ハイスペミュージシャンは女神(ミューズ)を手放さない!
着飾った恋は苦手
体力の限界まで溺愛された雫は、起きているようで半分夢を見ているような状態でシャワーを浴びた。髪を乾かそうにも頭をコクリコクリとさせているのを見た隆介は、雫をソファに座らせて髪を乾かして、ベッドまで雫を運んだ。
「明日、何時にうち出ればいい?」
「えと、9時には……松濤に着いておきたいです……」
「了解。おやすみ、雫」
「りゅ……すけ、さんは……?」
「俺も歯を磨いたら寝るから。先に寝てて」
「ん……待ってます、から」
体力を消耗した後、シャワーとドライヤーで暖かくなり、猛烈な眠気が雫を襲う。愛しい人が一緒に眠るまで待ちたいと必死で抵抗したけれど到底敵わず、隆介がベッドに入った頃には完全に夢の中に落ちていた。
◇◇◇
「ちょっとちょっと!しらちゃん!なにその服!」
出勤早々、雫はアナウンス室のお局に一発で捕まった。これは、雫的にはかなり面倒な状況だ。予想していたいくつもの状況の中でも、1,2位を争うくらい。
「あーっと、貰い物で、これしかなくて……」
「貰い物?先週発売になったGUCHIのドレスが?!」
「あ、ははは……少々事情がありまして……」
これ以上騒がれないようにと急いでドレスのボタンを外すと、胸元には大小様々なキスマークが真っ赤に咲いている。今朝着替えるときは覚えていたのに、突然のお局様の登場に焦り、すっかり忘れていた。非常にまずい。彼女に見えないようリズムよく上半身を捻ると、先に着替えを終えたカナがにっこりと笑いながらこちらを見つめていた。
「えっと……カナ先輩には、後で説明します」
「よろしい。じゃ、先行ってるねー」
カナは雫に向かって手をひらひらとさせてから、赤と黒の象徴的な帽子と白い手袋の入った透明バッグを持って、颯爽と更衣室を出て行った。普段よりもカツカツとヒールを鳴らして歩いているところを見ると、完全に気持ちが盛り上がっている。ひとまずお局様にもう突かれないように急ピッチで着替え、雫も控え室へと急いだ。
「で、なんなの、あれ!」
「あれ、とは……」
「全部よ、全部!靴もドレスもバッグもGUCHI、化粧は普段と違う配色、おまけにラブラブな印まで見せてくれちゃって」
カナはきゃー!と大袈裟に顔を覆う小芝居をして、白手袋の隙間から雫を見つめた。
「ついに新しい彼氏?大富豪でも捕まえた?」
「あ、えっと、大富豪ではない……と思うんですけど、一応、彼氏ができました……」
「おぉ〜!おいくつ?出会いは?どんなお仕事?見た目は?写真は?」
後輩の新恋人にまつわる情報を聞き出そうと、カナはワクワクした顔でたくさんの質問を投げかけたが、その直後にアナウンス室の主任が現れ、開店20分前の朝礼となった。
「それでは本日も一日、どうぞよろしくお願いいたします」
「「よろしくお願いいたします」」
「今日の声出しは白波瀬さん、お願いできる?これ原稿ね」
「承知しました」
開店前は何かと忙しい。カウンター周りを掃除したり、周辺イベントを再確認したり、限られた時間の中で対応することが多いのだ。声出しと呼ばれる挨拶は、200文字ほどの今日のイベント情報を覚えて開店前に挨拶をするという、うちの伝統の一つ。順番で回ってくるものだけれど、入社当時は噛み噛みでよく怒られたものだ。
「声出し、がんばっ!」
「ありがとうございます。行ってきます!」
開店5分前を知らせるチャイムが鳴る。今日の聴衆は10人ちょっと。初めの頃は開店前に来るなんてと思っていたけれど、店員とのおしゃべりを楽しみに来ている老夫婦や、急いで購入したいものが決まっている主婦など、人間模様が見られて案外楽しい時間でもある。
「本日も東西百貨店本店へご来店くださいまして、誠にありがとうございます。本日は……」
噛まずに言い切り、ゆっくりとお礼をすると、正面に立っていた数人が拍手を送ってくれた。小さな舞台だけれど、雫には十分すぎるほどの舞台。そのままエレベーター前へ移動して、開店の合図を待つ。
「白波瀬さん、いつも素敵ね。孫を見てるみたいだわ」
「まぁ孫ってったって男だけどな」
常連の老夫婦が声をかけてくる。霞ヶ関を数年前に定年退職されて、今は週に1〜2回ほど通ってくださるおふたり。いつも手を繋いでいて、いつまでも幸せそうな姿を見ては自分もこうなりたいと思える理想のおしどり夫婦だ。
「ふふ。ありがとうございます。今日はどちらへ行かれるんですか?」
「今日は主人の背広を受け取りに来たの。マツオでお昼を食べて帰るわ」
