Anonymous〜この世界に生まれた君へ〜
翡翠はそう言って口を閉ざす。言いたいことは伝え終えたようだ。どうやら「話が長くなる」と言ったのは紫月にフルーツタルトを食べてもらうための口実だったようだ。

「貴重なお話ありがとうございます」

「お役に立てればいいのですが……」

紫月は不安そうに瞳を揺らす翡翠に頭を下げ、リビングを出る。玄関までの見送りは不要だと伝え、靴を履いてドアノブに手をかけた。

刹那、背後が気になり振り返る。リビングのドアが少し開いており、翡翠の横顔が見えた。その顔を見た瞬間に紫月の背中に寒気が走る。冷や汗がブワリと浮かんだ。

(この女は何者なんだ?)

先程まで不安そうにしていた彼女の顔から表情が抜け落ちていた。その瞳は宙を睨んでいるように見える。

紫月は素早く部屋を出てドアを閉める。春の温かな空気に晴れた瞬間に体の力が抜け、その場に座り込んでしまいそうになった。

その時、慎吾の部屋のドアが開いて一人の男性が姿を見せる。慎吾の部屋はまだ捜査が続いていて、多くの捜査員や鑑識が出入りしている。制服・もしくはスーツの人間が行き交う中、癖のある黒髪にロイヤルブルーのフレームの眼鏡の彼はストリート系の服を着ていた。
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