ハイスペミュージシャンは女神(ミューズ)を手放さない!
初めてのドライブ
「……ってなわけで、先輩の推し活に付き合ったんです」
「へぇ。大変だった?」
「大変でしたよ〜。休憩時間、二人でおにぎり咥えながらずーっと更新ボタン押して、疲れちゃいました」
こうやって……!と画面を連打するフリをすると、隆介は顔をくしゃくしゃにして笑った。作った料理は冷めてしまっていたので温め直し、その間に保温状態になっていた白米をよそった。隆介が言っていたようにいつか本当に一緒に住めたらいい。凝った料理はなかなか作れないけれど、彼のためになら頑張れそうだ。
「チケット、取れたの?」
「私はダメだったんですけど、先輩はタブレットとスマホの2台で戦ってて……しっかり購入してました」
「お、よかったじゃん。雫も行くの?」
「一応、その予定ではあるんですけど……」
「けど?何か問題がある?」
「隆介さんのお休みとかぶってたら、隆介さんを優先したいな……って」
「ふふ。残念だけどその日は俺も一日缶詰め。楽しんでおいで」
日程について詳しく話したっけ?と疑問を感じながらも、彼に断られてしまっては仕方ないので、素直に分かりましたと返事をした。隆介は雫のために作業の合間を縫って4階へ上がってきてくれるものの、あの表参道デート以来デートらしいデートはできていない。
あれもこれも美味いと言いながら食べていた隆介は、3人前近い量を作ったというのに全て食べ切った。流石に食後は苦しいと笑っていたけれど、やっぱり食べ切ってもらえるのは嬉しい。最近は自分のためにばかり料理していたから、こういうささやかな喜びの時間を忘れていたように思う。
「でも私ライブハウスとかって初めてで……すごい緊張しちゃいます」
「マナー悪い奴がいたら問答無用でスタッフに声かければいいし、大丈夫だよ」
音楽を仕事にしている人にはそんなに問題じゃないのかもしれないけれど、初めてのことにはどうしたって心配してしまう性格なのだ。まだ後2週間ほども時間があるというのに、会場案内サイトを見ては、場所を確認したり、入退場場所を覚えたりしてしまっている。当然ながら、おすすめされた曲だって再生リストを作って毎日聴くという用意周到ぶりだ。
「そんなに心配なら、見にいく?」
「えっ!でも……」
「多分ライブしてるから中は無理だけど、外から覗くくらいなら問題ないでしょ」
「まあそうですけど、いいんですか?」
「もちろん。貴重品だけ取ってくるから待ってて」
一瞬席を離れ電話をした隆介は、二言ほど話してすぐに戻ってきた。「せっかくだからドライブデートしよう」と鍵を持ってきた彼は、壁にかけられている黒のバケットハットを雫に被せた。彼と揃いのパーカーにタイトスカートという組み合わせだから、なんともマッチしている感じがして心が跳ねる。
「お邪魔、します」
「なにそれ、気にしなくていいのに」
「実は、大人になってから家族以外の車に乗るの初めてで……ちょっと不思議で、得した気分です」
「お得なの?」
「隆介さんと一緒にいられるだけでも幸せなのに、そのままドライブだなんて、お得すぎます」
「くくっ。これだけで喜んでもらえるなら俺も車出す甲斐があるな」
広い車内にふかふかのシート。ドアを開けた瞬間から、スペアミントのフレッシュで爽やかな香りがする。ここでも彼の黒好きがあってか、インテリアは黒で統一されていた。後部座席のガラスはスモークになっていて、なんだかこの車内の暗さすらセクシーに思えてしまう。
「雫、席の前の引き出し開けて、これ入れて」
差し出されたのは真っ白なラベルのCD。引き出しを開けたところには1冊にまとめられた車検証と、CDとSDを挿し込むボックスが備え付けられている。すぐにそれを指示しているとわかったので、雫は素直にそこへCDを差し込んだ。
「歌詞はまだ確定じゃないんだけど……最新の曲が入ってる」
「えっ!じゃあ、本当にいちばんなんですか?すごい……嬉しいです」
いくつかの音を試すようなアコースティックギターの音から始まる曲。日本語の歌詞よりも、まだAhとかOhとかlalalaといった部分も結構多い。本当に出来たてほやほやで、今この瞬間に生まれたような未完成感。彼の頭の中で浮かんだメロディをそのまま閉じ込めたようなワクワク感もある。誰かと一緒に録音したのか、曲の終わりには少しの拍手とフー!といった掛け声も入っていて、楽しそうな現場が想像できた。