「素敵に仕上がっているといいですね。いつもご贔屓にしてくださって、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げて、エレベーターの行き先ボタン5階を押す。他の乗客にも目的地を聞いてボタンを押し、開店の合図と同時にエレベーターを送り出した。カウンターへ行くと、先輩は外国人のお客様と話しながら苦戦しているようだった。
「大丈夫ですか?先輩」
「うーん。私の英語が彼らに聞き取りにくいのかもしれなくて。この辺りでタバコの吸える場所はあるかって言ってるんだけど……」
「私、変わりましょうか?」
「お願いしてもいい?こっちで待ってるかた、私対応するね」
「ありがとうございます」
ふたりで入れ替わり立ち替わり、相談にやってくるお客様の対応に追われた。ここ2年ほどはまたインバウンド観光が増えているというニュースを、雫はいつもこのカウンターでひしひしと感じている。2時間弱の受付業務をこなし、そのままふたりでランチをとった。
「で、どういうことなのよ」
「……すっかり忘れてもらえてるかなって思ってたんですけど、ダメでした?」
「忘れるわけないでしょ。明日香様に突っ込まれる前に、私に話しなさいよ」
明日香様というのは、今朝の御局様。アナウンス室のトップで、58にして20歳の美声を持つスペシャリストなのだけど、大のゴシップ好き。彼女に知られたゴシップは半日で社内に広まると言っても過言ではない。
「はぁ。明日香様には絶対言わないでくださいね」
「もっちろん!で、どういう経緯で今日に至ったわけ?」
うどんを啜りながら、カナは前のめりで雫の小声に耳をそばだてた。ちょうど昼時ということもあって、周辺はかなりガヤついている。これならきっと、周りもこちらの会話を気にしないだろう。
「前にオーストリア、いったじゃないですか」
「うんうん、あの、何って言ったっけ?名前は忘れちゃったけど、前の恋人との婚前旅行に一人で行ったやつよね」
「ですです。そこで知り合って、仲良くなった人と再会して……」
「えっ!それは偶然?渋谷で?いついつ?」
「あの、こないだカナ先輩におすすめされた展示会で……色々あって」
「えっじゃあ私キューピッドじゃない!やだ〜!」
机の下で足をジタバタさせて、カナは楽しそうに話を聞いた。彼女は若くしてバツイチになったせいで、自分にはもう恋愛なんていらないから!と言いながら、同僚の恋バナをいつも楽しそうに聴いてくれる優しい先輩だ。
「それでそれで?そのままお泊まりしたら、お洋服くれたってやつ?」
「そんなかんじ……ですね」
「それなら白波瀬 雫、よく聞きなさい」
「……はいっ」
「男が服やバッグをプレゼントするのは、自分の色に染めてしまいたい!って思ってるときと……」
「思ってる時と……?」
「……俺が脱がせてやる!って思ってる時よ。気をつけて」
「……はい、気をつけます」
そうだった。カナは自分自身がうまくいかなかったこともあり、ワンナイトだったりセフレだったり……そういう奔放な態度をとる人にはとても厳しい。オーストリアから帰ってきた時になんで言わなかったの!と詰め寄られたけれど、「おそらく先輩が気に入らない部類の恋愛話だと思ったので……」とは、とても言えなかった。
◇◇◇
数日ぶりの自宅は、なんだかすごく狭く感じる。6畳だから当然ではあるのだけど、彼のそばの居心地の良さに体が慣れてしまったような気がした。
隆介に「久しぶりの部屋はなんだか違和感を感じちゃいます」とメールを送ると「バッグの内側のポケット見て」と返事が返ってきた。何がが隠されているのかと探してみると、銀色のディンプルキーが入っていた。
「これ……!」
雫にはすぐに予想がついた。彼はいつでも来ていいと言っていたし、多分そういうことだろう。すぐにメッセージアプリから通話ボタンを押して、彼に電話をかける。
「もしもし……」
「もしもし。鍵、見つけた?」
「……っはい!いいんですか?」
「4階だけの鍵だから、雫にあげる。いつでもおいでって言ったでしょ」
「ふふっ嬉しい。ありがとうございます」
「どういたしまして。……今帰ってきたとこ?」
「はい。仕事終わって、これから晩ご飯です」
「いいなぁ。俺はもう少し仕事だなぁ」
「あんまり、頑張りすぎないでくださいね……?」
「ありがと。じゃあ……また」
「はい、また」
