夫に離婚を切り出したら、物語の主人公の継母になりました
3 取引
「ん……」
フリーデは瞼をゆっくりと開けた。
「フリーデっ」
ベッドの傍にはギュスターブがいた。
鎧はすでに脱ぎ、青い生地に銀の縁取りのついた簡素な服をまとっている。
「……目覚めて、良かった」
覚醒したばかりで頭がぼんやりしている。
彼の顔より、首から下がった金色のペンダントに目が行く。
たしかあのペンダントは物語の中でギュスターブの死の間際、一緒に埋葬して欲しいと、それまで何かを求めたりほとんどしてこなかったギュスターブが、ユーリに対して唯一願うものとして登場するキーアイテム。
――何が入ってるのか知らないけど。
それからフリーデは、ゆっくりギュスターブの顔を見る。
夜明け前の夜空を思わせる青みがかった黒髪に、切れ長の眼差しは血よりもずっと鮮やかな深紅。
彫りの深い精悍な顔立ちには、色気が漂う。
肩幅は広く、胸板は厚く、逆三角形でバランスのいい体格なのは、服の上からもでもはっきり分かる。
彼とはじめて顔を合わせた時は、その精悍さあるたたずまいに、とても目を合わせられなかった。
――うん……いい男ではあるんだけど、クソ野郎なのよね……。
どうして十年も妻を飼い殺しにしてきた冷酷人間が、ここにいるのかだけが唯一理解できないことだけど。
さすがに気絶した妻を放置するには忍びないとでも思ったのか。
フリーデは体を起こす。
「まだ休んでいろ」
右手を見る。熱いな、と思ったら、ギュスターブが両手で握り締めていた。
皮膚が硬く、分厚く、大きい、男の人の手。
「あの……」
「ん? 何か欲しいものがあるのか?」
「痛いんですけど」
「すまない、つい」
「……手を離してはくれないのですか」
「今、手の力が緩めたつもりだが、まだ痛いか?」
「あ、いえ……力加減は別に」
形ばかりの心配だと理解しつつも、振り払うのはためらわれた。
素のフリーデだったらためらいなくふりほどいているだろうが、今のフリーデはフリーデであってフリーデではない。
前世を思い出したと同時に、前世の強く出られない性格までおまけについてきてしまったらしい。
「勘違いしているようだから説明させてくれ。あの子……ユーリは、俺の子じゃない。先帝陛下の子ども……帝国の正当な後継者だ」
ギュスターブは右手を懐に入れると(左手ではしっかりフリーデの手を握ったまま)、書状を引っ張り出して渡してくる。
そしてちゃっかりまた両手で握る。
すごい。この十年間で今、この瞬間がもっとも触れられている最長記録だ。
仕方ないので、布団の上に広げて目を通す。
それは先帝からの書状だった。
手紙には、かつて愛した女性との間にできた子どもが、自分の死後、弟は帝位の継承を確かなものにするためその子を殺そうとするかもしれないから守って欲しい、とあった。
どうやら恐妻として怖れられていた皇后をはばかって、ユーリを引き取ることができなかったらしい。
――またとんでもなくはた迷惑な依頼を……。
とはいえ先帝からの願いだ。断ることはできないだろう。
「……あの子をどうするつもりですか」
「これは陛下のご遺志だ。守っていく。ついては」
「私に協力して欲しい、ということですか」
「身勝手な頼みなのは分かっている」
「本当に」
――でもユーリに罪はない。
彼もまた皇帝の身勝手さによる犠牲者だ。
「条件がございます」
「……なんだ」
「あの子が一人前になったあかつきには、離縁してください」
ユーリがグリシール家にやってきたのは十歳。帝国における成人年齢は十六歳。
六年は長いが、ユーリのためなら我慢できるし、六年もあればかなりの金額を貯めることができるだろう。
「なら、俺からも条件を足させてくれ」
「あなたの願いを叶えるのにさらに条件を出すのですか? まあいいです。試しに聞かせて下さい。その内容次第です」
「俺と結婚生活を続けても構わないと思ったら、離縁の件はなしにしてくれ」
十年間放置した夫の口から出たとは考えられないくらい、思い上がった要求だ。
とはいえ、そんなこと起こるはずもないから、フリーデからしたら特別こだわるようなものでもない。
