憧れと結婚〜田舎令嬢エマの幸福な事情〜
35、暗い知らせ
出立の朝、それは飛び込んで来た。
急ぎの便でハミルトン邸に手紙が届けられた。スタイルズ家の母からのものだ。倹約家の母が速達便を頼むのは、よほどのことだった。姉妹に宛てたもので、ダイアナが急いで開封する。
便箋に目を落としてすぐ、姉が口元を手で覆う。
「何? 何が書いてあって?」
エマは姉の手にすがった。
ダイアナは息を呑み、つないだ。
「アシェルが、高熱だそうよ。エマに至急帰って欲しいと書いてあるわ」
姉から手紙を受け取り、エマは自分の目で読んだ。母の手紙はアシェルの病が綴られてあった。不安が感じられる文体は、丁寧な母に珍しく所々走り書きで乱れていた。
読み終えて、気が急いた。すぐにでも立ちたかった。ハミルトン氏は意を汲み、そのように取り計らってくれる。
「わたしも一緒に」
ダイアナがエマの手を握った。しかし、彼女は首を振った。母が求めているのはエマ一人だ。ハミルトン氏への配慮もあって、姉にまで帰って欲しいとは告げていない。
「大丈夫よ。お母様は看病はわたし一人で事足りると思っているの」
「でも…」
「ダイアナにはアメリアとジュリアもいるわ。彼女たちの側についてあげなくては」
長い休暇で姉妹と別れ、姉に懐いた二人に寂しい思いをさせた後だった。これ以上はハミルトン氏が許しても、姉自身が自分に許さないはずだ。
「大丈夫。帰ったら、もう元気かもよ。お医者様も呼んであると、ちゃんと書かれてあったもの」
「そうね、平気ね。…強い子だから」
ダイアナは泣きそうな顔で了解した。
「何かあれば、必ず頼って欲しい。エマ、これは約束だ」
ハミルトン氏も助力は惜しまないと、強く言い添えた。彼は姉の婚約者となり、既に家族のように近い。その間柄が、こんな今とても頼もしかった。
「ありがとう、フィッツ。とても心強いわ」
別れもそこそこにエマは馬車の人となった。
帰路への旅に興奮していたのはすっかり過去のことだった。アシェルの病という事態が彼女の心を暗くしていた。
(お母様、一人でどれほど不安かしら)
嫌な想像に沈みそうになる思いをその都度断ち切った。事情に同情し、付き添いのメイドも彼女へ細々と気遣ってくれた。
「ありがとう」
時にはそれを受けながら、礼を返した。御者も二人付いた立派な馬車での移動だ。二頭の馬脚も速い。安全に安心して旅が出来る今に彼女は感謝した。
(望み得る最上の状況だわ)
アシェルを思えば恐怖は去らないが、せめて不安に押しつぶされるのは止そう。強く自分に戒め続けた。
途中一泊を挟み、スタイルズ家に到着した。午後の遅い時間で、日常であればお茶を終えた頃だろう。
以前、ダイアナを送り届けてくれた時と同じく、母は馬車の人々へ休むようメイドに手配させ、労った。
エマはコートや手袋をもどかしく脱ぎ、ボンネットを外しながら階上に向かう。従ったメイドがそれらを受け取る。
「アシェルの具合は?」
気忙しく母に問う。
母の表情は沈んでいる。病状は思わしくないようだ。
アシェルは子供部屋寝ていた。赤い顔をしているのは、まだ熱が高い証拠だろう。頬と首に紅斑がある。
(熱のせいかしら?)
