政略結婚は純愛のように番外編〜チョコの思い出②〜
そして、今
「きれい……」
リビングのライトに紫色の光を乱反射させる切り子ガラスのグラスを手に由梨が呟くと、ソファの隣で隆之が微笑んだ。
「気に入った? 出先で見つけて、由梨が好きそうだと思ったんだ」
子供たちが寝た後の加賀家のリビングである。
「バレンタインのお返しにちょうどいいと思って」
「お返しって……。あれは沙羅からのチョコなのに」
グラスはすごく嬉しいけれど、少し申し訳ない気持ちになって由梨は答えた。
今日は三月十四日、世間でいうホワイトデーだ。
今日までの三日間、出張で家を留守にしていた隆之は、小さな手で一生懸命チョコを作った沙羅のために、キャンディの花束を持って帰ってきた。
彼女はそれを歓声をあげて受け取った。
もったいなくて食べられず、結局リボンをかけたまま、お気に入りのカップにさして枕元に置いてある。
眠りにつく直前まで、うっとりと眺めていた。
「君も沙羅と一緒にチョコを作っていたじゃないか」
「だけど……。でも嬉しい、ありがとう。出張、忙しかったんでしょう?」
由梨の言葉に、隆之が肩をすくめた。
「妻に土産を買う時間くらいはあるよ」
「でも」
「由梨にプレゼントを選ぶの、俺好きなんだ。休憩代わりだよ」
そして少し考えて、意味深な視線を由梨に送った。
「はじめて君への贈り物を選んだのもいつかの年のこの季節だったな」
それが由梨の入社一年目のバレンタインのことを言っているのだと思い当たり、由梨はぷっと噴き出した。
やっぱり彼は、気にしていたのだ。
バレンタインの出来事を由梨が忘れていたことを。
「そうだったね」
笑いながら答えると、彼は目を細めて由梨を見た。
「やっと思い出したか」
「やっとじゃなくて、すぐに思い出したのよ。だけど間違いで渡してしまったようなものだから……。ほら、失敗って早く忘れたくなるものじゃない? 隆之さん、ルールを知らない私に気を遣って仕方なく受け取ってくれたんでしょう?」
問いかけると、彼は首を傾げた。
「どうかな? 確かにあの時点では由梨を好きだと自覚していたわけではなかったけど。仕方なくもらったとは思わなかったな。他の社員からのものは反射的に断る癖がついていたのに、そうしなかったのは気を遣ったというよりは……やっぱり君のことが気になっていたんだろう」
そして優しい眼差しを由梨に向ける。
「ただ、次の月になにを返せばいいかわからなくてすごく迷ったんだ。女性へのプレゼントをあんなに迷ったのははじめてで……」
と、そこで彼は、由梨の視線に気がついて、咳払いをして口を閉じた。
「はじめてなんて本当かな……」
呟いて由梨は彼を睨んだ。
由梨と結婚する前は、たくさんの人と付き合いがあったという彼がそんなはずないと思う。
隆之がふっと笑って、由梨の頬にキスを落とした。
「本当だ」
その柔らかな甘い感触に、由梨は頬を緩ませる。
……以前ならこんな風にやきもちを焼いてしまっても、その気持ちをそのまま口にすることはできなかった。
彼を困らせたり、不快にさせたりしないか心配だったから。
でも家族になり、ふたりの子供たちに恵まれた今は、素直に想いを口にできる。
それに彼は、いつも変わらず由梨への愛情を言葉にして返してくれるのだ。
彼の口から語られる少し甘いふたりの思い出話に、由梨は幸せな気持ちで目を閉じて彼の肩に身を委ねる。
でもそこで。
「だけど由梨は忘れてそうだけど。その俺からのプレゼントがなんだったか」
疑わし気な言葉に、目を開いて瞬きをした。
「え? えーっと。覚えてる……と思うけど」
答えて、由梨は考えを巡らせる。
あの日もらった三つの包みは、家に帰ってもすぐには開けられなかったのを覚えている。
なんだかとてももったいないような気がしたのだ。
確かみっつともお菓子だった。会社に持っていって長坂と一緒に食べたり、休日のおやつにしたりして楽しんだ。
その中で隆之にもらったのは……。
「フィナンシェ……だったかな?」
