夫に離婚を切り出したら、物語の主人公の継母になりました

4 ユーリ

「ユーリ様、ここを開けてくださいませ!」
「そこは冷えます。風邪を引いてしまいますよ!」

 メイドたちが物置を前に、必死に呼びかけている。

「あ、旦那様、奥様」

 メイドたちがうやうやしく頭を下げる。

「みんな、下がってちょうだい」
「しかし」
「こんなに大勢がいたんじゃ怖くて出られないでしょ。ここは、彼にとって右も左も分からない場所なのよ。大勢の人間に囲まれたら怖いはずよ」
「皆、下がりなさい」

 ルードが命じ、この場にはフリーデたち三人が残る。
 フリーデはできるかぎり、刺激しないよう柔らかな声で告げる。

「ユーリ。聞こえる? メイドたちは下がらせたわ。怖がらせてごめんなさい。ただあなたを風呂に入れたいだけなの。ここを開けてちょうだい」
「……お、お風呂は、い、いいです。大丈夫です……」

 部屋の中からぼそぼそっと消え入るような小さな声が聞こえる。

「そういうわけにはいかないわ。汚れをそのままにしておくと病気になるかもしれないもの」
「僕なら平気ですから……」

 声が上擦り、震えている。心なし、涙声にもなっている。

 ――お風呂が嫌い? それにしてはちょっと嫌がりすぎというか……。

「ユーリ。俺だ、ギュスターブだ。何も怖いことはない」
「は、伯爵様……お風呂は……僕は……本当に……」

 ここまで恐れるのは普通ではない。何か事情がありそうだ。

「ギュスターブ様、ルード、二人も下がってください。ユーリと二人きりで話してみます」
「ルードはともかく、俺は……」
「お願いします。何か分かったらあとで伝えますので」
「……分かった」

 ギュスターブはちらちらとフリーデのことを気にしながらも、立ち去っていく。

 ――ギュスターブってあんな素直な人だった? まあどうでもいいけど。

 彼のことは頭の外に追い出し、再び声をかける。

「ユーリ。ここにはもう私しかいない。もし事情があるんだったら話して欲しいの。ギュスターブ様……夫には言わなくてはいけないけど、他の人には絶対に話さない。だから何がそんなに怖いのか教えて」
「……さ、寒いのは嫌なんです。お風呂のせいで、何度か熱を出したことがあって……」

 ――湯冷め? でも物語の中でユーリはすごく健康だったし、病気がちって設定はなかったはず。

「湯冷めを心配しているの? 安心して。私がそうしないよう気を付けるから。それに、今日は特に冷えるでしょ。温かいお湯に浸かって汚れを落としたら、きっと気持ちいいわ」
「……お、お湯? 水じゃ、ないんですか?」
「何を言ってるの? お風呂よ。行水じゃないんだから…………もしかして、今まで住んでいたところで、お風呂は水だったの!?」
「は、はい。井戸水を頭からかけられて……」

 ――虐待されてたの? でもそんな描写は原作には……。

 しかしこの世界には作中以外の人物は山といる。それこそ作中でルードは出てきたが、他の使用人たちの描写はほとんどなかった。しかしフリーデはこの十年間、何人ものメイドと言葉を交わして、親しく話す子もいる。彼女たち全員にそれぞれの暮らしがある。

 描写がなかったから存在しないのではない。この世界は物語の中かもしれないが、でもここにいる人たちは全員、現実の暮らしを送っているのだ。

「安心して。お湯だから。ここにそんなひどいことをする人間はいないわ。約束する」

 物置の扉が開くと、ユーリが姿を見せた。
 初対面の時はそれどころではなかったから気付かなかったが、ユーリはひどく痩せ、体も小さい。とても十歳には見えない。

「出て来てくれて良かったわ。それじゃ、部屋に戻りましょう」
「……フリーデ様、さっき倒れられましたが、大丈夫でしょうか」
「! あはは、え、ええ……大丈夫よ。ありがとう」
「すみません、僕のせいで」

 ユーリはしゅんと肩を落とす。

「違うの。あなたのせいじゃない。あれは……ちょっと体調が悪くて、貧血気味でね。ただそれだけ。あなたのせいじゃないわ。――さあ、お風呂に行きましょ!」

 少しでも力を入れたら壊れてしまいそうな小さな手を包み込むように握った。
 握り返してくる力はとても弱く、気付いたら消えてしまいそうな儚さを感じさせる。

 ――とても、将来、英雄と讃えられる人には見えないわね。

 ユーリにあてがわれた部屋に入り、風呂場に入る。
 バスタブには湯がためられ、湯気をたたえている。

「ね、ちゃんとお湯でしょ。じゃあ、服を脱ごっか。万歳して」
「ひ、一人で出来ますから……」

 ユーリは頬を赤らめた。

「ごめんなさい。私ったらつい。じゃあ、外で待ってるわね」

 そう言って風呂場を出ようとしたその時、服を脱いだユーリの上半身が見える。

「! 待って、ユーリ」
「? 何ですか?」

 ユーリの体は傷だらけだった。切り傷や打撲傷と思われるもの。青痣や紫色の内出血、かさぶたなど、ひどい有り様だった。

「その傷……」
「僕が悪いんです。うまく家の仕事ができないし、約束を破ったりしたから」
「……お母さんにされたの?」
「お母さんは昔に死んじゃったので。お母さんのお兄さんに引き取られてそこで……」
「そう」
「でも見た目ほど痛くないんです。だから心配しないでくださいっ」

 心配させまいと、ユーリは気丈に笑う。その健気な姿に胸が締め付けられ、抱きしめてしまう。

「フリーデ様!?」

 ユーリは顔を真っ赤にして慌てる。
 いくら物語の主役だからと言って、こんな過酷な幼少期を過ごさせる必要があったのだろうか。
 きっと他にも原作に描写されていない苦しい出来事が、ユーリの身に降りかかっていただろう。

「お風呂から出たらしっかり薬を塗りましょう。そのほうが治りも早くなるわ」
「ありがとうございます」

 風呂から上がったユーリにメイドに持ってこさせた薬を塗る。

「傷に染みない?」
「大丈夫です」

 それから新しい寝巻に着替えさせ、ユーリをベッドまで案内する。

「ここに寝てもいいんですか?」
「もちろん。あなたのための部屋なんだから」
「僕のための」

 ユーリはベッドの感触や、ふわふわの布団を手で何度も何度も触りながら、口元をほころばせ、もぐりこむ。

「……温かい。ありがとうございます。僕なんかのためにこんなすごい部屋を用意してくださって」

 すごいと言っても、この部屋は城の中では比較的小さな方だ。

「何か用事があったらその紐を引いて。専属のメイドが来てくれるから」
「……フリーデ様とお話ししたい時は……」

 フリーデは自分の部屋の場所を教えると、ユーリはそれを忘れないように口の中でぶつぶつと繰り返す。

「それじゃ、おやすみ」
「はい、おやすみなさい!」

 ――すごくいい子ね。

 フリーデは手を振りながら、部屋を出る。
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