ハイスペミュージシャンは女神(ミューズ)を手放さない!
ミルク多めのミルクティー
帰宅当日からはしばらく筋肉痛で、4日ほどしんどい日々を過ごした。今までにない全身の痛みは辛かったけれど、それほどまでに彼に愛されたのだと思うと、少し嬉しいようなでも寂しいような、複雑な気持ちだ。
それでも、傷心旅行でも新たな失恋なんて理解されないとわかっていた雫は、誰にも相談しないまま仕事に没頭して過ごした。気持ちに蓋をして仕事をしていると、人恋しい季節は一瞬で過ぎていった。
雫の所属している東西百貨店本店サービス部はインフォメーション室とアナウンス室に分かれていて、表からは数人しかいないように見えているけれど、実態は20人以上の大所帯……という、隠れ戦士の集まる部署だ。
インフォメーションカウンターは"百貨店の顔"そのもので、カウンター内に入る度、背筋が伸びる。ユニフォームは店内のどこにいても目立つ真っ赤なワンピースと、対になった黒色の帽子。そしてインフォメーションだけがつけることのできる金色のネームプレートこそが、インフォメーション室のプライドだ。
高級住宅街 松濤に面した百貨店だからこそ、他店にいた時とは比べ物にならないほど、珍しい問い合わせや外国語対応も多い。
近くのギャラリーの美術展や講演会、美味しいパン屋さんを聞かれたりしたかと思えば、お孫さんやお嫁さんへのプレゼントの相談なんかも受けることがあるから、私たちの手元にはチケットやらクーポンといったものもよく届く。
「しらちゃん、隣のギャラリーの展示会ってもう行った?」
「あ、いえ、まだ。どんな展示会ですか?」
「私は昨日行ったんだけど、なんかアマチュアの写真家のグループ展やってたよ。結構いい感じで、しらちゃん好きそうな写真もあったから、行ってみて。はいこれ、チケット」
グループ展「光」とタイトルの乗ったチケット。関係者招待¥0表記のチケットには、今日までの日付が書かれていた。
「えっ今日までじゃないですか〜」
「しらちゃん今日早番でしょ?ギリギリ間に合うんじゃない?いい経験だと思うな〜」
いつもは「展示会なんて興味なーい」と言っているカナ先輩の様子がおかしい。刺激を求めるカナ先輩は、どちらかというと展示会なんてつまんない!カラオケやボーリングの方が楽しい!ってタイプ。
「……誰かから賄賂とか、何かもらってます?」
「ん?まさか」
「怪しい……」
「いや……昨日退勤の時に見かけたイケメンの後ろをついてったら、これのメンバーのひとりで……色々説明聞いた後お茶したら、チケットもらっただけ、よ」
「あ、やっぱり。カナ先輩の口から展示会なんて言葉が出てくるなんて、変だなって思いました」
「可愛い感じの子だったから、つい手伝ってあげたくなっちゃって……」
「先輩の頼みだと思って、受け取って!」と言われれば、受け取らない訳にもいかない。雫がお休みをもらってオーストリアを旅行し、素敵な彼との恋を一瞬楽しんでいた間、穴を埋めて働いてくれていたのは歴とした事実だ。
結局早番の退勤時間ぴったりに仕事は終わり、展示には余裕で間に合う時間にカウンターを出られた。日によってはおしゃべりに花が咲く更衣室でも、今日はすんなり解放された。
◇◇◇
同じ大学を卒業した数人のグループ展だというそれは、ガラス張りの小さなギャラリーで開かれていた。入り口で「白波瀬 雫」とだけ記名して、展示作品を1枚ずつ見ていく。植物に水滴の落ちた瞬間を接写で撮った写真や、老若男女のポートレートなど、撮影者によって色味も被写体も全く違う。ただどれも「光」というテーマにふさわしい作品ばかりで、写真もいいものだなと思わされた。
雫の祖母がギャラリーをやっているせいか、雫自身も案外美術工芸品が好きだった。どんな思いで撮ったんだろう、どうやって形にしたんだろうと考えながら見る時間は、むしろ心地よいとすら思う。
何気なく角を曲がり、最後の撮影者の写真を見た雫は、急に胸ぐらを掴まれたような衝撃を受けた。
そこにいたのは、半年前の雫。あの日、あの湖で歌っていた後ろ姿が、大きく引き伸ばされて飾られていた。表情は見えないけれど、跳ねて踊って、リュウスケさんを巻き込んだ時のはしゃいだ空気感が、湖面へ反射した光に乗っているように思える。