恐る恐る問いかけると、彼はやや大袈裟にはーっと深いため息をつく。
そしてゴロンとソファに横になって由梨の膝に頭を乗せた。
——間違えた。
でも、さほど気にしてはいないようで気持ちよさそうに笑みを浮かべて目を閉じている。
由梨はあの日を思い出し、口を開いた。
「だけどなにを話したのかは、はっきり覚えてる」
隆之が目を開いて由梨を見上げた。
「私の字が綺麗だから、お礼状を書いてほしいって言ってくれたの。私、すごく嬉しかった。こっちに来る前は、会社の役に立てるか不安だったけど、少しずつできることが増えてきたのかもって思って。私にとってはあの言葉の方が、プレゼントだったよ」
本心からそう言うと、隆之が目を細めて由梨の首に腕を回す。
その腕に促されるように身を屈めて、ふたり、短くて優しいキスをした。
そのまま彼はまた目を閉じて呟いた。
「やっぱり家は落ち着くな」
「出張、お疲れ様です」
癖のある黒い髪を指で梳くと、由梨の胸に温かい想いが広がっていく。
こんな風に、彼の閉じたまつ毛を見られるのが幸せだと心底思う。
たくさんのものを背負い守るために、厳しい世界に身を置く彼が、こうやって安らげる場所が、自分なのだと実感できるから……。
育児に仕事にと互いに忙しくするふたりにとって、こんな時間は、大切だ。
この時間があるから、由梨も頑張れるのだ。
——とはいえ。
由梨は黒い髪を撫でる手を止めて彼の様子を確認する。
よほど疲れていたのだろう。
彼は寝息を立ててはじめていた。
もう少しこうしていたいけれど、このままここで寝たら風邪を引いてしまう。
起こすのはしのびないけれど……。
「隆之さん、隆之さん」
呼びかけて、トントンと優しく肩を叩く。が、彼は一向に起きる気配がない。
ならば布団を持ってこようと、立ち上がろうとして、彼の腕が腰に回されていることに気がついた。
眠っているはずなのにどうしてか力強く回されていて抜け出せそうにない。
「……困ったな」
自分をガッチリとホールドしたまま、気持ちよさそうに眠る隆之を見つめて、由梨はそう呟いた。
リビングのライトに紫色の光を乱反射させる切り子ガラスのグラスを手に由梨が呟くと、ソファの隣で隆之が微笑んだ。
「気に入った? 出先で見つけて、由梨が好きそうだと思ったんだ」
子供たちが寝た後の加賀家のリビングである。
「バレンタインのお返しにちょうどいいと思って」
「お返しって……。あれは沙羅からのチョコなのに」
グラスはすごく嬉しいけれど、少し申し訳ない気持ちになって由梨は答えた。
今日は三月十四日、世間でいうホワイトデーだ。
今日までの三日間、出張で家を留守にしていた隆之は、小さな手で一生懸命チョコを作った沙羅のために、キャンディの花束を持って帰ってきた。
彼女はそれを歓声をあげて受け取った。
もったいなくて食べられず、結局リボンをかけたまま、お気に入りのカップにさして枕元に置いてある。
眠りにつく直前まで、うっとりと眺めていた。
「君も沙羅と一緒にチョコを作っていたじゃないか」
「だけど……。でも嬉しい、ありがとう。出張、忙しかったんでしょう?」
由梨の言葉に、隆之が肩をすくめた。
「妻に土産を買う時間くらいはあるよ」
「でも」
「由梨にプレゼントを選ぶの、俺好きなんだ。休憩代わりだよ」
そして少し考えて、意味深な視線を由梨に送った。
「はじめて君への贈り物を選んだのもいつかの年のこの季節だったな」
それが由梨の入社一年目のバレンタインのことを言っているのだと思い当たり、由梨はぷっと噴き出した。
やっぱり彼は、気にしていたのだ。
バレンタインの出来事を由梨が忘れていたことを。
「そうだったね」
笑いながら答えると、彼は目を細めて由梨を見た。
「やっと思い出したか」
「やっとじゃなくて、すぐに思い出したのよ。だけど間違いで渡してしまったようなものだから……。ほら、失敗って早く忘れたくなるものじゃない? 隆之さん、ルールを知らない私に気を遣って仕方なく受け取ってくれたんでしょう?」
問いかけると、彼は首を傾げた。
