大切なひと~強引ドクターは最愛の人をあきらめない~



弔問に訪れた人は想像以上に多かったが、長い列は意外に早く進んだ。
ハンカチを握りしめてずっと下を向いていたせいか、誰にも気付かれることなく明日香は焼香を終えることができた。

あの夜には伝えられなかった陸のことを報告し、見守って欲しいとお願いしたのは厚かましいだろうか。
心の中だけでのことだが、故人に対してこれでよかったんだと思いたい。

来るときとはビクビクしていたが、焼香が終わるとホッとした気持ちになれた。
顔を隠していたメガネを外し、急いで寺から離れようとしたら、遠くから名前を呼ばれた。

「明日香さん?」

もうすぐ歩道に出るところだったが、振り返ると坂野敦の姿があった。

「明日香さんだよね。坂野敦です」

ゆっくり敦が歩み寄ってくる。でも、ここで敦と話すわけにはいかない。
なにも言わずにマンションを出たこと、携帯電話も変えて、誰にも居場所を明かしていないこと。
その理由も、今どうしているのかも、なにひとつ敦に知られたくなかった。

あれからかなり経つのにわざわざ声をかけてきたということは、もしかしたら明日香を探していたのかもしれない。

「明日香さん、チョッとお時間頂きたいのですが」

案じていたとおりだ。きっとあれこれ質問攻めにあうだろう。
丁寧に話しかけてくれる敦に申し訳なかったが、明日香は通りかかったタクシーを停めてすばやく乗り込んだ。
車の中から会釈だけしたが『そっとしておいて』という願いは届くだろうか。

(ごめんなさい)

親族席の方はいっさい見ていない。
あの場に燈生がいたのか、その横に妻が座っていたのかすら、確認していなかった。

「お客さん、どちらへ?」
「あ、あの……」

明日香が口にしたのは、かつて燈生と過ごした川沿いの街だった。







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