憧れと結婚〜田舎令嬢エマの幸福な事情〜
27、晴れ間
ハミルトン氏の手紙から、エマは別な土地への旅の楽しみに心が弾んだ。ダイアナともそのことでよく話し合う。こんなに気持ちが明るいのはいつぶりだろう。
母はハミルトン氏の来訪にあわせ、館も念入りに磨かせた。早々と鮮魚の注文も行う。いつ用意したのか、姉妹に上等の生地をそれぞれ与え、ドレスに仕立てるように言った。旅に着るようにとの配慮だろう。
それぞれ感激し、礼を言ったが、二人きりになると、
「舞踏会でも出してくれなかったのに。どうしたのかしら?」
ダイアナがこっそりと笑った。
「お母様にとって、知事邸の舞踏会よりハミルトンさんがいらっしゃる方が格上なのよ」
エマも笑って応じた。
針仕事は楽しかった。側で針を進めるダイアナの幸せそうな表情に、いつかの言葉がふっと浮かぶ。リュークの求婚を断った際の姉のものだ。
「愛する人を待つのならその間も幸せでしょうけれど、そうでなければ心が迷いそうね」。
その言葉通り、姉はハミルトン氏を待つ今が幸せなのだろうと思う。レオを待つことが苦しいと嘆いた彼女と違うのは、希望の大きさだ。
深く聞いたことはないが、ハミルトン氏からの好意の言葉はきっとあったに違いない。それがダイアナの胸を明るく照らしている。
何もない自分のそれは、暗い先をのぞくのに似て、不安でしかない。根拠のない夢が叶うのを待つようなもの。
(途方もないわ)
糸を引きながら、オリヴィアのとげのある声も引っ張り出されてくる。
「レオが婚約したの」。
それが真実かどうかは確かめようがない。しかし、兄の前でその親友の婚約を偽る理由はないだろう。口にしたのが悪意であっても。
(相手はお祖母様のご紹介かも。きっとどこか名門の、ご令嬢……)
居間の窓からアシェルとエヴィの楽しげな声が聞こえる。母が立ち上がり、窓辺から子供たちを呼ぶ。
「お茶にするわ。お入りなさいな」
ダイアナが針を置いた。それにエマも倣う。ふんわりと生地を畳む際、残った針がちくんと指を刺した。慌てて引っ込めた。小さな傷だ。遅れてじわりと血が滲む。
唇に指を当てた。
レオは誰かの夫になる人だ。
(思うことすら、もう罪かもしれない)
ハミルトン氏はほぼ定刻通りにスタイルズ家の門を潜った。母も姉妹もアシェルもエヴィも揃って出迎えた。
ダイアナの話では脚に古傷があり、杖を使うと聞いていた。確かに手に杖はあるが、段差のある場所以外は不要のようだ。
栗色の髪の理知的な印象のハンサムな人だ。やや眠たげな目元が穏やかな印象を与える。元軍人というが、海軍のリュークのような鋭い視線を向けられることもない。
挨拶の後で、ダイアナはすぐにハミルトン姉妹のことを尋ねていた。
「アメリアは苦いお薬が嫌いなのに。ちゃんと飲んでいたのかしら? それでお熱が引かないのではと心配でした」
「リントン氏の調合したものは甘いらしい。自分から飲んでいたよ」
二人の親しい雰囲気に、エマはふっと笑みが浮かぶのを抑え切れなかった。想像よりずっとなじんだ様子だ。
ダイアナは控えめであるが、キースに対するような距離を取る印象はない。
その晩は、母がウェリントン領地のバート氏も招待し晩餐を行った。ハミルトン氏はアシェルの学資支援に対する話も細かく問いに答えてくれた。
「十三歳から入学するのが通例になっています。入寮するのが原則で、メイドも揃いここは快適だそうです」
「十三歳なら、八歳のアシェルにはまだ五年もあります。どうしてこんなに早くお話を?」
「入学は十三歳なのですが、その以前に、年に三ヶ月ほど実際に入寮し、学内で過ごす季節入学制度を利用する生徒が大半なのです。それは十歳頃が多いようです」
十歳ならもう二年ない。母は急に期限が早まり、狼狽えるのか戸惑うのか言葉を失った。その母に代わり、バート氏が会話をつないだ。
「十三歳でいきなり完全に親元から離れ、入寮というのは、確かに過酷ですな。軍隊でももっと遅い」
「ええ。士官学校で十六です。それでもいきなりの集団生活はきついものでした。ミドルスクールは訓練とは違い、紳士の育成機関です。規律も緩いが、まだ幼いので徐々に慣れていく方が本人に負担がないように思われます」
「そうですな。同じ年頃の子同士が揃えば愉快ですよ。寂しくても刺激もあって、時間はあっという間に過ぎる」