通話時間はたった40秒。それでも、声を聞けたことで元気をもらえた気がする。恋人になると、次の約束がなくても彼を思っていていい時間が続く。簡単なことなのに忘れていたなと、ベッドへ横になりながら鍵を見つめた。
「明日、何時にうち出ればいい?」
「えと、9時には……松濤に着いておきたいです……」
「了解。おやすみ、雫」
「りゅ……すけ、さんは……?」
「俺も歯を磨いたら寝るから。先に寝てて」
「ん……待ってます、から」
体力を消耗した後、シャワーとドライヤーで暖かくなり、猛烈な眠気が雫を襲う。愛しい人が一緒に眠るまで待ちたいと必死で抵抗したけれど到底敵わず、隆介がベッドに入った頃には完全に夢の中に落ちていた。
◇◇◇
「ちょっとちょっと!しらちゃん!なにその服!」
出勤早々、雫はアナウンス室のお局に一発で捕まった。これは、雫的にはかなり面倒な状況だ。予想していたいくつもの状況の中でも、1,2位を争うくらい。
「あーっと、貰い物で、これしかなくて……」
「貰い物?先週発売になったGUCHIのドレスが?!」
「あ、ははは……少々事情がありまして……」
これ以上騒がれないようにと急いでドレスのボタンを外すと、胸元には大小様々なキスマークが真っ赤に咲いている。今朝着替えるときは覚えていたのに、突然のお局様の登場に焦り、すっかり忘れていた。非常にまずい。彼女に見えないようリズムよく上半身を捻ると、先に着替えを終えたカナがにっこりと笑いながらこちらを見つめていた。
「えっと……カナ先輩には、後で説明します」
「よろしい。じゃ、先行ってるねー」
カナは雫に向かって手をひらひらとさせてから、赤と黒の象徴的な帽子と白い手袋の入った透明バッグを持って、颯爽と更衣室を出て行った。普段よりもカツカツとヒールを鳴らして歩いているところを見ると、完全に気持ちが盛り上がっている。ひとまずお局様にもう突かれないように急ピッチで着替え、雫も控え室へと急いだ。
「で、なんなの、あれ!」
「あれ、とは……」
「全部よ、全部!靴もドレスもバッグもGUCHI、化粧は普段と違う配色、おまけにラブラブな印まで見せてくれちゃって」
カナはきゃー!と大袈裟に顔を覆う小芝居をして、白手袋の隙間から雫を見つめた。
「ついに新しい彼氏?大富豪でも捕まえた?」
「あ、えっと、大富豪ではない……と思うんですけど、一応、彼氏ができました……」
「おぉ〜!おいくつ?出会いは?どんなお仕事?見た目は?写真は?」
後輩の新恋人にまつわる情報を聞き出そうと、カナはワクワクした顔でたくさんの質問を投げかけたが、その直後にアナウンス室の主任が現れ、開店20分前の朝礼となった。
「それでは本日も一日、どうぞよろしくお願いいたします」
「「よろしくお願いいたします」」
「今日の声出しは白波瀬さん、お願いできる?これ原稿ね」
「承知しました」
開店前は何かと忙しい。カウンター周りを掃除したり、周辺イベントを再確認したり、限られた時間の中で対応することが多いのだ。声出しと呼ばれる挨拶は、200文字ほどの今日のイベント情報を覚えて開店前に挨拶をするという、うちの伝統の一つ。順番で回ってくるものだけれど、入社当時は噛み噛みでよく怒られたものだ。
「声出し、がんばっ!」
「ありがとうございます。行ってきます!」
開店5分前を知らせるチャイムが鳴る。今日の聴衆は10人ちょっと。初めの頃は開店前に来るなんてと思っていたけれど、店員とのおしゃべりを楽しみに来ている老夫婦や、急いで購入したいものが決まっている主婦など、人間模様が見られて案外楽しい時間でもある。
「本日も東西百貨店本店へご来店くださいまして、誠にありがとうございます。本日は……」
噛まずに言い切り、ゆっくりとお礼をすると、正面に立っていた数人が拍手を送ってくれた。小さな舞台だけれど、雫には十分すぎるほどの舞台。そのままエレベーター前へ移動して、開店の合図を待つ。
「白波瀬さん、いつも素敵ね。孫を見てるみたいだわ」
「まぁ孫ってったって男だけどな」
常連の老夫婦が声をかけてくる。霞ヶ関を数年前に定年退職されて、今は週に1〜2回ほど通ってくださるおふたり。いつも手を繋いでいて、いつまでも幸せそうな姿を見ては自分もこうなりたいと思える理想のおしどり夫婦だ。
「ふふ。ありがとうございます。今日はどちらへ行かれるんですか?」
「今日は主人の背広を受け取りに来たの。マツオでお昼を食べて帰るわ」