一度は諦めたとはいえ、自分はまだ彼の心の中にいるのかもしれないという淡い期待が、じわりと漏れ出す。
急いでキャプションボードを確認すると、「Title : "muse" / Photographer : Ryusuke.K」の文字が並んでいるだけで、そこに解説はなかった。
「っ……あの!この写真の撮影者さんって、今日、撤収にいらっしゃいますかっ?!」
別の参加者に聞くなんて失礼かもしれないとも思ったけれど、会える可能性があるなら少しでもその可能性に賭けたいという気持ちの方が勝った。
「隆介なら、カフェでコーヒー飲んでから合流って言ってたけど、どちら様で…?」
「っ……ありがとうございます!」
パイプ椅子に座り、時々来場者と話していた男性に声をかけるとすぐに教えてくれた。 ありがたいことにこのギャラリー周辺にあるカフェは1箇所だけだ。「この後ここへ来るまで待て」と言いたげだったけれど、会いたいと早る気持ちはもう抑えられなかった。
メモと腕時計は宝物箱に入れて大切に保管しているから、すぐに連絡なんて取れない。今走らなきゃもう会えないかもしれないと思うと、いてもたってもいられない。ぺこりと礼をして展示会を出た雫は、段々と駆け足になる。
この角を曲がったら、あと10m。あの赤いドアの先に彼がいるかもしれないと思うと、不安感が急に強くなる。もし、会いたくなかったと拒絶されたら、なんでいるのと警戒されたら、私は……。
一度立ち止まり、上がった心拍数を落ち着かせようと努力した。偶然を装って入ることにしよう、いなくても落ち込まないようにしようと言い聞かせる。額に浮いた汗を拭いて、前髪を整えて、2回深呼吸をしてからドアを押した。
遊びで先に帰った人なら、こちらに気付いても知らないふりをするかもしれない。良いタイミングを見計って、また逃げられてしまうかもしれない。落ち込むな、期待するなと言い聞かせていても不安で、指先が冷えてくる。ドクドクと響く心臓の音がうるさくて、注文にすら集中できない。
「お客様。……お客様、ご注文はお決まりですか?」
「あっごめんなさい。……ミルクティーを、ミルク多めで」
隆介の出してくれたミルクティが無性に恋しくなって、同じものを頼んでみた。飲み物ひとつにすら彼の面影を探してしまう。半年経ってもなお未練たらたらなことくらい、雫自身が誰よりもわかっていた。
「もしかして、雫……?」
後ろから、聞きたかった人の声がする。時間の経過した今でもすぐに思い出せる、低く優しい声。振り向くのをためらっていると、肩を掴まれて強制的に振り向かされた。
「やっぱり。どうして、ここに……?」
久しぶりに会った隆介は、驚きと悲しみが混じったおかしな顔をしていた。黒縁メガネの奥の瞳が、信じられないといった様子で小刻みに揺れている。
雫を置いて行った人とは思えない、少し傷ついたような顔。ハーフアップにした髪はまた少し伸びていて、若干痩せたような気もする。あの時のマグカップに似た白いマグのミルクティーを受け取って、彼のラップトップが開かれている席と移動した。
隆介はラップトップを静かに閉じて、メガネを外した。目頭あたりに赤い跡がついている所を見ると、長時間ここで作業していたのかもしれない。
オーストリアで一緒にはしゃいだ人とは思えないほど、今日の彼はファッションモデルのようにお洒落だった。パーマのかかった長い黒髪はオールバックにセットされ、身の回りのものはバッグや靴まで全身真っ黒。薄手のタートルネックに合わせたタイトめなスーツは、質の良い素材とバランスの良いパターンからしてハイブランドなのだとすぐにわかる。どこかで見たようなロゴのシルバーピンがラペルについているけれど、思い出せない。
「あ、えっと。仕事終わりに、職場で勧められた展示会に行った帰り……です」
「職場、近くなんだ。偶然……だね」
「はい、まさかまた会えるなんて……」
「俺も、驚いたよ。……雫、どうして連絡をくれなかったんだ?」
会えたら怒ろうとか、少しは喜んでくれるかなとか、沢山の選択肢を考えていたはずなのに、いざ目の前にしてみると何を話していいかわからない。なんなら、たった数日一緒にいただけの自分の名前を覚えていてくれたこと、この人の瞳に、自分が写っていることですら嬉しいと思ってしまう自分もいる。
(まるで、私の連絡を待っていたような言い方。ずるい)
