憧れと結婚〜田舎令嬢エマの幸福な事情〜

8、恋の置きどころ

 寝室に引き上げ、着替えが済んだ頃だ。ノックの音がして、それがダイアナだと気づいた。

「どうぞ」

 返事をして、寝台の淵に腰掛けた。やはりダイアナがドアを開けて入って来る。そのままエマの隣りに座った。

 年も近い姉妹は幼い頃からこんな風に秘密の話を交わしてきた。大抵が他愛のないものだ。長じては美人と呼び声高いダイアナを誰それが見惚れていたとか、出かけた夜会の噂話などになった。

 父が亡くなった時も、母の前では口にしにくい将来への不安を呟き合ったものだった。

「手紙にあったけれど、最初から全部教えて」

 促され、エマはレオとの出会いからを話し出した。記憶はまだ鮮やかで、胸に迫る熱い感情に自分でも困惑する。いつしか、火照る頬を押さえつつ話していた。

 手紙にも記した音楽会の夜のこと、館の庭で過ごした午後のこと……。

 彼女だけではなく、母や弟のアシェルへも親切で、こちらを軽んじた振る舞いはなかった。二人の時間が彼の仕掛けた作り物であったとしても、家族への思いやりは真実だと信じていたい。

「話を聞けば、すごくいい方のように思うわね。あなたに厳しいオリヴィアを黙らせてしまうところなんて、特に。聞いていて、わたしの胸もすっとするわ」

「そんな優しさは、本物の彼だったのじゃないかと思うの」

「なら、エマ、他は嘘だったということ?」

「嘘つき呼ばわりするつもりはないの。正気に戻ったというか、目が覚めたのじゃないかと思うの。本来のあるべき彼に」

「変だと思うわ。たとえ気持ちが変わることがあったとしても、何かきっかけがないと。お邸からの急用がそれだとしても、いきなり思いが冷めるなんてあるのかしら」

 ダイアナは首を傾げる。まだ打ち明けていないレオとの出来事を知れば、姉も納得するだろうか、と思う。

 それは、別れの直前の雨の中のことだ。ぬれたまま身体を寄せ合ったこと。温もりも近く、互いの肌を感じ合った。別れ際、彼は彼女を引き寄せて腕に抱いた。すぐに抱擁は解かれたが、長くその感覚を忘れられないでいる。

 ふしだらなことはなかったと信じてはいるが、母には打ち明けることは出来ないと思う。

 目を伏せながらそれらを話した。ダイアナが側で息を飲むのがわかる。

 長い間の後だ。

「何もないのね、早まったことは何も」

 エマは首を強く振る。ダイアナに軽率な妹と誤解されたくない。

「レオは紳士よ。おかしな振る舞いに及んだりしないわ。何もなかったの。ひどい雨で、彼にしがみついていないと落馬しそうだったの」

「……そんなことがあったのなら、余計あなたへの思いが強まりそうだけれども……」

「逆に、冷静になったのじゃないかしら」

 振り返っても、あの時の二人は特別な感情の中にいたと思う。守るべきものを盾に、衝動のぎりぎりのところにいたのかもしれない。

 のち、長く彼女は陶然とその時間を甘く抱いていた。けれど、一方のレオはすぐにその夢から覚めた。

(自分を恥じたのかもしれない)

 距離を置きたくなってもおかしくないと、今なら彼の思考を何となく辿れそうに思う。若い男性なら持って当然の熱情でも、独身の男女が一線を越えることは決して許されない。

「身を律したのじゃないかしら。わたしといることは、彼にとって不名誉なことにつながりかねないもの」

 だから、急に出立を決めたのではないか。緊急事でも、邸の問題ごとでもなく。

 彼女の中では、そのように彼の行動の答えが出来ていた。連絡をくれないのも、『当分来れない』の意味も、すっきりとつながる。

「それにしたって、あなたの気持ちを置き去りにした、身勝手な行動だわ。紳士らしくないと思う。一言弁明があってもいいのに」

「きっと、それすら意識に上がらないの。それくらいの軽い存在だったのよ」

「そんな……」

「何の約束もなかったもの。それが何よりの証拠よ」

 少し笑ったつもりだった。なのに、口元は歪み、途端に泣き顔になる。ダイアナが肩を抱いてくれた。指が背を優しく叩く。

 諦めているし、わかってもいた。けれど、切ない。

 多分最初から、自分は彼へ淡く恋をしていたと思う。素敵な容姿に目が吸いついたのを覚えている。そんな彼が自分へ注ぐ熱い視線や、幾度もの気遣い。

 極めつきが、オリヴィアを示して、放った「あの子は嫌だ」という強い言葉だ。心が跳ねた。嬉しかった。

(レオほど好きになれる人にはもうきっと会えない)

 彼女の涙が波を越えるのを待って、ダイアナが言う。

「わたしからキースに聞いてみる? わからないこともあるわ。あなたの言う通りだったとしても、出立があまりに急過ぎると思うの。月を越す長い滞在だったのに、ボウマンのお邸の方たちに直接の礼もないなんて……」

「いいの、止して」

 考えてもわからないことは、一番簡単な答えが真実だ。

 自分では物足りない。そのことにきっと彼は気づいた。

(レオが選ぶ女性に、わたしは相応しくない)


 ダイアナが帰宅し、交流のある家々に挨拶を兼ねての外出が増えた。

 お茶会や晩餐、ゲームを楽しむ夜会などにも参加した。レオを思い、ふとした瞬間に暗い思いがよぎることも多い。それでも、穏やかに朗らかでいようと努めた。

 そして、日々のちょっとした出来事でも、ダイアナと意見を交わせることがエマには嬉しく得難いと思った。

 ある会で、近隣のウェントリン領地を購入し越してくる人物の噂を聞く。

「退役した軍人の方というわ。都市を離れた気候と風景のいいところを望まれて、らしいのよ」

 とはベルの談だ。

「ご家族は?」

「元軍人のその方と、小さな姪御さんがご一緒とか。お二人のようね」

 その話を聞き、エマは思いついたことがあった。幼い姪がいるのなら、家庭教師の必要もあるはず。その家庭に要望があるのなら、自分に勤まらないだろうか。

「越して来られて、そんなお話を聞いたらぜひ教えてほしいわ」

 彼女の言葉に、ベルだけでなくダイアナも驚いた。きれいな眉をひそめている。

「そんな必要はないわ。家の娘が二人も働くなんて…。お母様も何と言うか」

「近所だもの、家を出る必要もないし。もしそうなっても、お母様もきっと安心よ」

 ダイアナは困ったように微笑んだ。

 家のための金銭目的だけの発想でもなかった。暮らしに不満があるのではない。けれど、同じことの繰り返しだけでは、いつまでもレオの面影を引きずったままのような気がした。

(新しいことに目を向けないと)

 そんな焦りに似た思いがどこかにあった。

 教誨師夫人は早耳だ。そのベルを通せば、じき、ウェリントン領地の実情も伝わる。思いつきが実るかどうかは、その後の話だ。
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