「っ……ふふふ。本当ありきたりな表現かもしれないですけど、胸があったかくなるような、楽しい曲ですね」
「まだだいぶ改善の余地ありだけど、雫のこと考えて作ったんだ」
運転している隆介は正面を見たまま、制作秘話を語り続ける。多少の照れ隠しもあるだろうけれど、余裕ありげにハンドルを持つ姿はいつもとはまた違うかっこよさがあって、雫はその美しい横顔に見惚れた。
「俺の今の原動力は、雫が『何者でもない俺が好き』って言ってくれたからだなって本気で思ってて。だからこれは、俺から雫へのお返し」
「えっでも私、まだ何も、隆介さんにあげられてないのに……」
雫は正直なところ、彼から沢山のものを貰いすぎていると感じていた。隆介から貰ったものは、愛情も、優しさも、プレゼントだって、何もかもが自分とは釣り合っていない。簡単な料理を作るってくらいじゃ、コスパが悪すぎる。自分が男だったら、絶対に「損した」と思ってしまう気すらする。
「私むしろ貰ってばっかりで、申し訳ないくらいで……」
「そんなことない。雫は俺をいつも癒してくれてる」
「それなら、それはすっごく嬉しいんですけど……。私、隆介さんの側にいるとすごく安心できて、初めてのことだらけで楽しくて。でも、だからこそ、私がここにいていいのか時々わからなくなるんです。何もできないのに、どんどん好きになるばっかりで……ごめんなさい」
「いや、雫が謝ることじゃない」
赤信号で若干急ブレーキ気味に止まった隆介は、CDの音量を下げてから、膝の上に置いていた左手を雫に伸ばしてきた。一瞬こちらに向けられたメガネ越しの目は真剣で、どきりとさせられる。隆介に捕まった右手は、隆介の口元に誘導されてキスの雨の洗礼を受けた。信号が変わるとすぐ左車線に入った車は、少し走って路肩に停まった。
制服姿の高校生たちがゾロゾロと歩き始める午後5時すぎ。車幅の広い高級外車が停まっているのはやはり気になるらしく、通行人たちは時折チラチラとこちらを見ているような気がした。彼はシートベルトをサッと外して膝を曲げるようにして座り直し、若干身を乗り出すようにして雫の方へ体を向けた。
「知らない男に振られて落ち込んでいてくれたこと、雫が俺と出会ってくれたこと、無駄なことはないって教えてくれたこと。あげたらキリがないくらいに、俺は全てが雫と出会うための運命だったんだと思ってる。でも……俺の好きな人を貶すのは、例え雫でも許せない」
舌先を強引に捩じ込んでくる隆介。いつもよりも性急で感情をぶつけるような激しい口付けが雫を襲う。ヘッドレストに頭を抑えられ、その少し暴力的な愛から逃げることは叶わない。その荒々しさに、雫は思わず目の前のパーカーへしがみついた。
「っはぁ……っはぁ……っ」
「雫、無意識?それ。ダメだよ、自分を襲ってる男を頼っちゃ」
「っえ……あっ!」
指摘されて思わず握っていた手をパッと離したけれど、龍介のパーカーにはもう若干の皺がついてしまっている。顔を横に振って隆介を見つめると、笑いながらごめんと抱きしめられた。
「はぁ、雫があまりに可愛いから怒りが飛んじゃったな。……せっかく車に雫の匂いを残しておけるいい機会だったのに」
「えっ!?」
「ウソウソ、冗談。雫のこと今すぐ抱いてやろうかと思ったけど、向こうの観客が気になりすぎて。これ以上雫を彼らに見せたくない……すぐそこだからもう行こう」
日差しが当たってキラキラと光る雫の髪を掬った隆介は毛先に軽くキスをして、また運転体制に戻った。チラリと視線を外に向けると、フェンスに腰掛けた女子高生5人組が互いに小突いたりイタズラし合いながら、確かにこちらに意識を向けているように見えた。
「わ、もしかして、見られてました……?」
「どうだろ?雫はハットで見えてないとは思うけど」
龍介の手がバケットハットの上に乗り、雫はさらに目ぶかに被るようになった。隆介もほっそりとした骨格とはいえ、男物のハットは雫にとって十分過ぎるほど大きい。これでは正面を見るのにも苦労するほどだ。被り直そうとする雫の手を阻むように、隆介は帽子から手を離さなかった。
「きゃ……っこれじゃ、何も見えないですよ?」
「雫のこともう誰にも見せたくないから、それくらいでいい」
「そんなぁ」
「俺には可愛いすぎて、本当なら腕の中からだって出したくないんだから。それくらい許してよ」
「う……わかりました」
