このたび聖女様の契約母となりましたが、堅物毒舌宰相閣下の溺愛はお断りいたします! と思っていたはずなのに
 隣のクライブが、ごそごそと何か動いているようにも感じられたが、今はそれを気にする余裕すらない。
 エーヴァルトを名前で呼ぶのは平気だった。もちろん、使用人たちも名前で呼べる。だけど、クライブだけは駄目なのだ。彼の名前を口にしようとすると、恥ずかしい。
「……イリヤ」
 こうやって優しく耳元で名前をささやくのは卑怯である。だが、はたと気づいた。
 クライブはあのときからずっと、イリヤを名前で呼んでいる。初対面のときは「お前」と呼んでいたはずなのに。
「オレたちが人前で夫婦に見えるように、今からきちんと練習しておいたほうがいいと思うのだが?」
「善処します」
 その言葉で彼が納得したかどうかはわからないが、少しだけイリヤの耳元から距離を取った。
 そこから、二人の間に言葉はなかった。イリヤもクライブからは視線をそむけて、ぼんやりと窓際に視線を向ける。
 ただ、心臓だけは高鳴っていた。

 屋敷に戻るとマリアンヌを抱いたナナカが出迎えてくれた。それでもマリアンヌはイリヤの姿を見つけると腕を伸ばして抱っこしてと意思表示をしてくる。こうやって求められるのは、悪い気はしない。母親であると認められているような感じがするからだ。
「ただいま、マリー」
「雑菌……」
 クライブがぼそりと呟く。やはり彼は根に持っている。
「月齢も高くなりましたから、気にしなくてもよろしいかと?」
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