エマを認め、うっすらと首を動かした。彼女はぐったりとした手を握り、微笑んだ。
「良さそうね。すぐに治るわ」
傍らの水差しを取り、口に含ませた。乾いたアシェルの唇から水がこぼれ、首から流れて夜衣をぬらした。
ベッドの脇には、エヴィの書いた見舞いの手紙が貼られていた。「早く良くなって。お外で遊びましょう。待っているわ」と子供らしい文字で書かれてある。
しばらく付き添い、メイドを残して部屋を出た。詳しく母に聞きたいこともある。居間に下りて、向かい合う。
「熱を出して、もう十日になるわ。夜になると良くなることもあるの。でも、朝にはまたぶり返してしまう…」
「お医者様は何て?」
「流感でしょうと。お薬もいただいたわ。それを飲ませているのだけれど…」
母は元気なく首を振る。手のハンカチを弄び、目元に持って行く。涙ぐむその様子に、彼女ももらい泣きしそうになる。
「ごめんなさい。側にいられなくて…。お母様に我がままを言って、館を空けなければ良かった」
母のやつれた表情を見て、不在の悔しさに唇を噛む。彼女がいても、状況は変わらなかっただろうが、母を慰め支えることは出来た。
「いいのよ、そんなことは。キースも見舞ってくれたのよ。ボウマンの懇意のお医者様も寄越してくれたわ。優しい青年ね。その先生も同じ見立てで…」
「そう」
医師二人の診察も経ている。その上で快復していない今があった。
「もう後はあの子の体力次第……。なのに、あまり食事を取ってくれなくて…」
母は長くハンカチを目に押し当てている。涙が止まらないようだ。その様子は見るに痛々しい。
しかし、同じく悲しみに浸っていたって状況は改善しない。
「お母様はゆっくりと休んで。わたしがアシェルを見るわ」
「あなただって、旅で疲れているのに」
「疲れたのは、御者とメイドよ。わたしは快適な旅だったわ。平気よ」
そこで母ははっとして立ち上がった。書きもの机に向かう。ハミルトン氏への手ずからの礼状を書こうとしている。メイドに持たせようという意図が読め、エマはそれを制した。
「いいわ。お礼は、彼らに十分に伝えてもらうから。手紙はアシェルが元気になってから、たっぷりと書いたらいいじゃない」
母はためらっていたが、ペンを取らずにまた椅子に戻った。疲れも気力の落ちも見えた。華奢な肩がいつもより脆く感じる。
彼女は呼び鈴を鳴らし、メイドを呼んだ。母へお茶を運ばせる。まだ午後のお茶も済ませていない。
アシェルを思い、不安なのはとてもわかる。それで日常に支障をきたしているのなら、早晩母が倒れてしまう。
お茶が整ったのを見て、彼女はアシェルの元へ戻った。
急ぎの便でハミルトン邸に手紙が届けられた。スタイルズ家の母からのものだ。倹約家の母が速達便を頼むのは、よほどのことだった。姉妹に宛てたもので、ダイアナが急いで開封する。
便箋に目を落としてすぐ、姉が口元を手で覆う。
「何? 何が書いてあって?」
エマは姉の手にすがった。
ダイアナは息を呑み、つないだ。
「アシェルが、高熱だそうよ。エマに至急帰って欲しいと書いてあるわ」
姉から手紙を受け取り、エマは自分の目で読んだ。母の手紙はアシェルの病が綴られてあった。不安が感じられる文体は、丁寧な母に珍しく所々走り書きで乱れていた。
読み終えて、気が急いた。すぐにでも立ちたかった。ハミルトン氏は意を汲み、そのように取り計らってくれる。
「わたしも一緒に」
ダイアナがエマの手を握った。しかし、彼女は首を振った。母が求めているのはエマ一人だ。ハミルトン氏への配慮もあって、姉にまで帰って欲しいとは告げていない。
「大丈夫よ。お母様は看病はわたし一人で事足りると思っているの」
「でも…」
「ダイアナにはアメリアとジュリアもいるわ。彼女たちの側についてあげなくては」
長い休暇で姉妹と別れ、姉に懐いた二人に寂しい思いをさせた後だった。これ以上はハミルトン氏が許しても、姉自身が自分に許さないはずだ。
「大丈夫。帰ったら、もう元気かもよ。お医者様も呼んであると、ちゃんと書かれてあったもの」
「そうね、平気ね。…強い子だから」
ダイアナは泣きそうな顔で了解した。
「何かあれば、必ず頼って欲しい。エマ、これは約束だ」
