夫に離婚を切り出したら、物語の主人公の継母になりました
29 刺客
数日後、フリーデはユーリの勉強を見ていた。
ユーリはときおり外を見ていたが、勉強や課題図書にしっかり向き合ってくれている。
――ごめんね、ユーリ。
本当は外に出て遊びたいのだろうけど、それを我慢している。
年齢を考えれば、フリーデを無視してこっそり遊びに出かけてもおかしくないというのに。
そのいじらしさと、聞き分けの良さに申し訳なくなる。
「奥様、お茶が入りました」
出入り口を警備していた騎士がメイドから受け取ったお茶を運んでくれる。
「ユーリ、休憩にしましょう」
「うんっ」
紅茶をカップに注ぎ、クッキーを差し出す。騎士が毒味をすまして問題がないことを確認してから食べ始める。
「ありがとう。下がっていいわ」
「失礼いたします」
騎士が去ってから、お茶を楽しむ。
「今日もとてもいい天気だね」
ユーリが眩しそうに、春の景色に目を細める。
早く自由にローランに乗れるようにしてあげたい。
そのためには刺客を見つけなければならないが、どこにいるのかも分からない。
このまま、問題が片付くまでユーリを部屋の中に閉じ込めておくのか。
それは本当に正しい選択なのだろうか。
籠の鳥にするのは、まるで、ユーリの養父のようではないか。
そんな考えが不意に頭を過ぎった。
もちろん養父のようにユーリを虐げてもいなければ、奴隷のようにこき使っているわけでもない。しかしいくら理由があるとはいえ、やっていることは同じではないかと考えてしまう。
「……今日は出かけましょうか」
「いいの?」
「ただ馬は駄目。馬車で、だけど」
「それでもいいよ! フリーデ様と出かけるなんて久しぶりだ!」
ユーリは年相応な無邪気さで喜んでくれる。
「それじゃあ、支度してくるわね」
「ギュスターブ様も誘わない?」
「そうね。誘ってみましょう」
「やった!」
久しぶりなのだから出来れば、三人で出かけたほうが楽しいだろう。
あの雪蛍を見た日のように。
フリーデが廊下に出ると、そばを通ったメイドに外出するから馬車の用意をするよう伝えた。
「――フリーデ様、ユーリ様」
そこへ別のメイドが声をかけてくる。
「何?」
「ギュスターブ様がお呼びでございます」
「そう、ちょうど良かったわ。どこにいるの?」
「こちらでございます」
ユーリに従う騎士までついてくる。
「お二人だけをお呼びせよと言われおりますので」
フリーデは騎士たちを待たせると、ユーリと一緒にメイドに従う。
「そっちは執務室ではないけど」
「別の部屋に」
軽く頷き、メイドのあとをついていく。
「こちらでございます」
「ここって、客間?」
「は、はい」
「どうしてギュスターブ様がここに――」
メイドは小刻みに震えていた。よく見れば顔も青白い。
「大丈夫? 体調でも悪いの?」
「申し訳ございません……っ」
「別に責めてるわけじゃないんだから謝らないで」
その時、客間が開くと同時に手がぬっと伸びて、腕を掴まれ、部屋に引っ張り込まれた。
「声を出すな。逆らえば、その喉笛を掻ききる」
口を押さられ、もう一方の手には短剣が光る。
「フリーデ様っ」
姿を見ずとも声で分かる。司祭に化けていた刺客だ。
今、彼は侍従が身につける制服姿。
「小僧、黙って部屋に入れ。俺に従えば殺しはしない」
ユーリは見たことがないくらい鋭い眼差しで男を睨み付ける。
ユーリとメイドは言われるがまま、客間へ入っていく。
「フリーデ様を離せ。離せば、命だけは助けてやるっ」
「ハハハ、威勢のいいガキだ。俺の目的は小僧、貴様だ。だから抵抗せず、ゆっくりこっちに来い。そうすればこの女は無傷で返してやる」
「本当だな」
「……駄目!」
「フリーデ様!?」
ユーリは目を瞠った。
「ユーリ、この男に従っては駄目。この男はあなたを殺そうとしてるっ」
「黙れ、女」
刺客のナイフを持っている右腕が首に絡みつき、締め上げられてしまう。
「ぐ……ぁ……」
喉が圧迫され、呻きが漏れた。
「ひどいことをするなっ」
「だったらさっさと来いっ」
刺客が左手を伸ばしてくる。
ユーリはゆっくりと近づく。
(あなたをこんなところで死なせるわけにはいかないのよ!)