「ん、いい子」
雫の行動ひとつで機嫌を良くしたのか、隆介は一度下げていた音楽のボリュームを上げた。ずっとギター1本の楽曲が続いているのに、曲調が変わったり、声色が変わったり、聞き手を飽き残させない工夫を感じる。木陰のように涼やかな曲調のその曲はまさにドライブにピッタリだなと思いながら、雫は頷くようにリズムに乗った。
夕方の空の変化は一瞬で、みるみるうちに日が暮れる。レインボーブリッジを超えた頃には空も紫色に変わっていた。車内にはポロポロと音の溢れるような切ないギターの音色。それに合わせるように隆介の鼻歌が重なる。こんなに魅力的な人の鼻歌をこんなに至近距離で聴くことのできる自分は、なんて幸せ者なんだろう。
到着した会場の入り口付近にはたくさんのフラワースタンドが飾られている。数人の女性陣が写真を撮ったり、グッズを購入したりしていて、確かにライブが開催されている雰囲気があった。現地に来れば大したことないでしょ、と雫の肩に腕を回した隆介は、どこか慣れたようにベンチへ案内した。
「雫はさ、ただ俺に愛されててよ」
「……え?」
「もしまだ俺に釣り合わないって思うなら、俺に溺愛されてることだけを信じて、ただ誇りに思っていればいい。俺はもう歩みを止めないしまだまだ進化するから、雫は俺のブレーキでいて」
「ブレーキ、ですか?」
「そう。俺の暴走を止められるのは、雫だけだよ」
海の近いZIPPは、風が強い。大きめの帽子は雫の頭から浮きかけて、両手でツバを掴んだ。彼の声がほんのりと聞こえて耳を澄ますけれど、風の音でなかなか聞き取ることができない。
「――……から」
風の妨害によって、1歩以下の距離を遠く感じる。ふたりの距離をゼロにしようと首元に顔を寄せると、隆介はもう一方の腕も雫の肩に載せ、少しかがむようにして目線を合わせた。観覧車の光が艶やかな隆介の黒髪に細かく反射してキラキラと輝き、初めて部屋へ行った日の姿を彷彿とさせる。まるで周囲の光を集めるような、そういう不思議な魅力があるんだよなと再確認させられる。
「――雫のために歌うから」
顔をくしゃりとさせて笑うその人の目は、まっすぐと雫だけを見つめている。自分にはこの目に見えているものだけで、他にはもう何もいらないとばかりに。
「へぇ。大変だった?」
「大変でしたよ〜。休憩時間、二人でおにぎり咥えながらずーっと更新ボタン押して、疲れちゃいました」
こうやって……!と画面を連打するフリをすると、隆介は顔をくしゃくしゃにして笑った。作った料理は冷めてしまっていたので温め直し、その間に保温状態になっていた白米をよそった。隆介が言っていたようにいつか本当に一緒に住めたらいい。凝った料理はなかなか作れないけれど、彼のためになら頑張れそうだ。
「チケット、取れたの?」
「私はダメだったんですけど、先輩はタブレットとスマホの2台で戦ってて……しっかり購入してました」
「お、よかったじゃん。雫も行くの?」
「一応、その予定ではあるんですけど……」
「けど?何か問題がある?」
「隆介さんのお休みとかぶってたら、隆介さんを優先したいな……って」
「ふふ。残念だけどその日は俺も一日缶詰め。楽しんでおいで」
日程について詳しく話したっけ?と疑問を感じながらも、彼に断られてしまっては仕方ないので、素直に分かりましたと返事をした。隆介は雫のために作業の合間を縫って4階へ上がってきてくれるものの、あの表参道デート以来デートらしいデートはできていない。
あれもこれも美味いと言いながら食べていた隆介は、3人前近い量を作ったというのに全て食べ切った。流石に食後は苦しいと笑っていたけれど、やっぱり食べ切ってもらえるのは嬉しい。最近は自分のためにばかり料理していたから、こういうささやかな喜びの時間を忘れていたように思う。
「でも私ライブハウスとかって初めてで……すごい緊張しちゃいます」
「マナー悪い奴がいたら問答無用でスタッフに声かければいいし、大丈夫だよ」
音楽を仕事にしている人にはそんなに問題じゃないのかもしれないけれど、初めてのことにはどうしたって心配してしまう性格なのだ。まだ後2週間ほども時間があるというのに、会場案内サイトを見ては、場所を確認したり、入退場場所を覚えたりしてしまっている。当然ながら、おすすめされた曲だって再生リストを作って毎日聴くという用意周到ぶりだ。
「そんなに心配なら、見にいく?」
