、有効活用よね。スタイルズ家の姉妹は仲が良いだけでなく、賢いのね。大学出の兄と同じことを実践しているのだもの。真似たくはないけれど」

 陽気なオリヴィアの声だ。

(また始まった)

 何がきっかけか、エマを侮辱するスイッチが起動したようだ。オリヴィアに和して、令嬢らのお追従めいた笑い声が上がった。

 こんな茶番が始まると、エマは腹立ちよりも白けた気分になる。

 彼女を見るオリヴィアは、憎たらしいほど強気な表情だ。エマになら何を言っても構わないといった、由来のわからない太々しさを感じた。

(打たれ強いマットレスか何かみたいに、わたしが傷つくことがないと思っているのかしら?)

 その時、冷静な声が降ってきた。

「家庭教師は馬鹿では絶対に務まらない。僕はダイアナという女性を知らないが、きっと優秀な人なのだね」

 レオだ。彼女を救うようなその言葉が嬉しかった。

 彼につなげてキースも言う。

「ダイアナは賢い人だよ」

 散会になった。それぞれが家主に礼を告げ、玄関へ向かう。

 月の明るい晩だった。方向の同じ人々に付かず離れず、エマも家路に就く。年嵩の人たちで、歩みはひどく遅かった。

「エマ」

 駆けて来る音がするのと、男性の呼び声がほぼ同時だった。驚いて振り返る。そこにはレオがいて、彼女に追いつき軽く息を吐いた。

「送ろうと思って、追いかけて来た」

 彼女は驚いた。彼はキースやオリヴィアと共に馬車で会にやって来たはずだった。では、帰りもそのはず。

「先に帰ってもらった」

「よろしいの? 我が家は馬車がなくて、帰りを送って差し上げられないわ」

「歩けばいいじゃないか。ボウマンの邸まで大してかからない」

 彼女の返事を待たずに歩を促した。歩幅を合わせてくれるが、二人はすぐに人々を抜いてしまった。

「君は歌わなかったね」

 さっきの会でのことだ。ピアノの演奏も歌も、彼女は辞退した。「下手なの」と返し、

「こちらの…」

 とつなげかけた言葉と、彼の

「何か反応しないと…」

 とがぶつかった。

「どうぞ」

 彼が先を譲った。

「…こちらの社交界は退屈ではない? 規模が小さいから、同じ人ばかりが集うわ」

「いや」

 短く答えた後で、彼が改めて問いを口にした。

「オリヴィアに言い返さない君の態度は賢明だよ。でも、何か別な反応をしないと。彼女だって行いを改めない」

 レオの言葉は、狭いコミュニティーで権威ある一家の令嬢に逆らえないエマの立場を考慮してくれていた。それでも、周囲を巻き込んだいじめが見るに耐えないのだろう。

(だから、助けてくれる)

 エマはひっそりと吐息した。自分への攻撃なら平気だった。耐える自信もある。しかし、彼の助言通りに、オリヴィアへの対応を変えればどうなるか。

(次は家族を侮辱し出すわ)

 そうなれば、自分を抑えられないかもしれない。オリヴィアの言葉の選択によっては、取り乱すかもしれないと思う。

「オリヴィアにとって、わたしに意地悪なことを言うのはゲームなの。いつか飽きるわ。彼女だって、そのうちお嫁に行くだろうし」

「気が長いな、君は」

「それに、言っていることは当たっているから。わたしが姉とドレスを共有しているのは事実だし。それで十分だと思っているのも本当だもの」

 ふと、オリヴィアの持つものを自分がこれまで羨んでこなかったことに気づいた。きれいだと思うし、似合っていれば、邪心なく褒めも出来る。高価なドレスが手に届かないという、根っからの強い諦めもあるだろう。

(それがオリヴィアには腹立たしいのかもしれない)

