歪んだ愛
1
矢田輪真希子は大学のテニスコートにて十全汗をかいてから、帰宅する途中だった。最前の自分のテニスプレーを様々反芻していた。サーブが未だ甘い。あれではどのようにも打ち返されてしまう。昨年は大会惜しくも準優勝に終わった。サーブからして主導権を取れない所為だと思った。
真希子は自分のテニスを夢想しながら、暗い闇に包まれた街路を歩いていた。常夜灯はどうしたのだろうか。蛍光灯が切れでもしたのだろうか。
3月末、南国も未だ風は冷気を含んでいる。桜の便りは今少しという開花予報だった。4月初めにはサークルで、花見の予定がある。
帰宅しても家には誰も居ない。母は数年前に肝癌で亡くなり、真希子は独り娘、親しい父は夜の仕事なのだった。寂しさに溢れつつ、家路を急いでいた。今夜どうしようか。俗悪なテレビ番組に関心はない。ネットのプログラムにも最近飽きてきた。幼い頃はテレビ放映される外国映画、殊にフランス映画が好きだった。時が経ち、番組改編が進み、映画放映は現在では皆無に近くなった。何故なのだろう。テレビは芸術を拒絶し始めた。それならば、まだしも日本映画だけを放送してくれたら良いのに。貧乏学生の身では、2000円近い映画館に足を運ぶことは、頻繁には無理だった。
不思議なこともあるもので、先程から歩を進めても、街灯の故障は未だ続いていた。漆黒の闇が彼女を押し包んでいるのだった。夜風の冷気も増してきたようだ。真希子は自然速歩になった。早く自宅マンションに帰り、シャワーを浴びたかった。夜は何故か不安を煽る。治安は決して悪くない田舎町としても、夜の不安は妥当だった。
自然男性のことを想起した。父は余り頼もしくない。当然彼氏のことを思い浮かべた。そうだ、スマホで彼氏に電話しようか。ながらスマホで夜道を歩けば、不安も幾らかは軽減される。幾度も試みたことだった。何故なのだろう、今夜はスマホを手に取る気がしない。それより、一刻も早く帰宅したかった。
最近何となく体調不良だった。食欲不振で、暫く不眠も続いた。季節の変わり目の所為かもしれないが、今現在歩いていることすら、疲労感故に不快で、嘔吐を催した。誰か医師を受診すべきかとも考えていた。或いはこの不調は精神的なものかとも思われた。テニスにも今一つ熱中出来ない自分が居た。
風が強くなってきて、衣服の裾を巻き上げた。空は闇に包まれているが、高い空には雨雲の層があるのかもしれない。
交差点の角を曲がった折り、その刹那、何かの音楽が耳の底に響いた。彼女は立ち止まった。
何かの歌が路上で流れていた。真希子は反射的にポケットの中のスマホを取り、躊躇わず録音ボタンを押した。何かしら、自分にとって重要な歌であるかのような、直感が働いた。危険を察知したのだ。
歌は童謡、有名な里の秋だった。空虚な路上で、この童謡を聴くのは甚だ異様に思われた。
次の瞬間、矢庭に彼女は背後に人の気配を覚えた。直ぐさま振り向こうとしたが、叶わなかった。
彼女の後方から、革手袋の手が伸びてきて、彼女の口を塞いだ。呼吸が出来なかった。続いて、後ろから、刃渡りの長いナイフが突き込まれ、彼女の腹部を冷酷に刺した。彼女は悲鳴を上げた。
夜闇に煌めくナイフの刃が引き抜かれた。更に一突き、腹部をえぐられた。彼女の絶叫。ナイフは留まることを知らず、胸に向かって切り上げられた。彼女はアスファルトの路面に倒れ臥した。
その上部から執拗にナイフは振り下ろされた。鮮血が路上に迸った。
2
ドラムが激しくシンバルを叩いた。其処にテナーサックスが即興を加えた。フレットレスベースは重低音を刻んでいる。ギターはどちらかと言えば的外れにライトハンドのタッピングを叩く。オリジナル曲ながら、今夜は明らかに低空飛行だった。もっと良い演奏ができる筈だがと、ギタリストの矢田輪栄二は訝った。