物語の筋書きが変わってしまうことなんてどうでもいい。ただただユーリが心配だった。
この世界は物語の中かもしれないが、その中でユーリたちは本当に生きているのだ。
フリーデはヒールの踵で男足を思いっきり踏みつけた。
「ぐああ!」
ユーリに意識が向いていたせいか、男が絶叫する。
フリーデは刺客の拘束から逃れると、ユーリの手を引き、部屋から飛び出そうとするが、すんでの所で襟首を掴まれた。
「逃げて!」
フリーデは倒される寸前、ユーリを突き飛ばして廊下へ追い出した。
フリーデは床に引き倒された。お腹に男がのしかかり、頭を床へ押しつけられた。
「このクソ女! 本気で死にたいらしいなっ!」
「殺したければ殺せばいいっ!」
ユーリを守らなければならないという責務と、もう自分の命も長くはないという捨て鉢な気持ちが絡み合い、いつもよりフリーデを大胆にさせていた。
自分の生は一度終わり、物語の人物に転生した。奇跡で命を拾ったのだ。
だったらこれは自分のためではなく、誰かのために捧げられるべきだ。
短剣が振り上げられるその時、扉が蹴破られた。
「フリーデ!」
ギュスターブと騎士たちだった。
「クソ!」
刺客は即座に行動に移ると、再びフリーデの喉元に刃を当てた。
「少しでも動けば、コイツを殺すぞ!」
「お前はもう袋の鼠だ。それが分からないほど愚かなのか?」
「黙れ! おら、下がれ! 早くしろ!」
刺客は喉元にナイフの切っ先を押し当てる。チクリという鋭い痛みと一緒に、血が滲むの。
「ギュスターブ様、私のことはお構いなく! この刺客を殺して……!」
「黙れ!」
再び喉を腕で締め上げられる。
「……分かった。下がる。だから、フリーデに手を出すな」
ギュスターブは双眸に殺意を浮かべながら、騎士たちに下がるよう命じる。じりじりと後退していく分だけ、刺客とフリーデは進んだ。
廊下に出ると、そのまま刺客はフリーデを人質に取ったまま玄関に向かう。
城の前には馬車が止まっている。
「乗れっ」
刺客に突き飛ばされ、フリーデは馬車の座席に転がされる。
すぐに刺客が乗り込むや、御者に怒鳴る。
「さっさと出せ!」
「ど、どちらへ」
「いいから早くしろ!」
「はぃ!」
馬車が馬にムチをくれた。
「残念だったわね! 目的も果たせず、尻尾を巻いて逃げ出すなんて!」
「てめえ!」
刺客はナイフを突きつける。しかしその切っ先は震えていた。
フリーデが自分の命綱だと分かっているのだろう。
自分がどうなるのかを考えるのは、身が竦むほど怖ろしい。
――大丈夫。マリアはしっかり仕事をしてくれるだろうし、北部を豊かにできる事業も起こせた。私がいなくなっても、原作ほどひどい状況には陥らないはずよ。
自分は精一杯やれた。
悲しいのは、ユーリの成長を見守れなかったこと。
それから。
――ギュスターブ様に……多少は見直しましたと言えなかったこと、かしら……。
その時、扉にとりつけられていた窓にギュスターブの姿が映った。馬で追走していた。
ギュスターブだけではない。ユーリや他の騎士たちの姿もあった。彼らが馬車を囲んでいた。
「おい、速度を上げろ!」
「は、はぃ!」
小窓から御者に命じる。
だがどれほどムチを入れても限界がある。その時、馬車が急停止した。
フリーデたちの体は馬車の中で揉みくちゃになり、体をしたたかに打ち付けてしまう。
「どうして停まったっ!?」
「申し訳ございません! ですが、この先は道がなくて……!」
今の急ブレーキの衝撃で男は短剣が自分の手元から離れたことに気付いていない。
フリーデはそろそろと短剣に手を伸ばすと、御者に罵詈雑言をぶつける刺客の右足めがけ短剣を突き立てた。
「ぎゃあああ!」
フリーデは頭をしたたかに打ち付けた衝撃にふらつきながら、馬車から外に出ようとするが、刺客はそうはさせまいと襟首を掴み、フリーデを引きずるように外に出た。
そこは数ヶ月前の雪崩で潰れたルートだ。
ここで原作のフリーデは刺客に殺され、崖下に捨てられた。
下馬したギュスターブたちがゆっくり追い詰めていく。
「くるな!」
「諦めろ。お前の負けだ。今ここでフリーデを離せば、全てなかったことにして見逃してやる」