「着られる衣装を何度も着て、恥ずかしいと思う気持ちがわからないわ」

「女性はドレスの多寡を競うものではないの?」

「皆が同じでは…。競いたい人は競えばいいのじゃないかしら。そういうことが無駄に思う女もいるわ」

「無駄」

 そう呟いて、レオはしばらく黙った。

 屁理屈に聞こえ、気分を害してしまったのかと、エマは少し気がかりだった。

「では、男が君にドレスを贈りたいと言えばどう?」

「それは嬉しいわ」

「何が違うの?」

「それは新しいドレスが嬉しいという思いより、相手の方の気持ちが嬉しいの。それをいただいたようなものだもの」

 小石を踏み、彼女の身体がぐらりと揺らいだ。レオがすかさず腕を出して助け、そのまま彼女に腕を貸したままにさせた。

「ありがとう」

 触れた腕の温もりが恥ずかしい。今、二人きりの沈黙がたまらない気がした。会話が途切れないように、彼女は彼に質問を繰り返した。

「ご家族は?」

「祖母と叔父が。妹は他家に嫁いだ」

「妹さんはお幾つ?」

「君の三つ上だから、二十三だな。メリルは去年子供を産んだから、僕に姪が出来た」

「そう。男性の兄弟がいるって、どんな風かしら?」

「アシェルがいるじゃないか」

「あの子は小さいもの」

「すぐ大きくなって、君の背を抜くよ」

「母も姉もわたしもつい甘やかしてしまって。弱い子にならないか不安」

「僕は両親を早くに亡くしていて、祖母に育てられた。僕には甘い人で、まるで猫の子みたいに育ったよ。叔父の談だけど」

「そうなの」

「砂糖菓子を一度に三つは許された。四つ目に手を伸ばすと、僕を見る祖母の目が違うんだ。言葉にもしないし、態度にも出さない。でも、ものすごい威圧だった。僕が物事の限界と抑制を知ったのはそれがきっかけだ。男だからって、特別に育つ訳じゃない。当たり前のことを当たり前に教わればいいだけだと僕は思う」

自身の体験談を軽口を交えて話す。エマの気持ちを楽にしてくれる言葉だった。さりげない優しさを感じ、じんわりと胸が温かくなる。

「家族の愛情をしっかり感じて育てば、絶対に裏切れないと気づくよ」

「そう育ってくれるといいわ」

 と返しながら、

(レオ自身がそのような人だから)

 と思った。

(それに)

 父親に代わるような叔父の存在もきっと大きいだろう。側に尊敬出来る男性像があることは、少年の生育に良い影響を与えそうだ。

「叔父様は厳しい方?」

「いや、全然そうじゃない」

 レオは首を振った。

「…そうだ、君や母上が良ければ、アシェルを馬に乗せてやってもいいだろうか? まだ本格的に習っていないのじゃないか」

「ええ。でも、小さい子の相手なんて、ご迷惑じゃない?」

「それは君の口癖だね。迷惑じゃないから言っているのに」

 からかうように言われて、ちょっと唇を噛んだ。その通りだった。何かにつけ、彼女は他人の申し出によくそんな返しをしてしまう。嬉しくても。

 癖と言ってしまえばそうだろう。けれど、見栄やポーズなのかもしれないとも思う。

(物欲しく見えないように。澄ましているだけなのかも)

 そんな風に自問していると、レオが言う。

「僕が少し強引になればちょうどいい」

「いつも女性にはそうなさるの?」

「メリルにはする」

「メリル様以外で」

「様はいい。僕の妹じゃないか。いつもじゃない。…そう、アシェルとまた会いたいんだ」

「母は喜ぶわ。いつでもいらして」

 微笑んで彼女は彼を見た。自分を見るレオの目と会い、そのまま留まった。男性に側で見つめられる恥ずかしさに、彼女が耐えかねて、先に瞳を下げた。

 胸が高鳴っている。それを意識しながら聞いた。

「こちらにはいつまで滞在されるの?」

「急ぐ用はないから、一月ほどは考えている。まだ目的の狩りもしていないしね」

「そう」

 彼の返事に彼女は落ち着かない気持ちになった。一言で表せない、混じり合った思いがある。彼がすぐに去っていく旅人であれば気が楽なのに。そう捉えたい心の奥に別な感情がある。

 旅立ちを最後に、縁が切れてしまうことも味気なくひどく寂しい。

 その後は取り留めない言葉を交わしながら、二人の時間は終わった。

 彼女を館に送り届けてくれた彼は、別れ際に、明日の来訪を取り付けて帰った。

 これらが、先日の音楽会の出来事だった。

 エマはそれらを出来る限り客観的に、脚色を入れないよう端的に書き綴った。筆が走り過ぎていないかざっと最後に確認したのは、姉宛の手紙にはいつにないことだった。

(ダイアナが変に深読みしないと良いのだけれど)

 思いがけず厚くなった手紙に封をした。
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