「そんなことありえないとは思いますが、構いません。契約書を作ってくれますか?」
「分かった。ルードに命じる」
「ありがとうございます。それで、ユーリは?」
「今は風呂だ」
そこに、初老の男が部屋に飛び込んでくる。ギュスターブ家の執事のルードが血相を変えている。
「おい、ノックをしろ」
「申し訳ございません、旦那様……。あ、奥様、お目覚めでございましたか、お加減はいかがでございますか」
「大丈夫よ」
「それは、ようごいました」
「ルード、あなたがノックを忘れるなんて……そんなに慌ててどうしたの?」
「あ、そうでした! ユーリ様が物置に立てこもられました!」
まさかの事態に、フリーデたちは目を瞠った。
「立てこもり……? お風呂に入れるとギュスターブ様からお聞きしたところなんだけど」
「それが、メイドが服を脱がせようとしたところ、突然暴れられ、制止を振り切って部屋を飛びだして……いかがいたしましょうか」
「いかがもなにもないでしょう。説得するわ」
フリーデはベッドから抜け出す。
「おい、無理は」
ギュスターブが言う。
――この人、そんなに離婚が嫌なの? 世間体を気にするタイプには見えないけど。
「平気です。それからそんな取って付けたような気遣いは無用です。そろそろ手を離して欲しいんですけど……」
ギュスターブは名残惜しそうに手を離す。
「もう出歩いてよろしいのですか?」
ルードが不安げな顔で聞いてくる。
彼はフリーデが体調を崩した時も看病してくれるし、頼れる人だ。年齢さえ釣り合えば、再婚してもいい。ギュスターブよりもずっといい旦那になってくれそうだ。
「ええ」
「フリーデ。廊下は冷えるぞ」
ギュスターブは毛皮を着せてくれる。
無論こんなことで心が動くほどお人好しではない。
とはいえ、無視するのは大人げない。
「ありがとうございます」
「いや」
ギュスターブは口元にうっすらと微笑を浮かべた。
「!」
八年間ではじめて見せられた笑顔に、唖然としてしまう。
――い、今笑ったの……? 戦争狂が……?
背筋にゾクゾクしたものがはしる。
フリーデは毛皮を掻き抱くと、ギュスターブ、ルードと共に部屋を出た。
フリーデは瞼をゆっくりと開けた。
「フリーデっ」
ベッドの傍にはギュスターブがいた。
鎧はすでに脱ぎ、青い生地に銀の縁取りのついた簡素な服をまとっている。
「……目覚めて、良かった」
覚醒したばかりで頭がぼんやりしている。
彼の顔より、首から下がった金色のペンダントに目が行く。
たしかあのペンダントは物語の中でギュスターブの死の間際、一緒に埋葬して欲しいと、それまで何かを求めたりほとんどしてこなかったギュスターブが、ユーリに対して唯一願うものとして登場するキーアイテム。
――何が入ってるのか知らないけど。
それからフリーデは、ゆっくりギュスターブの顔を見る。
夜明け前の夜空を思わせる青みがかった黒髪に、切れ長の眼差しは血よりもずっと鮮やかな深紅。
彫りの深い精悍な顔立ちには、色気が漂う。
肩幅は広く、胸板は厚く、逆三角形でバランスのいい体格なのは、服の上からもでもはっきり分かる。
彼とはじめて顔を合わせた時は、その精悍さあるたたずまいに、とても目を合わせられなかった。
――うん……いい男ではあるんだけど、クソ野郎なのよね……。
どうして十年も妻を飼い殺しにしてきた冷酷人間が、ここにいるのかだけが唯一理解できないことだけど。
さすがに気絶した妻を放置するには忍びないとでも思ったのか。
フリーデは体を起こす。
「まだ休んでいろ」
右手を見る。熱いな、と思ったら、ギュスターブが両手で握り締めていた。
皮膚が硬く、分厚く、大きい、男の人の手。
「あの……」
「ん? 何か欲しいものがあるのか?」
「痛いんですけど」
「すまない、つい」
「……手を離してはくれないのですか」
「今、手の力が緩めたつもりだが、まだ痛いか?」
「あ、いえ……力加減は別に」
形ばかりの心配だと理解しつつも、振り払うのはためらわれた。
素のフリーデだったらためらいなくふりほどいているだろうが、今のフリーデはフリーデであってフリーデではない。
前世を思い出したと同時に、前世の強く出られない性格までおまけについてきてしまったらしい。