刺客が後退る。しかしその先は道は途絶え、谷底が大きな口を開けている。
刺客は崖下の谷、それからフリーデ、ギュスターブとその背後の騎士の面々を見やる。
と、刺客が笑う。
「そんなクソみたいな手に引っかかるかッ!」
刺客がフリーデを谷底めがけ、放り出す。
――あ……っ。
「貴様!」
ギュスターブが一気に距離を詰め、刺客を斬り捨てた。
一方のフリーデは崖から突きだした枝に辛くもドレスが引っかかる。
フリーデは宙ぶらりんの状態になってしまう。
足を踏みしめるべく地面がないことが、こんなにも怖ろしいなんて。
「フリーデ、下は見るな。俺だけを見ろ!」
ギュスターブの声に、フリーデは言葉も出ず、コクコクと頷く。
ギュスターブは部下に持って来させたロープを腰に巻いて命綱代わりにすると、その先を部下に持たせ、慎重に崖を降りてくる。
谷を風が通るたび、引っかかっている枝が大きく揺れる。
その間も、ギュスターブのルビーのように鮮やかな瞳を見つづけた。
「掴まれっ」
ギュスターブが右腕を伸ばしてくる。
フリーデは両手を恐る恐るもちあげ、その手を掴む。しっかりと握り返される、その温もりと手の力強さに安堵を覚えた瞬間、それまでフリーデを支えていた枝が折れた。
「ひぃぃ……!」
喉から悲鳴を搾り出す。
「平気だ! 大丈夫! 俺がいるっ!」
フリーデの右の靴が谷底を落ちて見えなくなるが、フリーデの体はギュスターブの右腕に支えられ、彼の分厚い胸板に体を伸しつける格好で抱きしめられた。
ギュスターブはしっかりと抱きながら崖をゆっくりと上がって行く。
騎士たちに助け上げられ、フリーデは全身に嫌な汗をかいた。心臓がドッ、ドッと嫌に大きく鼓動を刻んだ。
「無事で良かった」
「……は、はい……あなたのお陰、です……っ」
「ふ、フリーデ様……!」
ユーリも飛びついてきて、顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら、抱きつく。
「心配かけてごめんね、ユーリ」
「良かったぁ! 良かったよぉ……!」
ユーリは大人びた口調ではなく、子どもらしさ全快で泣きじゃくる。
そんなユーリの頭を、フリーデはいつまでも撫で続けた。
ユーリはときおり外を見ていたが、勉強や課題図書にしっかり向き合ってくれている。
――ごめんね、ユーリ。
本当は外に出て遊びたいのだろうけど、それを我慢している。
年齢を考えれば、フリーデを無視してこっそり遊びに出かけてもおかしくないというのに。
そのいじらしさと、聞き分けの良さに申し訳なくなる。
「奥様、お茶が入りました」
出入り口を警備していた騎士がメイドから受け取ったお茶を運んでくれる。
「ユーリ、休憩にしましょう」
「うんっ」
紅茶をカップに注ぎ、クッキーを差し出す。騎士が毒味をすまして問題がないことを確認してから食べ始める。
「ありがとう。下がっていいわ」
「失礼いたします」
騎士が去ってから、お茶を楽しむ。
「今日もとてもいい天気だね」
ユーリが眩しそうに、春の景色に目を細める。
早く自由にローランに乗れるようにしてあげたい。
そのためには刺客を見つけなければならないが、どこにいるのかも分からない。
このまま、問題が片付くまでユーリを部屋の中に閉じ込めておくのか。
それは本当に正しい選択なのだろうか。
籠の鳥にするのは、まるで、ユーリの養父のようではないか。
そんな考えが不意に頭を過ぎった。
もちろん養父のようにユーリを虐げてもいなければ、奴隷のようにこき使っているわけでもない。しかしいくら理由があるとはいえ、やっていることは同じではないかと考えてしまう。
「……今日は出かけましょうか」
「いいの?」
「ただ馬は駄目。馬車で、だけど」
「それでもいいよ! フリーデ様と出かけるなんて久しぶりだ!」
ユーリは年相応な無邪気さで喜んでくれる。
「それじゃあ、支度してくるわね」
「ギュスターブ様も誘わない?」
「そうね。誘ってみましょう」
「やった!」
久しぶりなのだから出来れば、三人で出かけたほうが楽しいだろう。
あの雪蛍を見た日のように。
フリーデが廊下に出ると、そばを通ったメイドに外出するから馬車の用意をするよう伝えた。
「――フリーデ様、ユーリ様」
