政略結婚は純愛のように番外編〜チョコの思い出②〜
あのころ
午後八時を回った今井コンツェルン北部支社の秘書室にて。
ひとり残業を終えた由梨がパソコンをシャットダウンさせて窓の外に視線を送ると、夜の街に、雪がしんしんと降っている。
由梨にとって東京からこの街に来てはじめての本格的な冬である。
車での送迎を断り、電車で通勤している由梨にとっては、この雪の中を帰宅するだけでもひと仕事だ。
それでもそれを嫌だとはまったく思わなかった。
それどころか、降り積もる雪が暖かく自分を迎えてくれた、そんな気持ちにすらなる。そのくらい今日はいいことがあった。
机の横に置いてあるふたつの包みに視線を送り、由梨は笑みを浮かべた。
長坂と蜂須賀にもらったバレンタインチョコのお返しである。
ここに来て、仕事の楽しさを教えてくれたふたりに感謝の気持ちを伝えたくて贈ったチョコレートには、メッセージカードを添えた。
『いつもありがとうございます。これからもご指導よろしくお願いします』
昼休みにお返しを手渡してくれた長坂と蜂須賀からそのカードに対する意外な言葉をもらったのである。
『今井さんがこんなに頑張り屋さんだとは思わなかった。いい後輩が来てくれて、助かってる。社長の仕事だけでなく、殿の仕事も助けてもらえるとは思わなかったもの。ねえ、室長』
長坂の言葉に、隣で蜂須賀が頷いた。
『本当によく頑張ってくれているよ。秘書室へ配属を決めてくれた副社長に感謝だね。もちろん、東京からこちらへ来てくれた今井さんにも。これからもよろしく』
ふたりの言葉に、不覚にも泣いてしまいそうになったと言ったら、きっと笑われてしまうだろう。
社会人にもなって、上司や先輩に褒められたことがこんなに嬉しいなんて。
それでも。
きちんと仕事をさせてもらえる。
そしてそれに正当な評価をもらえる。
そんな当たり前のことが、由梨にとっては、本来ありえない未来だったのだ。
幼少期から、旧財閥今井家の令嬢としてキチンとした教育を受けてはきたけれど、それは由梨自身のためではなく、あくまでも今井家のため。こんな風に仕事をするためではなかったのだ。
今井家にとって由梨は政略結婚の駒にすぎない。
どこへ嫁に出しても恥ずかしくないようにしていろと伯父から常に言われている。
もちろん今も置かれている境遇は変わらないけれど、人生どう転ぶかはわからない。やれるうちに精一杯やっておこう。
ありがたいふたりの言葉に、そう決意した一日だったのだ。
降り積もる雪を見つめて由梨がそんなことを考えていると、廊下へ続くドアが開く。振り返ると加賀が出先から帰ってきた。
蜂須賀を伴っておらず、ひとりだ。
「お疲れさまです、副社長」
由梨が声をかけると、彼は「お疲れ」と答える。
確か彼は今日は夕方に取引先へ出かけていった。直帰だと言っていたように思ったけれど。
「直帰されると聞いていましたが」
不思議に思い尋ねると、彼は肩に積もった雪を払い落としながら答えた。
「まだ少しやることがあるから戻ってきたんだよ。今井さんは残業?」
「はい。ですが今、終わりました」
由梨そう言って立ち上がった。
「コーヒー淹れますね」
するとそれに、加賀は首を横に振る。
「いやいいよ。君はもう帰るところだろう。今夜は雪が止みそうにない。雪道は慣れていないだろうから、滑らないように気をつけて」
「ありがとうございます。でも、コーヒーを淹れるくらいすぐですから」
そう言って由梨は給湯室へ向かった。
ひとり残業を終えた由梨がパソコンをシャットダウンさせて窓の外に視線を送ると、夜の街に、雪がしんしんと降っている。
由梨にとって東京からこの街に来てはじめての本格的な冬である。
車での送迎を断り、電車で通勤している由梨にとっては、この雪の中を帰宅するだけでもひと仕事だ。
それでもそれを嫌だとはまったく思わなかった。
それどころか、降り積もる雪が暖かく自分を迎えてくれた、そんな気持ちにすらなる。そのくらい今日はいいことがあった。
机の横に置いてあるふたつの包みに視線を送り、由梨は笑みを浮かべた。
長坂と蜂須賀にもらったバレンタインチョコのお返しである。
ここに来て、仕事の楽しさを教えてくれたふたりに感謝の気持ちを伝えたくて贈ったチョコレートには、メッセージカードを添えた。
『いつもありがとうございます。これからもご指導よろしくお願いします』
昼休みにお返しを手渡してくれた長坂と蜂須賀からそのカードに対する意外な言葉をもらったのである。
『今井さんがこんなに頑張り屋さんだとは思わなかった。いい後輩が来てくれて、助かってる。社長の仕事だけでなく、殿の仕事も助けてもらえるとは思わなかったもの。ねえ、室長』
長坂の言葉に、隣で蜂須賀が頷いた。
『本当によく頑張ってくれているよ。秘書室へ配属を決めてくれた副社長に感謝だね。もちろん、東京からこちらへ来てくれた今井さんにも。これからもよろしく』
ふたりの言葉に、不覚にも泣いてしまいそうになったと言ったら、きっと笑われてしまうだろう。
社会人にもなって、上司や先輩に褒められたことがこんなに嬉しいなんて。
それでも。
きちんと仕事をさせてもらえる。
そしてそれに正当な評価をもらえる。
そんな当たり前のことが、由梨にとっては、本来ありえない未来だったのだ。
幼少期から、旧財閥今井家の令嬢としてキチンとした教育を受けてはきたけれど、それは由梨自身のためではなく、あくまでも今井家のため。こんな風に仕事をするためではなかったのだ。
今井家にとって由梨は政略結婚の駒にすぎない。
どこへ嫁に出しても恥ずかしくないようにしていろと伯父から常に言われている。
もちろん今も置かれている境遇は変わらないけれど、人生どう転ぶかはわからない。やれるうちに精一杯やっておこう。
ありがたいふたりの言葉に、そう決意した一日だったのだ。
降り積もる雪を見つめて由梨がそんなことを考えていると、廊下へ続くドアが開く。振り返ると加賀が出先から帰ってきた。
蜂須賀を伴っておらず、ひとりだ。
「お疲れさまです、副社長」
由梨が声をかけると、彼は「お疲れ」と答える。
確か彼は今日は夕方に取引先へ出かけていった。直帰だと言っていたように思ったけれど。
「直帰されると聞いていましたが」
不思議に思い尋ねると、彼は肩に積もった雪を払い落としながら答えた。
「まだ少しやることがあるから戻ってきたんだよ。今井さんは残業?」
「はい。ですが今、終わりました」
由梨そう言って立ち上がった。
「コーヒー淹れますね」
するとそれに、加賀は首を横に振る。
「いやいいよ。君はもう帰るところだろう。今夜は雪が止みそうにない。雪道は慣れていないだろうから、滑らないように気をつけて」
「ありがとうございます。でも、コーヒーを淹れるくらいすぐですから」
そう言って由梨は給湯室へ向かった。
< 1 / 3 >