「勘違いしているようだから説明させてくれ。あの子……ユーリは、俺の子じゃない。先帝陛下の子ども……帝国の正当な後継者だ」
ギュスターブは右手を懐に入れると(左手ではしっかりフリーデの手を握ったまま)、書状を引っ張り出して渡してくる。
そしてちゃっかりまた両手で握る。
すごい。この十年間で今、この瞬間がもっとも触れられている最長記録だ。
仕方ないので、布団の上に広げて目を通す。
それは先帝からの書状だった。
手紙には、かつて愛した女性との間にできた子どもが、自分の死後、弟は帝位の継承を確かなものにするためその子を殺そうとするかもしれないから守って欲しい、とあった。
どうやら恐妻として怖れられていた皇后をはばかって、ユーリを引き取ることができなかったらしい。
――またとんでもなくはた迷惑な依頼を……。
とはいえ先帝からの願いだ。断ることはできないだろう。
「……あの子をどうするつもりですか」
「これは陛下のご遺志だ。守っていく。ついては」
「私に協力して欲しい、ということですか」
「身勝手な頼みなのは分かっている」
「本当に」
――でもユーリに罪はない。
彼もまた皇帝の身勝手さによる犠牲者だ。
「条件がございます」
「……なんだ」
「あの子が一人前になったあかつきには、離縁してください」
ユーリがグリシール家にやってきたのは十歳。帝国における成人年齢は十六歳。
六年は長いが、ユーリのためなら我慢できるし、六年もあればかなりの金額を貯めることができるだろう。
「なら、俺からも条件を足させてくれ」
「あなたの願いを叶えるのにさらに条件を出すのですか? まあいいです。試しに聞かせて下さい。その内容次第です」
「俺と結婚生活を続けても構わないと思ったら、離縁の件はなしにしてくれ」
十年間放置した夫の口から出たとは考えられないくらい、思い上がった要求だ。
とはいえ、そんなこと起こるはずもないから、フリーデからしたら特別こだわるようなものでもない。
「そんなことありえないとは思いますが、構いません。契約書を作ってくれますか?」
「分かった。ルードに命じる」
「ありがとうございます。それで、ユーリは?」
「今は風呂だ」
そこに、初老の男が部屋に飛び込んでくる。ギュスターブ家の執事のルードが血相を変えている。
「おい、ノックをしろ」
「申し訳ございません、旦那様……。あ、奥様、お目覚めでございましたか、お加減はいかがでございますか」
「大丈夫よ」
「それは、ようごいました」
「ルード、あなたがノックを忘れるなんて……そんなに慌ててどうしたの?」
「あ、そうでした! ユーリ様が物置に立てこもられました!」
まさかの事態に、フリーデたちは目を瞠った。
「立てこもり……? お風呂に入れるとギュスターブ様からお聞きしたところなんだけど」
「それが、メイドが服を脱がせようとしたところ、突然暴れられ、制止を振り切って部屋を飛びだして……いかがいたしましょうか」
「いかがもなにもないでしょう。説得するわ」
フリーデはベッドから抜け出す。
「おい、無理は」
ギュスターブが言う。
――この人、そんなに離婚が嫌なの? 世間体を気にするタイプには見えないけど。
「平気です。それからそんな取って付けたような気遣いは無用です。そろそろ手を離して欲しいんですけど……」
ギュスターブは名残惜しそうに手を離す。
「もう出歩いてよろしいのですか?」
ルードが不安げな顔で聞いてくる。
彼はフリーデが体調を崩した時も看病してくれるし、頼れる人だ。年齢さえ釣り合えば、再婚してもいい。ギュスターブよりもずっといい旦那になってくれそうだ。
「ええ」
「フリーデ。廊下は冷えるぞ」
ギュスターブは毛皮を着せてくれる。
無論こんなことで心が動くほどお人好しではない。
とはいえ、無視するのは大人げない。
「ありがとうございます」
「いや」
ギュスターブは口元にうっすらと微笑を浮かべた。
「!」
八年間ではじめて見せられた笑顔に、唖然としてしまう。
――い、今笑ったの……? 戦争狂が……?
背筋にゾクゾクしたものがはしる。
フリーデは毛皮を掻き抱くと、ギュスターブ、ルードと共に部屋を出た。