憧れと結婚〜田舎令嬢エマの幸福な事情〜
30、ダイアナの恋
翌日もダイアナはベッドで休み、休養に努めた。エマはその側に付き添った。時折り、部屋を出て広い宿の中を歩いてみた。
蔵書の豊かな図書室の他に玉突き台が備わった娯楽室、談話室、他に温室もある。
ダイアナにはハミルトン氏との会話を伝えておいた。その際の姉は戸惑ったように俯き、エマから目を逸らした。
「どうしてお応えしないの? ダイアナだって、フィッツのことは好きなはずなのに」
彼女の問いに、姉は否定もしないが肯定もしなかった。はっきりしない態度だ。まだ体調が良くないのではと、彼女はこの話は打ち切ろうと思った。
しばらく沈黙が続いた。
「フィッツだなんて…」
「そう言って下さったから。「ハミルトンさん」と呼ばれるのは仰々しくて、お好きではないようよ」
「とても親切でお優しい方だけれど、それに乗ずるのは良くないと思うの。雇われた側だもの、わたしは…」
エマは椅子に横座りしていた。膝を抱いて姉に向き合った。ダイアナの頑なな調子が彼女には不思議だった。旅に出る前の館にいた時の方が、彼に対してもう少し砕けた様子だったのに。
体調を崩したことで、何か気持ちに変化もあったのか。
「どうかして? 気分が良くないの?」
姉は緩く首を振る。本調子ではないかもしれないが、熱も下がった。頬に赤みが差し始めたのはエマも見てわかった。
「ハミルトンさんのお気持ちは、とてもありがたいけれど……、わたしにはお受け出来ないわ」
「どうして?」
姉妹だ。姉が遠慮や恥じらいだけの建前で口にしたのではないと気づく。
お互いに気持ちが寄り添っているのは明らかだ。しかも、彼からもはっきりと思いが伝わった。
なのに、ダイアナは受け入れられないと言う。
(わからないわ。なぜ?)
前に、ダイアナを好きなキースとのことを仄めかした際、姉はその可能性を退け、はっきりと「幸せな結婚をしたい」と口にしていた。結婚への夢や願望は当たり前にある。
エマは姉を見つめた。瞳を下げたままの姉はかすかに首を振っていた。
「出来ないわ、わたしには無理よ」
「どうして? 何が無理なの? とてもお似合いに思うわ。お嬢さん方がいるのは問題にならないでしょう?」
「まさか。二人は大好きよ。とても可愛いわ」
「では何?」
「…エマを一人に出来ないわ」
「だからって、ダイアナが幸福を逃す手はないわ」
「わたしが家を出れば、あなたは一人よ。アシェルもその内進学する……。もちろん、お母様もいるけれど、何も変わらないあの場所で、日々を繰り返して……。そんなの嫌よ。アメリアもジュリアも可愛いけれど、エマの方が大切だわ」
言い切った姉の言葉にエマは心を打たれた。椅子から立ち、姉のベッドに腰掛けた。だらりと垂れた手を取る。
「音沙汰のないレオを待って、あなたが一人だなんて。嫌よ。可哀そうで、置いてなんていけない」
姉が幸運な恋をつかもうとしない理由が自分にあったことに、彼女は驚いていた。姉の心配と深い気遣い。その優しさには憐憫が混じる。
「可哀そうよ……。エマは何も悪くないのに…」
ダイアナの声は涙ぐんでいた。
「ありがとう。ごめんなさい、あなたにそんなに気を遣わせていただなんて」
「わたしは姉だもの、一番我慢して当たり前なの」
エマと同じ、他所を知らない令嬢だった。アシェルのために他家へ勤め出ると決めた時も、相当な覚悟があったに違いない。当然のように、簡単に館を後にした。憂いも見せず、軽やかだった。
(怖くないはずがない)
今頃に胸が震えた。
(たった二つしか違わないのに)
姉を尊敬し、自分より優れているからと、優秀さで片付けてきたことが多い。優れた姉の優しさに自分は甘え切ってきたと強く思った。
それがダイアナの幸せをまた遠ざけるのなら、自分を絶対に許せない。
「わたしに遠慮して、フィッツを受け入れないのは違うわ。そんなの、全然嬉しくない。嫌よ」