「はい。その体験でどうしても校風などが合わなければ、別の学校を選ぶこともできます。この期間は、そういう流動もあるようです」
食事の後で、お茶を飲みながらも話した。
「ご厚意はとてもありがたく思います。バートさんにもご意見を聞き、色々考えまして、お受けしようと思っております」
母の言葉に、姉妹は顔を見合わせた。慎重で遠慮深いたちの母には冒険的な決断と言えた。親しく世間知のあるバート氏の言葉が大きいだろう。もちろんハミルトン氏への信頼もある。
「それはありがたいです。お目にかかれて良かった。手紙では言葉が足りないところがどうしてもあって、もどかしい思いでいました」
破顔した彼へ母が問う。
「ですが……、なぜアシェルですの? ハミルトンさんならお知り合いが大勢いらっしゃるはずなのに。縁もゆかりもない我が家のアシェルをお選びになるのは、何か理由が?」
母の問いを受け、一瞬彼は言葉に詰まったようだった。しかし、すぐに口を開いた。
「ダイアナさんからアシェル君のお話はよく聞いていましたから、自然親しみも湧きました。他人とは思えない。他を考えたことはありません」
「ダイアナさんを見れば、ご家族の人となりはおよそ知れます。印象のいい人物に情を持つのは成り行きでしょうな」
バート氏の相槌に、母は口元に手をやり微かに首を振った。
遠方から訪れ、母に援助の説明までする。過大すぎる親切だ。その真意にはダイアナへの思いが大きいと、エマには疑いようがなかった。
その日、ハミルトン氏は館に泊まり、翌日姉妹を伴い帰路に就くことになった。
旅の支度は既に済ませた。眠る前に、エマはダイアナと話したかった。寝室に入るとダイアナは髪を下ろし、鏡に向かっていた。
彼女は肩に手を置き、鏡の中の姉に話しかけた。
「素敵な方ね、ハミルトンさん。それにお優しそう」
目に見えて頬が染まる。恥ずかしそうに目を伏せて、櫛を動かしている。その仕草に、彼への思いが滲んでいた。
「…バートさんをお呼びしたのは、お母様、きっと後でご意見を聞きたかったのね」
「そうね。概ね、ハミルトンさんのお話に頷いていらしゃったから、アシェルの件は安心ね」
「想像もしなかったわ。季節入学なんてものがあるなんて。それがあるから、急いでいらしたのかも。手紙のやり取りではあまりにのんびりだもの」
「ええ。入学まで二年もないなんて、思いも寄らなかったわね。果断なハミルトンさんには、母の手紙が詩にでも思えたのかも。女性の手紙は真意が読めないと、こぼしていらしたことがあるの」
「それ、リュークさんもおっしゃっていたのよ。質問に「わからない」とお答えしたら、「それは拒絶の意味か?」なんて聞き返されて驚いたわ」
「女は男性にはっきり物事を言うのは、はしたないと育てられるのにね」
「その通りよ」
明日も早い。エマはダイアナにお休みを言った。
部屋を出しな、姉が彼女の手を握った。
「ねえ、エマ…、リュークさんへのお返事、後悔している?」
「さあ…」
彼女は姉の手ごと緩く振った。
「考えないようにしているわ。……過ぎたことだから、あの方に失礼だもの」
「そうね、ごめんなさい。妙なことを聞いたりして」
エマは微笑んで部屋を出た。
寝室に入りベッドに腰を下ろした。ほっと吐息する。ため息に似たそれに、自分でもちょっと戸惑う。ダイアナの問いが頭に残っていた。
リュークが去り、それからの日々が過ぎるほど、小さな焦りが彼女の中で生まれている。胸を軽く引っかくような感覚で、自分の選択に自信が持てなくなった。
ベルの言葉通り、あれ以上の男性が現れることはないかもしれない。レオへの思いは思いとして、胸に封じる。そんな風に恋を葬り、誰もが花嫁になっていくものなのかもしれない。
(リュークさんだって、わたしが一番ではなかったはず)
好意は感じた。彼女へ向けた強い視線も興味の印と言えた。
何よりも、彼は彼女を選び、言葉にして妻にと求めてくれた。遅れた今になって、選ばれた喜びが胸に迫った。
(レオなんか、何にもくれなかったのに…)
ふっと、白いだけの差出人不明の葉書が頭に浮かぶ。あれがあの時届かなければ、少しだけずれていたら。
(わたしはリュークさんを選んだわ)