「どうかな? 確かにあの時点では由梨を好きだと自覚していたわけではなかったけど。仕方なくもらったとは思わなかったな。他の社員からのものは反射的に断る癖がついていたのに、そうしなかったのは気を遣ったというよりは……やっぱり君のことが気になっていたんだろう」
そして優しい眼差しを由梨に向ける。
「ただ、次の月になにを返せばいいかわからなくてすごく迷ったんだ。女性へのプレゼントをあんなに迷ったのははじめてで……」
と、そこで彼は、由梨の視線に気がついて、咳払いをして口を閉じた。
「はじめてなんて本当かな……」
呟いて由梨は彼を睨んだ。
由梨と結婚する前は、たくさんの人と付き合いがあったという彼がそんなはずないと思う。
隆之がふっと笑って、由梨の頬にキスを落とした。
「本当だ」
その柔らかな甘い感触に、由梨は頬を緩ませる。
……以前ならこんな風にやきもちを焼いてしまっても、その気持ちをそのまま口にすることはできなかった。
彼を困らせたり、不快にさせたりしないか心配だったから。
でも家族になり、ふたりの子供たちに恵まれた今は、素直に想いを口にできる。
それに彼は、いつも変わらず由梨への愛情を言葉にして返してくれるのだ。
彼の口から語られる少し甘いふたりの思い出話に、由梨は幸せな気持ちで目を閉じて彼の肩に身を委ねる。
でもそこで。
「だけど由梨は忘れてそうだけど。その俺からのプレゼントがなんだったか」
疑わし気な言葉に、目を開いて瞬きをした。
「え? えーっと。覚えてる……と思うけど」
答えて、由梨は考えを巡らせる。
あの日もらった三つの包みは、家に帰ってもすぐには開けられなかったのを覚えている。
なんだかとてももったいないような気がしたのだ。
確かみっつともお菓子だった。会社に持っていって長坂と一緒に食べたり、休日のおやつにしたりして楽しんだ。
その中で隆之にもらったのは……。
「フィナンシェ……だったかな?」
恐る恐る問いかけると、彼はやや大袈裟にはーっと深いため息をつく。
そしてゴロンとソファに横になって由梨の膝に頭を乗せた。
——間違えた。
でも、さほど気にしてはいないようで気持ちよさそうに笑みを浮かべて目を閉じている。
由梨はあの日を思い出し、口を開いた。
「だけどなにを話したのかは、はっきり覚えてる」
隆之が目を開いて由梨を見上げた。
「私の字が綺麗だから、お礼状を書いてほしいって言ってくれたの。私、すごく嬉しかった。こっちに来る前は、会社の役に立てるか不安だったけど、少しずつできることが増えてきたのかもって思って。私にとってはあの言葉の方が、プレゼントだったよ」
本心からそう言うと、隆之が目を細めて由梨の首に腕を回す。
その腕に促されるように身を屈めて、ふたり、短くて優しいキスをした。
そのまま彼はまた目を閉じて呟いた。
「やっぱり家は落ち着くな」
「出張、お疲れ様です」
癖のある黒い髪を指で梳くと、由梨の胸に温かい想いが広がっていく。
こんな風に、彼の閉じたまつ毛を見られるのが幸せだと心底思う。
たくさんのものを背負い守るために、厳しい世界に身を置く彼が、こうやって安らげる場所が、自分なのだと実感できるから……。
育児に仕事にと互いに忙しくするふたりにとって、こんな時間は、大切だ。
この時間があるから、由梨も頑張れるのだ。
——とはいえ。
由梨は黒い髪を撫でる手を止めて彼の様子を確認する。
よほど疲れていたのだろう。
彼は寝息を立ててはじめていた。
もう少しこうしていたいけれど、このままここで寝たら風邪を引いてしまう。
起こすのはしのびないけれど……。
「隆之さん、隆之さん」
呼びかけて、トントンと優しく肩を叩く。が、彼は一向に起きる気配がない。
ならば布団を持ってこようと、立ち上がろうとして、彼の腕が腰に回されていることに気がついた。
眠っているはずなのにどうしてか力強く回されていて抜け出せそうにない。
「……困ったな」
自分をガッチリとホールドしたまま、気持ちよさそうに眠る隆之を見つめて、由梨はそう呟いた。