ハミルトン氏も助力は惜しまないと、強く言い添えた。彼は姉の婚約者となり、既に家族のように近い。その間柄が、こんな今とても頼もしかった。
「ありがとう、フィッツ。とても心強いわ」
別れもそこそこにエマは馬車の人となった。
帰路への旅に興奮していたのはすっかり過去のことだった。アシェルの病という事態が彼女の心を暗くしていた。
(お母様、一人でどれほど不安かしら)
嫌な想像に沈みそうになる思いをその都度断ち切った。事情に同情し、付き添いのメイドも彼女へ細々と気遣ってくれた。
「ありがとう」
時にはそれを受けながら、礼を返した。御者も二人付いた立派な馬車での移動だ。二頭の馬脚も速い。安全に安心して旅が出来る今に彼女は感謝した。
(望み得る最上の状況だわ)
アシェルを思えば恐怖は去らないが、せめて不安に押しつぶされるのは止そう。強く自分に戒め続けた。
途中一泊を挟み、スタイルズ家に到着した。午後の遅い時間で、日常であればお茶を終えた頃だろう。
以前、ダイアナを送り届けてくれた時と同じく、母は馬車の人々へ休むようメイドに手配させ、労った。
エマはコートや手袋をもどかしく脱ぎ、ボンネットを外しながら階上に向かう。従ったメイドがそれらを受け取る。
「アシェルの具合は?」
気忙しく母に問う。
母の表情は沈んでいる。病状は思わしくないようだ。
アシェルは子供部屋寝ていた。赤い顔をしているのは、まだ熱が高い証拠だろう。頬と首に紅斑がある。
(熱のせいかしら?)
エマを認め、うっすらと首を動かした。彼女はぐったりとした手を握り、微笑んだ。
「良さそうね。すぐに治るわ」
傍らの水差しを取り、口に含ませた。乾いたアシェルの唇から水がこぼれ、首から流れて夜衣をぬらした。
ベッドの脇には、エヴィの書いた見舞いの手紙が貼られていた。「早く良くなって。お外で遊びましょう。待っているわ」と子供らしい文字で書かれてある。
しばらく付き添い、メイドを残して部屋を出た。詳しく母に聞きたいこともある。居間に下りて、向かい合う。
「熱を出して、もう十日になるわ。夜になると良くなることもあるの。でも、朝にはまたぶり返してしまう…」
「お医者様は何て?」
「流感でしょうと。お薬もいただいたわ。それを飲ませているのだけれど…」
母は元気なく首を振る。手のハンカチを弄び、目元に持って行く。涙ぐむその様子に、彼女ももらい泣きしそうになる。
「ごめんなさい。側にいられなくて…。お母様に我がままを言って、館を空けなければ良かった」
母のやつれた表情を見て、不在の悔しさに唇を噛む。彼女がいても、状況は変わらなかっただろうが、母を慰め支えることは出来た。
「いいのよ、そんなことは。キースも見舞ってくれたのよ。ボウマンの懇意のお医者様も寄越してくれたわ。優しい青年ね。その先生も同じ見立てで…」
「そう」
医師二人の診察も経ている。その上で快復していない今があった。
「もう後はあの子の体力次第……。なのに、あまり食事を取ってくれなくて…」
母は長くハンカチを目に押し当てている。涙が止まらないようだ。その様子は見るに痛々しい。
しかし、同じく悲しみに浸っていたって状況は改善しない。
「お母様はゆっくりと休んで。わたしがアシェルを見るわ」
「あなただって、旅で疲れているのに」
「疲れたのは、御者とメイドよ。わたしは快適な旅だったわ。平気よ」
そこで母ははっとして立ち上がった。書きもの机に向かう。ハミルトン氏への手ずからの礼状を書こうとしている。メイドに持たせようという意図が読め、エマはそれを制した。
「いいわ。お礼は、彼らに十分に伝えてもらうから。手紙はアシェルが元気になってから、たっぷりと書いたらいいじゃない」
母はためらっていたが、ペンを取らずにまた椅子に戻った。疲れも気力の落ちも見えた。華奢な肩がいつもより脆く感じる。
彼女は呼び鈴を鳴らし、メイドを呼んだ。母へお茶を運ばせる。まだ午後のお茶も済ませていない。
アシェルを思い、不安なのはとてもわかる。それで日常に支障をきたしているのなら、早晩母が倒れてしまう。
お茶が整ったのを見て、彼女はアシェルの元へ戻った。