「……ありがとうって、書いてましたから」
「それは、素直に感謝してたから……。俺、番号書いてたよね?」
「出て行った人のメモに『ありがとう』って書いてあったら、普通は『さよなら』だって思いますし、そうなら……電話なんて無粋かなって」
あの日の悲しみと怒りが沸々と蘇る。彼の腕の中ではなぜか素直になれた自分がいたのに、なぜ今こうして自分が責められるようなことになっているのか。寂しかったと言えない自分が情けない。
「あぁ……それもそうか。あの日は急な予定が入って、ギリギリの便に乗る必要があって焦ってて……ごめん」
「そう、だったんですね」
「でもそのまま連絡がなかったから、流石に呆れられたか嫌われたか、どちらにせよもう会えないんだなと思ってたよ」
「それは私の台詞です……」
そんな訳はないと否定したかったのか、隆介は突然ガタン!と立ち上がった。うっすらと流れているジャズに似つかわしくない椅子の音で、周りに座っていた数人がこちらを向いた。恥ずかしそうに座り直し、前に溢れた長い前髪を耳にかける仕草にすら可愛く見えときめいてしまう私は、なんて単純なんだろう。
「……いやごめん。君のスマホが壊れてたから番号を聞くタイミングを見誤っただけで、嫌ってなんかない。むしろ君に会いたくて、ずっと恋心を募らせてた。もうあんな恋は二度とできないって……今でも思ってる」
まだ結局彼が何者なのか客観的に信じられるほどの材料が集まっているわけでもないのに、まっすぐ雫の方を見つめる黒い瞳と言動だけで、全てを信じてしまいたくなる。彼の右手が、机に置いていた雫の左手を撫でて少しずつ侵食してきた。指先の絡まりだけで、あのオーストリアの夜を全て思い出してしまう。
「本当に……?」
「本当だよ。……雫の気持ちを聞かせてくれないかな?」
「私、は……」
胸の奥に熱く込み上げる、何かを感じる。喉が詰まるように苦しい。それでも、ここで素直にならなくて、いつ素直になるんだいう心の声がする。
「遊びだったなら忘れなきゃって、でも、また会いたいって……思ってました。会って、こうやって話して、触れられたら……まだ、離れたくないです」
あの数日は間違いなく今までの人生の中で一番楽しい時間だった。こんな人と一緒になれたら人生が変わりそうだとも思った。
でも、客観的に見ればあの一瞬は、バカンスでの気の迷いだと思われそうだということもわかっていた。たった数日の恋だったからこそ燃え上がったのだろうという理解こそあれ、共感はされない。だから、雫は帰りの機内で夕焼けを見ながら、幸せな思い出として心にしまうと誓ったのだ。
(口にしなければ、いつか忘れられるはずだったのに……)
心の奥底でひた隠しにしてきた思いは消えずに残っていて、一度口にするともう止まらなかった。堰を切ったように、涙も、言葉も、ボロボロと溢れてくる。こうなったら全て話してしまおうと、意を決して話を続けた。
「なんで、置いてったんですか……起こしてくれてもよかったのに。こんな思い、したくなかった」
「ごめん」
「……数日でこんなに好きになったなんて、正直自分でも信じられなくて……。あの夜のこと、思い出しては苦しくて。隆介さんのこと、何にも知らないのに、忘れられなくて。……なんで私ばっかりって、悔しくて」
口をついて出てくるのは今更言われても、と思われそうなわがままばかり。落ち着いた雰囲気のカフェでわがままを言う子供みたいに泣いているのも、隆介さんがうんうん、と静かに相槌を打ちながら聞いてくれていることも恥ずかしい。少しだけ冷静になって彼を見ると、嬉しそうに顔を赤らめながら口元を押さえていた。
「……困ったな」
ふぅと浅く呼吸して席を立った隆介は雫の足元へ近づくと、床に膝をついて下から雫を覗き込んだ。隆介はまだ頬に伝う涙を指先で優しく拭ってから、冷えた雫の手を優しく包み込む。
「全部、雫からの告白にしか聞こえない」
「え……っ」
「『今も好きで好きで仕方ない』って、『もう手放すな』って聞こえる」
「言って……ません」
「雫……俺のこと、好きなままでいてくれてたって、自惚れてもいい?」
「……隆介さんのばか」
「ばかで結構。こんなに可愛い子を手放すはずないだろ」
隆介の言葉の破壊力に、雫の涙はぴたりと止まった。ほんの少しだけ、触れ合っている手に力が入る。
