Anonymous〜この世界に生まれた君へ〜
「つまり、事件性はないということだな」

『うん。あとはご家族に遺体を引き取ってもらえたらいいんだけど……』

フランスのストライキは未だに続いており、蘭の両親がフランスを出国する目処は立っていない。そのことに嘆く電話がかかってきているそうだ。

『所長が「それは仕方ないので」って必死に宥めていたよ。早く会いたいって気持ちは痛いほどわかるけどね』

幸成の声はどこか震えているように聞こえた。電話の向こうにいる彼が一番今会いたい人を思い浮かべ、紫月の胸にも切なさが走った。

「幸成、また飲みに行こう」

『そうだね。またあのバーにでも行こうか』

二言三言話して電話を切る。この時の紫月は、まさかあのようなことが起こるなど想像すらしていなかった。

その翌日のことである。紫月が出勤するとまだ誰も「未解決捜査課」には来ていなかった。

(俺が一番乗りか……)

自分のデスクに腰掛け、昨日見ていた事件資料の続きを読もうと分厚いファイルを開ける。品川区で三年前に起きた殺人事件である。被害者は当時三十五歳の会社員女性。仕事から帰宅途中に何者かに刺され、そのまま亡くなった。
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