Anonymous〜この世界に生まれた君へ〜
チラリと顔を上げれば、紀人たちは相変わらず自分の好きなことだけをしている。この部署はいつも変わらない。時間通り、もしくは少し遅れて出勤。あとは時間が経つまで好きなことをする。ただそれだけだ。

紫月が部署の人間を見ていると、視線に気付いたのか碧が顔を上げる。その手に持っている本は、マンションでの事件で容疑者となった泉翡翠の執筆したものだった。

「太宰さん、どうかされましたか?」

「いや、何でもありません……」

「そういえばこの小説の作者、この前の事件の容疑者だったらしいですね。会ってみたかったな〜」

残念そうに言う碧に、紫月は「君は会わない方がいい」と心の中で呟く。彼女が普通の女性ならば、こんなことは思わなかっただろう。しかしあの日出会い、少し踏み込んだ翡翠は翡翠という皮を被った別人がいた。これほど恐ろしいことはない。

「太宰さんはこの本、読んだことありますか?」

本のタイトルは「黒薔薇殺人事件」。誰が見てもジャンルはミステリーだとわかる。紫月は顔を顰めた。
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