そこへ別のメイドが声をかけてくる。
「何?」
「ギュスターブ様がお呼びでございます」
「そう、ちょうど良かったわ。どこにいるの?」
「こちらでございます」
ユーリに従う騎士までついてくる。
「お二人だけをお呼びせよと言われおりますので」
フリーデは騎士たちを待たせると、ユーリと一緒にメイドに従う。
「そっちは執務室ではないけど」
「別の部屋に」
軽く頷き、メイドのあとをついていく。
「こちらでございます」
「ここって、客間?」
「は、はい」
「どうしてギュスターブ様がここに――」
メイドは小刻みに震えていた。よく見れば顔も青白い。
「大丈夫? 体調でも悪いの?」
「申し訳ございません……っ」
「別に責めてるわけじゃないんだから謝らないで」
その時、客間が開くと同時に手がぬっと伸びて、腕を掴まれ、部屋に引っ張り込まれた。
「声を出すな。逆らえば、その喉笛を掻ききる」
口を押さられ、もう一方の手には短剣が光る。
「フリーデ様っ」
姿を見ずとも声で分かる。司祭に化けていた刺客だ。
今、彼は侍従が身につける制服姿。
「小僧、黙って部屋に入れ。俺に従えば殺しはしない」
ユーリは見たことがないくらい鋭い眼差しで男を睨み付ける。
ユーリとメイドは言われるがまま、客間へ入っていく。
「フリーデ様を離せ。離せば、命だけは助けてやるっ」
「ハハハ、威勢のいいガキだ。俺の目的は小僧、貴様だ。だから抵抗せず、ゆっくりこっちに来い。そうすればこの女は無傷で返してやる」
「本当だな」
「……駄目!」
「フリーデ様!?」
ユーリは目を瞠った。
「ユーリ、この男に従っては駄目。この男はあなたを殺そうとしてるっ」
「黙れ、女」
刺客のナイフを持っている右腕が首に絡みつき、締め上げられてしまう。
「ぐ……ぁ……」
喉が圧迫され、呻きが漏れた。
「ひどいことをするなっ」
「だったらさっさと来いっ」
刺客が左手を伸ばしてくる。
ユーリはゆっくりと近づく。
(あなたをこんなところで死なせるわけにはいかないのよ!)
物語の筋書きが変わってしまうことなんてどうでもいい。ただただユーリが心配だった。
この世界は物語の中かもしれないが、その中でユーリたちは本当に生きているのだ。
フリーデはヒールの踵で男足を思いっきり踏みつけた。
「ぐああ!」
ユーリに意識が向いていたせいか、男が絶叫する。
フリーデは刺客の拘束から逃れると、ユーリの手を引き、部屋から飛び出そうとするが、すんでの所で襟首を掴まれた。
「逃げて!」
フリーデは倒される寸前、ユーリを突き飛ばして廊下へ追い出した。
フリーデは床に引き倒された。お腹に男がのしかかり、頭を床へ押しつけられた。
「このクソ女! 本気で死にたいらしいなっ!」
「殺したければ殺せばいいっ!」
ユーリを守らなければならないという責務と、もう自分の命も長くはないという捨て鉢な気持ちが絡み合い、いつもよりフリーデを大胆にさせていた。
自分の生は一度終わり、物語の人物に転生した。奇跡で命を拾ったのだ。
だったらこれは自分のためではなく、誰かのために捧げられるべきだ。
短剣が振り上げられるその時、扉が蹴破られた。
「フリーデ!」
ギュスターブと騎士たちだった。
「クソ!」
刺客は即座に行動に移ると、再びフリーデの喉元に刃を当てた。
「少しでも動けば、コイツを殺すぞ!」
「お前はもう袋の鼠だ。それが分からないほど愚かなのか?」
「黙れ! おら、下がれ! 早くしろ!」
刺客は喉元にナイフの切っ先を押し当てる。チクリという鋭い痛みと一緒に、血が滲むの。
「ギュスターブ様、私のことはお構いなく! この刺客を殺して……!」
「黙れ!」
再び喉を腕で締め上げられる。
「……分かった。下がる。だから、フリーデに手を出すな」
ギュスターブは双眸に殺意を浮かべながら、騎士たちに下がるよう命じる。じりじりと後退していく分だけ、刺客とフリーデは進んだ。
廊下に出ると、そのまま刺客はフリーデを人質に取ったまま玄関に向かう。
城の前には馬車が止まっている。
「乗れっ」
刺客に突き飛ばされ、フリーデは馬車の座席に転がされる。
すぐに刺客が乗り込むや、御者に怒鳴る。
「さっさと出せ!」
「ど、どちらへ」
「いいから早くしろ!」