すっと立ち上がった彼は、雫の鼻の先に一瞬だけ触れるようなキスをして、耳元で「もう出よう」と小さく囁いた。
それでも、傷心旅行でも新たな失恋なんて理解されないとわかっていた雫は、誰にも相談しないまま仕事に没頭して過ごした。気持ちに蓋をして仕事をしていると、人恋しい季節は一瞬で過ぎていった。
雫の所属している東西百貨店本店サービス部はインフォメーション室とアナウンス室に分かれていて、表からは数人しかいないように見えているけれど、実態は20人以上の大所帯……という、隠れ戦士の集まる部署だ。
インフォメーションカウンターは"百貨店の顔"そのもので、カウンター内に入る度、背筋が伸びる。ユニフォームは店内のどこにいても目立つ真っ赤なワンピースと、対になった黒色の帽子。そしてインフォメーションだけがつけることのできる金色のネームプレートこそが、インフォメーション室のプライドだ。
高級住宅街 松濤に面した百貨店だからこそ、他店にいた時とは比べ物にならないほど、珍しい問い合わせや外国語対応も多い。
近くのギャラリーの美術展や講演会、美味しいパン屋さんを聞かれたりしたかと思えば、お孫さんやお嫁さんへのプレゼントの相談なんかも受けることがあるから、私たちの手元にはチケットやらクーポンといったものもよく届く。
「しらちゃん、隣のギャラリーの展示会ってもう行った?」
「あ、いえ、まだ。どんな展示会ですか?」
「私は昨日行ったんだけど、なんかアマチュアの写真家のグループ展やってたよ。結構いい感じで、しらちゃん好きそうな写真もあったから、行ってみて。はいこれ、チケット」
グループ展「光」とタイトルの乗ったチケット。関係者招待¥0表記のチケットには、今日までの日付が書かれていた。
「えっ今日までじゃないですか〜」
「しらちゃん今日早番でしょ?ギリギリ間に合うんじゃない?いい経験だと思うな〜」
いつもは「展示会なんて興味なーい」と言っているカナ先輩の様子がおかしい。刺激を求めるカナ先輩は、どちらかというと展示会なんてつまんない!カラオケやボーリングの方が楽しい!ってタイプ。
「……誰かから賄賂とか、何かもらってます?」
「ん?まさか」
「怪しい……」
「いや……昨日退勤の時に見かけたイケメンの後ろをついてったら、これのメンバーのひとりで……色々説明聞いた後お茶したら、チケットもらっただけ、よ」
「あ、やっぱり。カナ先輩の口から展示会なんて言葉が出てくるなんて、変だなって思いました」
「可愛い感じの子だったから、つい手伝ってあげたくなっちゃって……」
「先輩の頼みだと思って、受け取って!」と言われれば、受け取らない訳にもいかない。雫がお休みをもらってオーストリアを旅行し、素敵な彼との恋を一瞬楽しんでいた間、穴を埋めて働いてくれていたのは歴とした事実だ。
結局早番の退勤時間ぴったりに仕事は終わり、展示には余裕で間に合う時間にカウンターを出られた。日によってはおしゃべりに花が咲く更衣室でも、今日はすんなり解放された。
◇◇◇
同じ大学を卒業した数人のグループ展だというそれは、ガラス張りの小さなギャラリーで開かれていた。入り口で「白波瀬 雫」とだけ記名して、展示作品を1枚ずつ見ていく。植物に水滴の落ちた瞬間を接写で撮った写真や、老若男女のポートレートなど、撮影者によって色味も被写体も全く違う。ただどれも「光」というテーマにふさわしい作品ばかりで、写真もいいものだなと思わされた。
雫の祖母がギャラリーをやっているせいか、雫自身も案外美術工芸品が好きだった。どんな思いで撮ったんだろう、どうやって形にしたんだろうと考えながら見る時間は、むしろ心地よいとすら思う。
何気なく角を曲がり、最後の撮影者の写真を見た雫は、急に胸ぐらを掴まれたような衝撃を受けた。
そこにいたのは、半年前の雫。あの日、あの湖で歌っていた後ろ姿が、大きく引き伸ばされて飾られていた。表情は見えないけれど、跳ねて踊って、リュウスケさんを巻き込んだ時のはしゃいだ空気感が、湖面へ反射した光に乗っているように思える。
一度は諦めたとはいえ、自分はまだ彼の心の中にいるのかもしれないという淡い期待が、じわりと漏れ出す。
