Anonymous〜この世界に生まれた君へ〜
「あの日以来ここに来るのは初めてじゃないか?」

「そうだね」

紫月の問いかけに幸成は感情を殺したかのように笑いながら、カウンターの上に置かれた指を動かす。このバーには時々三人で飲みにきていた。しかし綾音が行方不明になってから足を運ぶのは初めてである。

「……本当はずっとここに来たかったんだ。綾音がこのバーでカクテルを飲んでるんじゃないかって思って。でも一人じゃこのドアを開けることはできなかった。まあ、綾音の姿はなかったけど」

そう言った幸成の顔はどこか疲れ切っていた。無理をして笑っている。紫月は息を吐くと彼の背中を叩いた。

「今夜は俺の奢りだ。好きなものを飲め。綾音がひょっこり来るかもしれないぞ」

「そうなったらいいな」

店主が幸成の前にカクテルを置く。綾音が好きだったチャイナブルーだ。ライチの柔らかな甘みとアルコールの苦みが楽しめる。まるで海を思わせるような美しい青色のカクテルだ。

「マスター、ジントニックを」

紫月も二杯目のカクテルを注文する。クラシックのBGMが耳に心地よかった。
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