大切なひと~強引ドクターは最愛の人をあきらめない~



わが子を捨てた母親が今になって会いに来たことだけでも驚くのに、異父弟のことを頼むなんて普通の感覚ではできないはずだ。
聞いているだけで辛くなってくるし、明日香は燈生の気持ちを思うと言葉もなかった。

「いきなり兄だってさ。おかしくておかしくて、泣けてくるよ」

燈生の声が震えている。

もしかしたら、彼は自分を捨てた母親がようやく会いに来てくれたと期待していたのかもしれない。
その分だけ絶望は深いはずだ。母親に期待して裏切られるなんて、気の毒すぎる。
スタッフの前ではリーダシップを発揮し、確かな技術で執刀して多くの患者さんを助けているけれど、明日香にはわかる。
目の前で表情をなくしている人は、本当は繊細な人なのだ。
彼の心には、母親に置いていかれた少年の日の悲しい記憶が残っているのだろう。

「燈生さん」

明日香の手は自然に動いた。
彼の背に触れ、肩に触れ、いつしか抱きしめていた。

「辛かったでしょう」

明日香の両腕にあまるくらいの大きな人だけど、彼の心の中にいる少年を抱きしめてあげたかった。

「明日香、君は優しいな」

その想いが伝わったのか、ポツリと燈生が呟いた。

「俺はこの年になるまで知らなかった。お帰りなさいと言って迎えてくれる言葉も、自分のために作ってくれた料理の温かさも」

なんて寂しい言葉だろうか。
母親に捨てられて父親に引き取られてから、心が安らぐ日はなかったのか。
燈生が明日香が作った食事や、食卓に活けた一輪の花をあんなに喜んでくれた理由がやっとわかった。
明日香は燈生の心を温めたくて、もう一度ギュッと燈生を抱きしめる。

「ここにいてくれないか?」

「え?」

「このままずっと、俺のそばにいてくれ」
「それは、婚約者のフリをずっと続けるってことですか?」

燈生が少し身体を離して、明日香の顔をじっと見つめる。

「フリではなく、本当の恋人として」

燈生の声には、真摯な気持ちがあふれていた。



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