急いでキャプションボードを確認すると、「Title : "muse" / Photographer : Ryusuke.K」の文字が並んでいるだけで、そこに解説はなかった。
「っ……あの!この写真の撮影者さんって、今日、撤収にいらっしゃいますかっ?!」
別の参加者に聞くなんて失礼かもしれないとも思ったけれど、会える可能性があるなら少しでもその可能性に賭けたいという気持ちの方が勝った。
「隆介なら、カフェでコーヒー飲んでから合流って言ってたけど、どちら様で…?」
「っ……ありがとうございます!」
パイプ椅子に座り、時々来場者と話していた男性に声をかけるとすぐに教えてくれた。 ありがたいことにこのギャラリー周辺にあるカフェは1箇所だけだ。「この後ここへ来るまで待て」と言いたげだったけれど、会いたいと早る気持ちはもう抑えられなかった。
メモと腕時計は宝物箱に入れて大切に保管しているから、すぐに連絡なんて取れない。今走らなきゃもう会えないかもしれないと思うと、いてもたってもいられない。ぺこりと礼をして展示会を出た雫は、段々と駆け足になる。
この角を曲がったら、あと10m。あの赤いドアの先に彼がいるかもしれないと思うと、不安感が急に強くなる。もし、会いたくなかったと拒絶されたら、なんでいるのと警戒されたら、私は……。
一度立ち止まり、上がった心拍数を落ち着かせようと努力した。偶然を装って入ることにしよう、いなくても落ち込まないようにしようと言い聞かせる。額に浮いた汗を拭いて、前髪を整えて、2回深呼吸をしてからドアを押した。
遊びで先に帰った人なら、こちらに気付いても知らないふりをするかもしれない。良いタイミングを見計って、また逃げられてしまうかもしれない。落ち込むな、期待するなと言い聞かせていても不安で、指先が冷えてくる。ドクドクと響く心臓の音がうるさくて、注文にすら集中できない。
「お客様。……お客様、ご注文はお決まりですか?」
「あっごめんなさい。……ミルクティーを、ミルク多めで」
隆介の出してくれたミルクティが無性に恋しくなって、同じものを頼んでみた。飲み物ひとつにすら彼の面影を探してしまう。半年経ってもなお未練たらたらなことくらい、雫自身が誰よりもわかっていた。
「もしかして、雫……?」
後ろから、聞きたかった人の声がする。時間の経過した今でもすぐに思い出せる、低く優しい声。振り向くのをためらっていると、肩を掴まれて強制的に振り向かされた。
「やっぱり。どうして、ここに……?」
久しぶりに会った隆介は、驚きと悲しみが混じったおかしな顔をしていた。黒縁メガネの奥の瞳が、信じられないといった様子で小刻みに揺れている。
雫を置いて行った人とは思えない、少し傷ついたような顔。ハーフアップにした髪はまた少し伸びていて、若干痩せたような気もする。あの時のマグカップに似た白いマグのミルクティーを受け取って、彼のラップトップが開かれている席と移動した。
隆介はラップトップを静かに閉じて、メガネを外した。目頭あたりに赤い跡がついている所を見ると、長時間ここで作業していたのかもしれない。
オーストリアで一緒にはしゃいだ人とは思えないほど、今日の彼はファッションモデルのようにお洒落だった。パーマのかかった長い黒髪はオールバックにセットされ、身の回りのものはバッグや靴まで全身真っ黒。薄手のタートルネックに合わせたタイトめなスーツは、質の良い素材とバランスの良いパターンからしてハイブランドなのだとすぐにわかる。どこかで見たようなロゴのシルバーピンがラペルについているけれど、思い出せない。
「あ、えっと。仕事終わりに、職場で勧められた展示会に行った帰り……です」
「職場、近くなんだ。偶然……だね」
「はい、まさかまた会えるなんて……」
「俺も、驚いたよ。……雫、どうして連絡をくれなかったんだ?」
会えたら怒ろうとか、少しは喜んでくれるかなとか、沢山の選択肢を考えていたはずなのに、いざ目の前にしてみると何を話していいかわからない。なんなら、たった数日一緒にいただけの自分の名前を覚えていてくれたこと、この人の瞳に、自分が写っていることですら嬉しいと思ってしまう自分もいる。
(まるで、私の連絡を待っていたような言い方。ずるい)
「……ありがとうって、書いてましたから」
「それは、素直に感謝してたから……。俺、番号書いてたよね?」