「えっ!でも……」
「多分ライブしてるから中は無理だけど、外から覗くくらいなら問題ないでしょ」
「まあそうですけど、いいんですか?」
「もちろん。貴重品だけ取ってくるから待ってて」
一瞬席を離れ電話をした隆介は、二言ほど話してすぐに戻ってきた。「せっかくだからドライブデートしよう」と鍵を持ってきた彼は、壁にかけられている黒のバケットハットを雫に被せた。彼と揃いのパーカーにタイトスカートという組み合わせだから、なんともマッチしている感じがして心が跳ねる。
「お邪魔、します」
「なにそれ、気にしなくていいのに」
「実は、大人になってから家族以外の車に乗るの初めてで……ちょっと不思議で、得した気分です」
「お得なの?」
「隆介さんと一緒にいられるだけでも幸せなのに、そのままドライブだなんて、お得すぎます」
「くくっ。これだけで喜んでもらえるなら俺も車出す甲斐があるな」
広い車内にふかふかのシート。ドアを開けた瞬間から、スペアミントのフレッシュで爽やかな香りがする。ここでも彼の黒好きがあってか、インテリアは黒で統一されていた。後部座席のガラスはスモークになっていて、なんだかこの車内の暗さすらセクシーに思えてしまう。
「雫、席の前の引き出し開けて、これ入れて」
差し出されたのは真っ白なラベルのCD。引き出しを開けたところには1冊にまとめられた車検証と、CDとSDを挿し込むボックスが備え付けられている。すぐにそれを指示しているとわかったので、雫は素直にそこへCDを差し込んだ。
「歌詞はまだ確定じゃないんだけど……最新の曲が入ってる」
「えっ!じゃあ、本当にいちばんなんですか?すごい……嬉しいです」
いくつかの音を試すようなアコースティックギターの音から始まる曲。日本語の歌詞よりも、まだAhとかOhとかlalalaといった部分も結構多い。本当に出来たてほやほやで、今この瞬間に生まれたような未完成感。彼の頭の中で浮かんだメロディをそのまま閉じ込めたようなワクワク感もある。誰かと一緒に録音したのか、曲の終わりには少しの拍手とフー!といった掛け声も入っていて、楽しそうな現場が想像できた。
「っ……ふふふ。本当ありきたりな表現かもしれないですけど、胸があったかくなるような、楽しい曲ですね」
「まだだいぶ改善の余地ありだけど、雫のこと考えて作ったんだ」
運転している隆介は正面を見たまま、制作秘話を語り続ける。多少の照れ隠しもあるだろうけれど、余裕ありげにハンドルを持つ姿はいつもとはまた違うかっこよさがあって、雫はその美しい横顔に見惚れた。
「俺の今の原動力は、雫が『何者でもない俺が好き』って言ってくれたからだなって本気で思ってて。だからこれは、俺から雫へのお返し」
「えっでも私、まだ何も、隆介さんにあげられてないのに……」
雫は正直なところ、彼から沢山のものを貰いすぎていると感じていた。隆介から貰ったものは、愛情も、優しさも、プレゼントだって、何もかもが自分とは釣り合っていない。簡単な料理を作るってくらいじゃ、コスパが悪すぎる。自分が男だったら、絶対に「損した」と思ってしまう気すらする。
「私むしろ貰ってばっかりで、申し訳ないくらいで……」
「そんなことない。雫は俺をいつも癒してくれてる」
「それなら、それはすっごく嬉しいんですけど……。私、隆介さんの側にいるとすごく安心できて、初めてのことだらけで楽しくて。でも、だからこそ、私がここにいていいのか時々わからなくなるんです。何もできないのに、どんどん好きになるばっかりで……ごめんなさい」
「いや、雫が謝ることじゃない」
赤信号で若干急ブレーキ気味に止まった隆介は、CDの音量を下げてから、膝の上に置いていた左手を雫に伸ばしてきた。一瞬こちらに向けられたメガネ越しの目は真剣で、どきりとさせられる。隆介に捕まった右手は、隆介の口元に誘導されてキスの雨の洗礼を受けた。信号が変わるとすぐ左車線に入った車は、少し走って路肩に停まった。
制服姿の高校生たちがゾロゾロと歩き始める午後5時すぎ。車幅の広い高級外車が停まっているのはやはり気になるらしく、通行人たちは時折チラチラとこちらを見ているような気がした。彼はシートベルトをサッと外して膝を曲げるようにして座り直し、若干身を乗り出すようにして雫の方へ体を向けた。