「はぃ!」
馬車が馬にムチをくれた。
「残念だったわね! 目的も果たせず、尻尾を巻いて逃げ出すなんて!」
「てめえ!」
刺客はナイフを突きつける。しかしその切っ先は震えていた。
フリーデが自分の命綱だと分かっているのだろう。
自分がどうなるのかを考えるのは、身が竦むほど怖ろしい。
――大丈夫。マリアはしっかり仕事をしてくれるだろうし、北部を豊かにできる事業も起こせた。私がいなくなっても、原作ほどひどい状況には陥らないはずよ。
自分は精一杯やれた。
悲しいのは、ユーリの成長を見守れなかったこと。
それから。
――ギュスターブ様に……多少は見直しましたと言えなかったこと、かしら……。
その時、扉にとりつけられていた窓にギュスターブの姿が映った。馬で追走していた。
ギュスターブだけではない。ユーリや他の騎士たちの姿もあった。彼らが馬車を囲んでいた。
「おい、速度を上げろ!」
「は、はぃ!」
小窓から御者に命じる。
だがどれほどムチを入れても限界がある。その時、馬車が急停止した。
フリーデたちの体は馬車の中で揉みくちゃになり、体をしたたかに打ち付けてしまう。
「どうして停まったっ!?」
「申し訳ございません! ですが、この先は道がなくて……!」
今の急ブレーキの衝撃で男は短剣が自分の手元から離れたことに気付いていない。
フリーデはそろそろと短剣に手を伸ばすと、御者に罵詈雑言をぶつける刺客の右足めがけ短剣を突き立てた。
「ぎゃあああ!」
フリーデは頭をしたたかに打ち付けた衝撃にふらつきながら、馬車から外に出ようとするが、刺客はそうはさせまいと襟首を掴み、フリーデを引きずるように外に出た。
そこは数ヶ月前の雪崩で潰れたルートだ。
ここで原作のフリーデは刺客に殺され、崖下に捨てられた。
下馬したギュスターブたちがゆっくり追い詰めていく。
「くるな!」
「諦めろ。お前の負けだ。今ここでフリーデを離せば、全てなかったことにして見逃してやる」
刺客が後退る。しかしその先は道は途絶え、谷底が大きな口を開けている。
刺客は崖下の谷、それからフリーデ、ギュスターブとその背後の騎士の面々を見やる。
と、刺客が笑う。
「そんなクソみたいな手に引っかかるかッ!」
刺客がフリーデを谷底めがけ、放り出す。
――あ……っ。
「貴様!」
ギュスターブが一気に距離を詰め、刺客を斬り捨てた。
一方のフリーデは崖から突きだした枝に辛くもドレスが引っかかる。
フリーデは宙ぶらりんの状態になってしまう。
足を踏みしめるべく地面がないことが、こんなにも怖ろしいなんて。
「フリーデ、下は見るな。俺だけを見ろ!」
ギュスターブの声に、フリーデは言葉も出ず、コクコクと頷く。
ギュスターブは部下に持って来させたロープを腰に巻いて命綱代わりにすると、その先を部下に持たせ、慎重に崖を降りてくる。
谷を風が通るたび、引っかかっている枝が大きく揺れる。
その間も、ギュスターブのルビーのように鮮やかな瞳を見つづけた。
「掴まれっ」
ギュスターブが右腕を伸ばしてくる。
フリーデは両手を恐る恐るもちあげ、その手を掴む。しっかりと握り返される、その温もりと手の力強さに安堵を覚えた瞬間、それまでフリーデを支えていた枝が折れた。
「ひぃぃ……!」
喉から悲鳴を搾り出す。
「平気だ! 大丈夫! 俺がいるっ!」
フリーデの右の靴が谷底を落ちて見えなくなるが、フリーデの体はギュスターブの右腕に支えられ、彼の分厚い胸板に体を伸しつける格好で抱きしめられた。
ギュスターブはしっかりと抱きながら崖をゆっくりと上がって行く。
騎士たちに助け上げられ、フリーデは全身に嫌な汗をかいた。心臓がドッ、ドッと嫌に大きく鼓動を刻んだ。
「無事で良かった」
「……は、はい……あなたのお陰、です……っ」
「ふ、フリーデ様……!」
ユーリも飛びついてきて、顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら、抱きつく。
「心配かけてごめんね、ユーリ」
「良かったぁ! 良かったよぉ……!」
ユーリは大人びた口調ではなく、子どもらしさ全快で泣きじゃくる。
そんなユーリの頭を、フリーデはいつまでも撫で続けた。