大切なひと~強引ドクターは最愛の人をあきらめない~
部屋から出ると、秘書用のデスクに座っていた斎藤茜が立ち上がった。
「あの、坂野先生」
なにか話しかけようとしてくるが、それを手で制して燈生は足早に院長室から去った。
まずなにから手をつければいいのか、混乱するばかりだ。
億単位の高価な医療機器を導入しているとしたら借入金が気になるし、父の病状も正確に把握したい。
一番に手を付けようと思っていた明日香を探すことが、どうしても後に回ってしまう。
一度は決別した父であっても、重い病を患っているのは違いない。
「あら」
廊下を曲がったところで、いきなり義母の倫子と出くわした。
「ご無沙汰しております」
燈生が丁寧に頭を下げると、倫子が足を止めて話しかけてきた。
「お帰りなさい。すっかり有名人ね」
「いえ」
アフリカの活動を紹介したニュースのことを言っているのだろう。
燈生は義母が苦手だった。
まだ小学生だった燈生を引き取って、何不自由ない生活をさせてくれたことへの感謝はあるが、あまり会話した記憶もない。
ただ目の前の義母のイメージが、以前と違っていることに気がついた。
燈生から見た義母は、お洒落に着飾って趣味の集まりやパーティー、外国旅行と毎日忙しくも楽しそうに暮らしていた人だ。
それに比べて、今はボブカットのグレーヘアにカチッとした紺のスーツ姿で、手には数冊のファイルを持っている。
燈生の疑問に気がついたのか、ウフフと面白そうに唇が弧を描いた。
「私ね、この病院の理事をしているの」
義母の後ろには、総婦長が控えているではないか。
「あなたに相談したいことは山ほどあるけれど、とりあえず明日から馬車馬のように働いてもらいますからね」
「望むところです」
またウフフと笑って、義母は院長室に向かっていく。総婦長は表情ひとつ変えずに、義母のあとに続いた。
いったいこの病院で何が起こっているのだろう。
一年近くも離れていた燈生には見当もつかない。
『馬車馬のように働いてもらう』とたとえるくらいだから、明日から忙しくなりそうだ。
明日香のこと、病院のこと、父のこと。
どれかひとつを優先しようにも、燈生は選べない。体はひとつしかない。
燈生はすぐに解決できそうにないジレンマに悩まされながら、心臓外科の医局を目指した。