過去の選択の正しさなどわからない。彼を選んだ先の自分を鮮明に描くことも出来ない。
けれども、今頃こんな繰り言を一人弄ぶ自分を嫌だと思った。
母はハミルトン氏の来訪にあわせ、館も念入りに磨かせた。早々と鮮魚の注文も行う。いつ用意したのか、姉妹に上等の生地をそれぞれ与え、ドレスに仕立てるように言った。旅に着るようにとの配慮だろう。
それぞれ感激し、礼を言ったが、二人きりになると、
「舞踏会でも出してくれなかったのに。どうしたのかしら?」
ダイアナがこっそりと笑った。
「お母様にとって、知事邸の舞踏会よりハミルトンさんがいらっしゃる方が格上なのよ」
エマも笑って応じた。
針仕事は楽しかった。側で針を進めるダイアナの幸せそうな表情に、いつかの言葉がふっと浮かぶ。リュークの求婚を断った際の姉のものだ。
「愛する人を待つのならその間も幸せでしょうけれど、そうでなければ心が迷いそうね」。
その言葉通り、姉はハミルトン氏を待つ今が幸せなのだろうと思う。レオを待つことが苦しいと嘆いた彼女と違うのは、希望の大きさだ。
深く聞いたことはないが、ハミルトン氏からの好意の言葉はきっとあったに違いない。それがダイアナの胸を明るく照らしている。
何もない自分のそれは、暗い先をのぞくのに似て、不安でしかない。根拠のない夢が叶うのを待つようなもの。
(途方もないわ)
糸を引きながら、オリヴィアのとげのある声も引っ張り出されてくる。
「レオが婚約したの」。
それが真実かどうかは確かめようがない。しかし、兄の前でその親友の婚約を偽る理由はないだろう。口にしたのが悪意であっても。
(相手はお祖母様のご紹介かも。きっとどこか名門の、ご令嬢……)
居間の窓からアシェルとエヴィの楽しげな声が聞こえる。母が立ち上がり、窓辺から子供たちを呼ぶ。
「お茶にするわ。お入りなさいな」
ダイアナが針を置いた。それにエマも倣う。ふんわりと生地を畳む際、残った針がちくんと指を刺した。慌てて引っ込めた。小さな傷だ。遅れてじわりと血が滲む。
唇に指を当てた。
レオは誰かの夫になる人だ。
(思うことすら、もう罪かもしれない)
ハミルトン氏はほぼ定刻通りにスタイルズ家の門を潜った。母も姉妹もアシェルもエヴィも揃って出迎えた。
ダイアナの話では脚に古傷があり、杖を使うと聞いていた。確かに手に杖はあるが、段差のある場所以外は不要のようだ。
栗色の髪の理知的な印象のハンサムな人だ。やや眠たげな目元が穏やかな印象を与える。元軍人というが、海軍のリュークのような鋭い視線を向けられることもない。
挨拶の後で、ダイアナはすぐにハミルトン姉妹のことを尋ねていた。
「アメリアは苦いお薬が嫌いなのに。ちゃんと飲んでいたのかしら? それでお熱が引かないのではと心配でした」
「リントン氏の調合したものは甘いらしい。自分から飲んでいたよ」
二人の親しい雰囲気に、エマはふっと笑みが浮かぶのを抑え切れなかった。想像よりずっとなじんだ様子だ。
ダイアナは控えめであるが、キースに対するような距離を取る印象はない。
その晩は、母がウェリントン領地のバート氏も招待し晩餐を行った。ハミルトン氏はアシェルの学資支援に対する話も細かく問いに答えてくれた。
「十三歳から入学するのが通例になっています。入寮するのが原則で、メイドも揃いここは快適だそうです」
「十三歳なら、八歳のアシェルにはまだ五年もあります。どうしてこんなに早くお話を?」
「入学は十三歳なのですが、その以前に、年に三ヶ月ほど実際に入寮し、学内で過ごす季節入学制度を利用する生徒が大半なのです。それは十歳頃が多いようです」
十歳ならもう二年ない。母は急に期限が早まり、狼狽えるのか戸惑うのか言葉を失った。その母に代わり、バート氏が会話をつないだ。
「十三歳でいきなり完全に親元から離れ、入寮というのは、確かに過酷ですな。軍隊でももっと遅い」
「ええ。士官学校で十六です。それでもいきなりの集団生活はきついものでした。ミドルスクールは訓練とは違い、紳士の育成機関です。規律も緩いが、まだ幼いので徐々に慣れていく方が本人に負担がないように思われます」
「そうですな。同じ年頃の子同士が揃えば愉快ですよ。寂しくても刺激もあって、時間はあっという間に過ぎる」
「はい。その体験でどうしても校風などが合わなければ、別の学校を選ぶこともできます。この期間は、そういう流動もあるようです」
