大切なひと~強引ドクターは最愛の人をあきらめない~



彼に関心がないと言い切ったから、明日香は婚約者のフリをする役に選ばれたのだ。
彼を好きになってしまったら、約束を破ることになる。

『君は俺にも坂野総合病院の院長の妻の座にも興味がない』
『君に政治家や実業家の親戚がいるか?』

理由をあげればきりがないが、現実問題として自分は彼に相応しいとはいえない。

(だから、この気持ちは知られたくない)

この穏やかな生活が終わる日がきたら、きっと泣いてしまうだろう。



***



坂野敦弁護士は、定期的に叔父との交渉の進み具合を報告してくれた。
叔父はあちこちからかなりの額を借りていたようだ。
会社の倒産は逃れられないから、祖父母の屋敷を売却するのが最善の方法らしい。
少しでも社員たちが助かるのならと、明日香も同意せざるを得なかった。

祖父母が亡くなった時に、銀行口座など相続放棄の書類にサインさせられていたこともわかった。
取り消しができればと敦は動いてくれているが、証拠がないし脅された訳でもないから認められないだろう。

秋が終るころになって、やっと相続問題は決着した。
敦が細かく調べてくれたので、亡くなった両親が遺してくれていた明日香名義の預金だけは無事だった。
さすがに叔父も申し訳なく思ってくれたのか、屋敷の売却金額の中からわずかな現金を振り込んでくれた。
これで法的にきれいに解決したとはいえ、叔父との関係は元通りとはいかないだろう。

すぐに祖父母の思い出がある屋敷を取り壊す工事が始まった。
ほんの数日で木造家屋は壊され、庭木も伐採されて更地になってしまった。
計画ではマンションが立つ予定なので、まもなく工事が始まるはずだ。

屋敷があった場所を見ると、明日香は脱力感に襲われた。

(なんにもない……)

祖父母と暮らした思い出までが消え去ったようで、明日香はしばらく気が抜けたようになってしまった。

燈生も気落ちしている明日香を気遣ってか、この話題に触れてこない。
それが彼なりの優しさだと感じた。

近ごろは院長から縁談を勧められることもないらしく、ひとまず結婚話も落ち着いたようだ。
そのせいか、燈生もサバサバとした表情をしている。

(燈生さん、ホッとしたでしょうね)

もう婚約者のフリをしなくていいのかもしれないと思うと、少し寂しい。
段ボールに入れたままの荷物を見るたびに、そろそろ住むところを決めて出て行くべきだと思う。
もう十二月だから年内にはと、気持ちだけは焦った。

(いつ出ていくか、ちゃんと決めないと)

心ではわかっているのだが、明日香はどんな物件を見ても決められないままだった。

そんなある日、休みだと言っていた燈生がきちんとした服装で出かけていった。
普段はカジュアルな服装を好む人が珍しいなと思っていたら、夕方になってひどい顔色で帰宅してきた。

「どうなさったんですか?」

夕食の用意をしていた明日香が思わず声をかけてしまうほど、青ざめた顔をしている。

「ご気分が悪いのですか?」



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