「出て行った人のメモに『ありがとう』って書いてあったら、普通は『さよなら』だって思いますし、そうなら……電話なんて無粋かなって」
あの日の悲しみと怒りが沸々と蘇る。彼の腕の中ではなぜか素直になれた自分がいたのに、なぜ今こうして自分が責められるようなことになっているのか。寂しかったと言えない自分が情けない。
「あぁ……それもそうか。あの日は急な予定が入って、ギリギリの便に乗る必要があって焦ってて……ごめん」
「そう、だったんですね」
「でもそのまま連絡がなかったから、流石に呆れられたか嫌われたか、どちらにせよもう会えないんだなと思ってたよ」
「それは私の台詞です……」
そんな訳はないと否定したかったのか、隆介は突然ガタン!と立ち上がった。うっすらと流れているジャズに似つかわしくない椅子の音で、周りに座っていた数人がこちらを向いた。恥ずかしそうに座り直し、前に溢れた長い前髪を耳にかける仕草にすら可愛く見えときめいてしまう私は、なんて単純なんだろう。
「……いやごめん。君のスマホが壊れてたから番号を聞くタイミングを見誤っただけで、嫌ってなんかない。むしろ君に会いたくて、ずっと恋心を募らせてた。もうあんな恋は二度とできないって……今でも思ってる」
まだ結局彼が何者なのか客観的に信じられるほどの材料が集まっているわけでもないのに、まっすぐ雫の方を見つめる黒い瞳と言動だけで、全てを信じてしまいたくなる。彼の右手が、机に置いていた雫の左手を撫でて少しずつ侵食してきた。指先の絡まりだけで、あのオーストリアの夜を全て思い出してしまう。
「本当に……?」
「本当だよ。……雫の気持ちを聞かせてくれないかな?」
「私、は……」
胸の奥に熱く込み上げる、何かを感じる。喉が詰まるように苦しい。それでも、ここで素直にならなくて、いつ素直になるんだいう心の声がする。
「遊びだったなら忘れなきゃって、でも、また会いたいって……思ってました。会って、こうやって話して、触れられたら……まだ、離れたくないです」
あの数日は間違いなく今までの人生の中で一番楽しい時間だった。こんな人と一緒になれたら人生が変わりそうだとも思った。
でも、客観的に見ればあの一瞬は、バカンスでの気の迷いだと思われそうだということもわかっていた。たった数日の恋だったからこそ燃え上がったのだろうという理解こそあれ、共感はされない。だから、雫は帰りの機内で夕焼けを見ながら、幸せな思い出として心にしまうと誓ったのだ。
(口にしなければ、いつか忘れられるはずだったのに……)
心の奥底でひた隠しにしてきた思いは消えずに残っていて、一度口にするともう止まらなかった。堰を切ったように、涙も、言葉も、ボロボロと溢れてくる。こうなったら全て話してしまおうと、意を決して話を続けた。
「なんで、置いてったんですか……起こしてくれてもよかったのに。こんな思い、したくなかった」
「ごめん」
「……数日でこんなに好きになったなんて、正直自分でも信じられなくて……。あの夜のこと、思い出しては苦しくて。隆介さんのこと、何にも知らないのに、忘れられなくて。……なんで私ばっかりって、悔しくて」
口をついて出てくるのは今更言われても、と思われそうなわがままばかり。落ち着いた雰囲気のカフェでわがままを言う子供みたいに泣いているのも、隆介さんがうんうん、と静かに相槌を打ちながら聞いてくれていることも恥ずかしい。少しだけ冷静になって彼を見ると、嬉しそうに顔を赤らめながら口元を押さえていた。
「……困ったな」
ふぅと浅く呼吸して席を立った隆介は雫の足元へ近づくと、床に膝をついて下から雫を覗き込んだ。隆介はまだ頬に伝う涙を指先で優しく拭ってから、冷えた雫の手を優しく包み込む。
「全部、雫からの告白にしか聞こえない」
「え……っ」
「『今も好きで好きで仕方ない』って、『もう手放すな』って聞こえる」
「言って……ません」
「雫……俺のこと、好きなままでいてくれてたって、自惚れてもいい?」
「……隆介さんのばか」
「ばかで結構。こんなに可愛い子を手放すはずないだろ」
隆介の言葉の破壊力に、雫の涙はぴたりと止まった。ほんの少しだけ、触れ合っている手に力が入る。
すっと立ち上がった彼は、雫の鼻の先に一瞬だけ触れるようなキスをして、耳元で「もう出よう」と小さく囁いた。