食事の後で、お茶を飲みながらも話した。
「ご厚意はとてもありがたく思います。バートさんにもご意見を聞き、色々考えまして、お受けしようと思っております」
母の言葉に、姉妹は顔を見合わせた。慎重で遠慮深いたちの母には冒険的な決断と言えた。親しく世間知のあるバート氏の言葉が大きいだろう。もちろんハミルトン氏への信頼もある。
「それはありがたいです。お目にかかれて良かった。手紙では言葉が足りないところがどうしてもあって、もどかしい思いでいました」
破顔した彼へ母が問う。
「ですが……、なぜアシェルですの? ハミルトンさんならお知り合いが大勢いらっしゃるはずなのに。縁もゆかりもない我が家のアシェルをお選びになるのは、何か理由が?」
母の問いを受け、一瞬彼は言葉に詰まったようだった。しかし、すぐに口を開いた。
「ダイアナさんからアシェル君のお話はよく聞いていましたから、自然親しみも湧きました。他人とは思えない。他を考えたことはありません」
「ダイアナさんを見れば、ご家族の人となりはおよそ知れます。印象のいい人物に情を持つのは成り行きでしょうな」
バート氏の相槌に、母は口元に手をやり微かに首を振った。
遠方から訪れ、母に援助の説明までする。過大すぎる親切だ。その真意にはダイアナへの思いが大きいと、エマには疑いようがなかった。
その日、ハミルトン氏は館に泊まり、翌日姉妹を伴い帰路に就くことになった。
旅の支度は既に済ませた。眠る前に、エマはダイアナと話したかった。寝室に入るとダイアナは髪を下ろし、鏡に向かっていた。
彼女は肩に手を置き、鏡の中の姉に話しかけた。
「素敵な方ね、ハミルトンさん。それにお優しそう」
目に見えて頬が染まる。恥ずかしそうに目を伏せて、櫛を動かしている。その仕草に、彼への思いが滲んでいた。
「…バートさんをお呼びしたのは、お母様、きっと後でご意見を聞きたかったのね」
「そうね。概ね、ハミルトンさんのお話に頷いていらしゃったから、アシェルの件は安心ね」
「想像もしなかったわ。季節入学なんてものがあるなんて。それがあるから、急いでいらしたのかも。手紙のやり取りではあまりにのんびりだもの」
「ええ。入学まで二年もないなんて、思いも寄らなかったわね。果断なハミルトンさんには、母の手紙が詩にでも思えたのかも。女性の手紙は真意が読めないと、こぼしていらしたことがあるの」
「それ、リュークさんもおっしゃっていたのよ。質問に「わからない」とお答えしたら、「それは拒絶の意味か?」なんて聞き返されて驚いたわ」
「女は男性にはっきり物事を言うのは、はしたないと育てられるのにね」
「その通りよ」
明日も早い。エマはダイアナにお休みを言った。
部屋を出しな、姉が彼女の手を握った。
「ねえ、エマ…、リュークさんへのお返事、後悔している?」
「さあ…」
彼女は姉の手ごと緩く振った。
「考えないようにしているわ。……過ぎたことだから、あの方に失礼だもの」
「そうね、ごめんなさい。妙なことを聞いたりして」
エマは微笑んで部屋を出た。
寝室に入りベッドに腰を下ろした。ほっと吐息する。ため息に似たそれに、自分でもちょっと戸惑う。ダイアナの問いが頭に残っていた。
リュークが去り、それからの日々が過ぎるほど、小さな焦りが彼女の中で生まれている。胸を軽く引っかくような感覚で、自分の選択に自信が持てなくなった。
ベルの言葉通り、あれ以上の男性が現れることはないかもしれない。レオへの思いは思いとして、胸に封じる。そんな風に恋を葬り、誰もが花嫁になっていくものなのかもしれない。
(リュークさんだって、わたしが一番ではなかったはず)
好意は感じた。彼女へ向けた強い視線も興味の印と言えた。
何よりも、彼は彼女を選び、言葉にして妻にと求めてくれた。遅れた今になって、選ばれた喜びが胸に迫った。
(レオなんか、何にもくれなかったのに…)
ふっと、白いだけの差出人不明の葉書が頭に浮かぶ。あれがあの時届かなければ、少しだけずれていたら。
(わたしはリュークさんを選んだわ)
過去の選択の正しさなどわからない。彼を選んだ先の自分を鮮明に描くことも出来ない。
けれども、今頃こんな繰り言を一人弄ぶ自分を嫌だと思った。