「知らない男に振られて落ち込んでいてくれたこと、雫が俺と出会ってくれたこと、無駄なことはないって教えてくれたこと。あげたらキリがないくらいに、俺は全てが雫と出会うための運命だったんだと思ってる。でも……俺の好きな人を貶すのは、例え雫でも許せない」
舌先を強引に捩じ込んでくる隆介。いつもよりも性急で感情をぶつけるような激しい口付けが雫を襲う。ヘッドレストに頭を抑えられ、その少し暴力的な愛から逃げることは叶わない。その荒々しさに、雫は思わず目の前のパーカーへしがみついた。
「っはぁ……っはぁ……っ」
「雫、無意識?それ。ダメだよ、自分を襲ってる男を頼っちゃ」
「っえ……あっ!」
指摘されて思わず握っていた手をパッと離したけれど、龍介のパーカーにはもう若干の皺がついてしまっている。顔を横に振って隆介を見つめると、笑いながらごめんと抱きしめられた。
「はぁ、雫があまりに可愛いから怒りが飛んじゃったな。……せっかく車に雫の匂いを残しておけるいい機会だったのに」
「えっ!?」
「ウソウソ、冗談。雫のこと今すぐ抱いてやろうかと思ったけど、向こうの観客が気になりすぎて。これ以上雫を彼らに見せたくない……すぐそこだからもう行こう」
日差しが当たってキラキラと光る雫の髪を掬った隆介は毛先に軽くキスをして、また運転体制に戻った。チラリと視線を外に向けると、フェンスに腰掛けた女子高生5人組が互いに小突いたりイタズラし合いながら、確かにこちらに意識を向けているように見えた。
「わ、もしかして、見られてました……?」
「どうだろ?雫はハットで見えてないとは思うけど」
龍介の手がバケットハットの上に乗り、雫はさらに目ぶかに被るようになった。隆介もほっそりとした骨格とはいえ、男物のハットは雫にとって十分過ぎるほど大きい。これでは正面を見るのにも苦労するほどだ。被り直そうとする雫の手を阻むように、隆介は帽子から手を離さなかった。
「きゃ……っこれじゃ、何も見えないですよ?」
「雫のこともう誰にも見せたくないから、それくらいでいい」
「そんなぁ」
「俺には可愛いすぎて、本当なら腕の中からだって出したくないんだから。それくらい許してよ」
「う……わかりました」
「ん、いい子」
雫の行動ひとつで機嫌を良くしたのか、隆介は一度下げていた音楽のボリュームを上げた。ずっとギター1本の楽曲が続いているのに、曲調が変わったり、声色が変わったり、聞き手を飽き残させない工夫を感じる。木陰のように涼やかな曲調のその曲はまさにドライブにピッタリだなと思いながら、雫は頷くようにリズムに乗った。
夕方の空の変化は一瞬で、みるみるうちに日が暮れる。レインボーブリッジを超えた頃には空も紫色に変わっていた。車内にはポロポロと音の溢れるような切ないギターの音色。それに合わせるように隆介の鼻歌が重なる。こんなに魅力的な人の鼻歌をこんなに至近距離で聴くことのできる自分は、なんて幸せ者なんだろう。
到着した会場の入り口付近にはたくさんのフラワースタンドが飾られている。数人の女性陣が写真を撮ったり、グッズを購入したりしていて、確かにライブが開催されている雰囲気があった。現地に来れば大したことないでしょ、と雫の肩に腕を回した隆介は、どこか慣れたようにベンチへ案内した。
「雫はさ、ただ俺に愛されててよ」
「……え?」
「もしまだ俺に釣り合わないって思うなら、俺に溺愛されてることだけを信じて、ただ誇りに思っていればいい。俺はもう歩みを止めないしまだまだ進化するから、雫は俺のブレーキでいて」
「ブレーキ、ですか?」
「そう。俺の暴走を止められるのは、雫だけだよ」
海の近いZIPPは、風が強い。大きめの帽子は雫の頭から浮きかけて、両手でツバを掴んだ。彼の声がほんのりと聞こえて耳を澄ますけれど、風の音でなかなか聞き取ることができない。
「――……から」
風の妨害によって、1歩以下の距離を遠く感じる。ふたりの距離をゼロにしようと首元に顔を寄せると、隆介はもう一方の腕も雫の肩に載せ、少しかがむようにして目線を合わせた。観覧車の光が艶やかな隆介の黒髪に細かく反射してキラキラと輝き、初めて部屋へ行った日の姿を彷彿とさせる。まるで周囲の光を集めるような、そういう不思議な魅力があるんだよなと再確認させられる。
「――雫のために歌うから」
顔をくしゃりとさせて笑うその人の目は、まっすぐと雫だけを見つめている。自分にはこの目に見えているものだけで、他にはもう何もいらないとばかりに。