「…エマ、あなた勘違いしているわ。ハミルトンさんのことは、わたし、何とも思っていないもの」
「嘘よ。誤魔化さないで」
伏せがちな姉の顔を彼女はのぞき込んだ。
「お願い。自分の幸せをまず考えて。何があなたを幸せにするか。それを一番に思って欲しいの。わたしのために思いを犠牲にするのは、絶対に間違っているわ」
ダイアナは手で顔を覆った。
そんな姉の肩を抱きながら、エマは言った。
「ねえ、考えてみて。ダイアナが幸福な結婚をしたのなら、わたしにだって希望が持てるでしょう? 一目で恋に落ちるような出会いだって、やって来るかもしれないわ」
「…あなた、そんなに移り気じゃないじゃない」
「どうかしら? レオなんか霞むような素敵な紳士なら、気持ちだって変わるわ、きっと」
「信じていないでしょう?」
「信じようとしているわ」
ハミルトン氏は姉が結婚するには素晴らしい相手だ。更に思い合っているとなれば、この幸運を決して逃してはいけない。
ダイアナが彼との結婚に対してエマへ罪悪感を持つのなら、それは誤りだ。姉が個人の魅力や努力でつかんだ幸運なのに。それに寄与してない彼女へ何の呵責を持つ必要もない。
もし、ダイアナがこの機会を敢えて逃したとする。恋を失った姉妹同士同じ位置に立ち、寂しさを慰め合えるだろう。
(不幸でつながって、依存し合うのは、真の愛情じゃない)
「ねえ、ダイアナ。あなたがフィッツと幸せになるのは、わたしのためでもあるの」
エマは姉の肩に自分の頬を押し当てた。
(わかって)
長く黙って、ダイアナから
「……ありがとう。エマ。あなたが大好きよ」
と声がこぼれた。
そんな姉の頬に口づけることで、エマは返事に代えた。
それが昨夜の話だ。
髪を洗い終えたきちんとしたダイアナの様子を見て、彼女はハミルトン氏の部屋をノックした。
「どうぞ」
部屋には、上着を脱いで窓辺に立ち外を眺めている彼がいた。彼女へ向き直り、微笑んで言う。
「散歩なら付き合うよ」
彼女は首を振った。
「姉とお話しなさいません? 落ち着いたようですし」
彼はエマを見つめた。言葉の意図を図りかねているようで、彼女が頷いてみせた。
何度か瞬いたのち、深く吐息した。上着を手にし、すぐに羽織った。
「あなたも一緒に」
「いいえ。お二人の方がいいと思います。わたしは少しだけ歩いて来ます」
部屋の前で別れ、彼女は階下へ下りた。
蔵書の豊かな図書室の他に玉突き台が備わった娯楽室、談話室、他に温室もある。
ダイアナにはハミルトン氏との会話を伝えておいた。その際の姉は戸惑ったように俯き、エマから目を逸らした。
「どうしてお応えしないの? ダイアナだって、フィッツのことは好きなはずなのに」
彼女の問いに、姉は否定もしないが肯定もしなかった。はっきりしない態度だ。まだ体調が良くないのではと、彼女はこの話は打ち切ろうと思った。
しばらく沈黙が続いた。
「フィッツだなんて…」
「そう言って下さったから。「ハミルトンさん」と呼ばれるのは仰々しくて、お好きではないようよ」
「とても親切でお優しい方だけれど、それに乗ずるのは良くないと思うの。雇われた側だもの、わたしは…」
エマは椅子に横座りしていた。膝を抱いて姉に向き合った。ダイアナの頑なな調子が彼女には不思議だった。旅に出る前の館にいた時の方が、彼に対してもう少し砕けた様子だったのに。
体調を崩したことで、何か気持ちに変化もあったのか。
「どうかして? 気分が良くないの?」
姉は緩く首を振る。本調子ではないかもしれないが、熱も下がった。頬に赤みが差し始めたのはエマも見てわかった。
「ハミルトンさんのお気持ちは、とてもありがたいけれど……、わたしにはお受け出来ないわ」
「どうして?」
姉妹だ。姉が遠慮や恥じらいだけの建前で口にしたのではないと気づく。
お互いに気持ちが寄り添っているのは明らかだ。しかも、彼からもはっきりと思いが伝わった。
なのに、ダイアナは受け入れられないと言う。
(わからないわ。なぜ?)