「素敵に仕上がっているといいですね。いつもご贔屓にしてくださって、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げて、エレベーターの行き先ボタン5階を押す。他の乗客にも目的地を聞いてボタンを押し、開店の合図と同時にエレベーターを送り出した。カウンターへ行くと、先輩は外国人のお客様と話しながら苦戦しているようだった。
「大丈夫ですか?先輩」
「うーん。私の英語が彼らに聞き取りにくいのかもしれなくて。この辺りでタバコの吸える場所はあるかって言ってるんだけど……」
「私、変わりましょうか?」
「お願いしてもいい?こっちで待ってるかた、私対応するね」
「ありがとうございます」
ふたりで入れ替わり立ち替わり、相談にやってくるお客様の対応に追われた。ここ2年ほどはまたインバウンド観光が増えているというニュースを、雫はいつもこのカウンターでひしひしと感じている。2時間弱の受付業務をこなし、そのままふたりでランチをとった。
「で、どういうことなのよ」
「……すっかり忘れてもらえてるかなって思ってたんですけど、ダメでした?」
「忘れるわけないでしょ。明日香様に突っ込まれる前に、私に話しなさいよ」
明日香様というのは、今朝の御局様。アナウンス室のトップで、58にして20歳の美声を持つスペシャリストなのだけど、大のゴシップ好き。彼女に知られたゴシップは半日で社内に広まると言っても過言ではない。
「はぁ。明日香様には絶対言わないでくださいね」
「もっちろん!で、どういう経緯で今日に至ったわけ?」
うどんを啜りながら、カナは前のめりで雫の小声に耳をそばだてた。ちょうど昼時ということもあって、周辺はかなりガヤついている。これならきっと、周りもこちらの会話を気にしないだろう。
「前にオーストリア、いったじゃないですか」
「うんうん、あの、何って言ったっけ?名前は忘れちゃったけど、前の恋人との婚前旅行に一人で行ったやつよね」
「ですです。そこで知り合って、仲良くなった人と再会して……」
「えっ!それは偶然?渋谷で?いついつ?」
「あの、こないだカナ先輩におすすめされた展示会で……色々あって」
「えっじゃあ私キューピッドじゃない!やだ〜!」
机の下で足をジタバタさせて、カナは楽しそうに話を聞いた。彼女は若くしてバツイチになったせいで、自分にはもう恋愛なんていらないから!と言いながら、同僚の恋バナをいつも楽しそうに聴いてくれる優しい先輩だ。
「それでそれで?そのままお泊まりしたら、お洋服くれたってやつ?」
「そんなかんじ……ですね」
「それなら白波瀬 雫、よく聞きなさい」
「……はいっ」
「男が服やバッグをプレゼントするのは、自分の色に染めてしまいたい!って思ってるときと……」
「思ってる時と……?」
「……俺が脱がせてやる!って思ってる時よ。気をつけて」
「……はい、気をつけます」
そうだった。カナは自分自身がうまくいかなかったこともあり、ワンナイトだったりセフレだったり……そういう奔放な態度をとる人にはとても厳しい。オーストリアから帰ってきた時になんで言わなかったの!と詰め寄られたけれど、「おそらく先輩が気に入らない部類の恋愛話だと思ったので……」とは、とても言えなかった。
◇◇◇
数日ぶりの自宅は、なんだかすごく狭く感じる。6畳だから当然ではあるのだけど、彼のそばの居心地の良さに体が慣れてしまったような気がした。
隆介に「久しぶりの部屋はなんだか違和感を感じちゃいます」とメールを送ると「バッグの内側のポケット見て」と返事が返ってきた。何がが隠されているのかと探してみると、銀色のディンプルキーが入っていた。
「これ……!」
雫にはすぐに予想がついた。彼はいつでも来ていいと言っていたし、多分そういうことだろう。すぐにメッセージアプリから通話ボタンを押して、彼に電話をかける。
「もしもし……」
「もしもし。鍵、見つけた?」
「……っはい!いいんですか?」
「4階だけの鍵だから、雫にあげる。いつでもおいでって言ったでしょ」
「ふふっ嬉しい。ありがとうございます」
「どういたしまして。……今帰ってきたとこ?」
「はい。仕事終わって、これから晩ご飯です」
「いいなぁ。俺はもう少し仕事だなぁ」
「あんまり、頑張りすぎないでくださいね……?」
「ありがと。じゃあ……また」
「はい、また」
通話時間はたった40秒。それでも、声を聞けたことで元気をもらえた気がする。恋人になると、次の約束がなくても彼を思っていていい時間が続く。簡単なことなのに忘れていたなと、ベッドへ横になりながら鍵を見つめた。