Anonymous〜この世界に生まれた君へ〜
「すき焼きセットを三人でたらふく食べたな」

「松坂牛、蕩けるくらいおいしかった。綾音がすごく笑ってて……」

過去の幸せだったことを話す幸成の瞳は憂いに満ちていた。愛する女性の行方は未だに何一つ手がかりすら見つかっていない。

「……きっとひょっこり帰ってくる」

まるで自分に言い聞かせるように紫月は口にする。最悪な結末を信じたくなかった。綾音がどこかで生きて、笑って帰って来る。ゼロに限りなく近い希望にただ縋り付いていた。

「お店、見えてきたね」

幸成の視線の先には暖簾のかかった木造の建物があった。二階建てのその建物の出入り口の前では、着物を着た若い従業員の女性が掃除をしているところだった。

「いらっしゃいませ。二名様ですか?」

従業員が笑みを浮かべ、紫月と幸成に話しかける。紫月が「二人です」と頷き、二人は建物の中の座敷へと案内される。

板張りの廊下を歩いていると、紫月の真横にある襖が開いて一人の女性が出て来た。紫のロングヘアーに黄色のカチューシャをつけ、エンパイアシルエットの紫のドレスを着て、耳にはレモンのイヤリングが揺れている。
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