前に、ダイアナを好きなキースとのことを仄めかした際、姉はその可能性を退け、はっきりと「幸せな結婚をしたい」と口にしていた。結婚への夢や願望は当たり前にある。
エマは姉を見つめた。瞳を下げたままの姉はかすかに首を振っていた。
「出来ないわ、わたしには無理よ」
「どうして? 何が無理なの? とてもお似合いに思うわ。お嬢さん方がいるのは問題にならないでしょう?」
「まさか。二人は大好きよ。とても可愛いわ」
「では何?」
「…エマを一人に出来ないわ」
「だからって、ダイアナが幸福を逃す手はないわ」
「わたしが家を出れば、あなたは一人よ。アシェルもその内進学する……。もちろん、お母様もいるけれど、何も変わらないあの場所で、日々を繰り返して……。そんなの嫌よ。アメリアもジュリアも可愛いけれど、エマの方が大切だわ」
言い切った姉の言葉にエマは心を打たれた。椅子から立ち、姉のベッドに腰掛けた。だらりと垂れた手を取る。
「音沙汰のないレオを待って、あなたが一人だなんて。嫌よ。可哀そうで、置いてなんていけない」
姉が幸運な恋をつかもうとしない理由が自分にあったことに、彼女は驚いていた。姉の心配と深い気遣い。その優しさには憐憫が混じる。
「可哀そうよ……。エマは何も悪くないのに…」
ダイアナの声は涙ぐんでいた。
「ありがとう。ごめんなさい、あなたにそんなに気を遣わせていただなんて」
「わたしは姉だもの、一番我慢して当たり前なの」
エマと同じ、他所を知らない令嬢だった。アシェルのために他家へ勤め出ると決めた時も、相当な覚悟があったに違いない。当然のように、簡単に館を後にした。憂いも見せず、軽やかだった。
(怖くないはずがない)
今頃に胸が震えた。
(たった二つしか違わないのに)
姉を尊敬し、自分より優れているからと、優秀さで片付けてきたことが多い。優れた姉の優しさに自分は甘え切ってきたと強く思った。
それがダイアナの幸せをまた遠ざけるのなら、自分を絶対に許せない。
「わたしに遠慮して、フィッツを受け入れないのは違うわ。そんなの、全然嬉しくない。嫌よ」
「…エマ、あなた勘違いしているわ。ハミルトンさんのことは、わたし、何とも思っていないもの」
「嘘よ。誤魔化さないで」
伏せがちな姉の顔を彼女はのぞき込んだ。
「お願い。自分の幸せをまず考えて。何があなたを幸せにするか。それを一番に思って欲しいの。わたしのために思いを犠牲にするのは、絶対に間違っているわ」
ダイアナは手で顔を覆った。
そんな姉の肩を抱きながら、エマは言った。
「ねえ、考えてみて。ダイアナが幸福な結婚をしたのなら、わたしにだって希望が持てるでしょう? 一目で恋に落ちるような出会いだって、やって来るかもしれないわ」
「…あなた、そんなに移り気じゃないじゃない」
「どうかしら? レオなんか霞むような素敵な紳士なら、気持ちだって変わるわ、きっと」
「信じていないでしょう?」
「信じようとしているわ」
ハミルトン氏は姉が結婚するには素晴らしい相手だ。更に思い合っているとなれば、この幸運を決して逃してはいけない。
ダイアナが彼との結婚に対してエマへ罪悪感を持つのなら、それは誤りだ。姉が個人の魅力や努力でつかんだ幸運なのに。それに寄与してない彼女へ何の呵責を持つ必要もない。
もし、ダイアナがこの機会を敢えて逃したとする。恋を失った姉妹同士同じ位置に立ち、寂しさを慰め合えるだろう。
(不幸でつながって、依存し合うのは、真の愛情じゃない)
「ねえ、ダイアナ。あなたがフィッツと幸せになるのは、わたしのためでもあるの」
エマは姉の肩に自分の頬を押し当てた。
(わかって)
長く黙って、ダイアナから
「……ありがとう。エマ。あなたが大好きよ」
と声がこぼれた。
そんな姉の頬に口づけることで、エマは返事に代えた。
それが昨夜の話だ。
髪を洗い終えたきちんとしたダイアナの様子を見て、彼女はハミルトン氏の部屋をノックした。
「どうぞ」
部屋には、上着を脱いで窓辺に立ち外を眺めている彼がいた。彼女へ向き直り、微笑んで言う。
「散歩なら付き合うよ」
彼女は首を振った。
「姉とお話しなさいません? 落ち着いたようですし」
彼はエマを見つめた。言葉の意図を図りかねているようで、彼女が頷いてみせた。
何度か瞬いたのち、深く吐息した。上着を手にし、すぐに羽織った。
「あなたも一緒に」
「いいえ。お二人の方がいいと思います。わたしは少しだけ歩いて来ます」
部屋の前で別れ、彼女は階下へ下りた。