乗りも即興もメンバー間でかみ合わなかった。曲は終盤に入ってきている。仕方がなかった。矢田輪はドラムに指示を出した。彼はバンドマスターだ。長いドラムソロで終わりにするしかなかった。バンドメンバーはドラマー以外、舞台から離れた。
ジャズバー、ジャンゴモンゴメリーで、演奏は二時間を超えて続いた。矢田輪は其の儘客席に入った。拍手は矢張り疎らだった。舞台も客席も全くフラットな極く小さなバーだ。矢田輪は喉が渇いているので、常連客と一緒にハイボールを飲み干した。
「矢田輪さん、お疲れさま」
常連の糸水良介が労をねぎらった。
「有難う、今夜は最悪だけどね」
「いいえ、良かったですわ」
糸水のガールフレンド、小早川修子はお世辞を言った。
「いや、良くないよ」
狭い店の入り口から、その折り物々しく制服警官が数人入ってきた。
「あれ、何事かな」
糸水は首を傾げた。
「何だろう」
矢田輪も其方を見た。
警官達は、ボーイに何事か尋ねていた。次の瞬間、驚いたことに、矢田輪達のテーブルにドカドカとやって来た。
「矢田輪栄二というのは貴方ですか」
「お巡りさん、私達の演奏に何かありましたか」
「演奏に問題はないです。しかし貴方に署に御同行願いたいのですが」
「それはまた何故」
「矢田輪真希子さんは、貴方の娘さんですね」
「そうですが、娘が何か」
「真希子さんは、今夜亡くなられました」
「何ですって」
矢田輪はグラスを取り落とした。
「どうして、交通事故ですか」
「いいえ、誠にお気の毒ながら、何者かに殺害されたのです」
「えっ、まさか……」
「事実なんです、矢田輪さん」
「信じられません。あの子は他人の恨みを買うようなことはない筈ですが」
「その辺りの事情を、署にてお聞かせ願いたいのですが」
「分かりました」
事情聴取とはいいながら、何か連行される物々しさで、矢田輪は警官達と共に店を出た。通りにパトカーが停車しており、それに乗り込んだ。矢田輪は後部シートで瞑目した。
「大学のゼミ担任、山川教授に遺体の確認はして頂きましたが、お父さんも確認をお願い致します」
「何故、山川教授が先に」
「遺体の身元は所持品の学生証で知れたのです。教授の方が大学に問い合わせて、先に呼ばれました。教授から矢田輪さんのことをお聞きしたのです」
その警官は口振りは親切だった。
「そうだったんですね」
パトカーはけたたましいサイレンを鳴らして、夜道を快走した。矢田輪は未だ心構え出来ていなかった。
「本当に、間違いだったら良いんですけど」
パトカーは制限速度ぎりぎりで疾駆した。
先ずは遺体の確認から、と言われ、安置所に向かった。
「まだ解剖に付しておりません。躰は36箇所の刺し傷があり、未だ縫合もしていないんですが」
「36箇所……」
「ええ、お気の毒です。傷はシーツで隠れておりまして、意外にお顔立ちは綺麗なものです」
案内してくれたのは、渋谷という五十格好の警部補だった。他に木村という三十代の刑事が同行した。
渋谷警部補は、遺体の顔布を取り払った。
「如何です、矢田輪さん」
「娘に間違いありません」
矢田輪は声を詰まらせた。
「信じられません、朝はあんなに元気だったのに」
「心中お察し致します」
「しかし、そんな酷く刺されるような、憎悪を他人から抱かれていたとは信じられません。真希子は温厚な性格で」
「異常者の犯行でしょう」
「異常者ですか」
「ええ、で、矢田輪さん」
「何でしょう」
渋谷は紅いスマホを取り出した。
「これは真希子さんのものですね」
「そのようですが」
「実は、真希子さんは危険を察知したのでしょう。犯行現場をスマホで録音しておられました」
「何ですって」
「甚だ、お聞き苦しいとはお察し致しますが、聞いてみてください」
「ええ、構いません」
渋谷警部補はスマホをタップした。
いきなり、何かの音楽が流れた。童謡、里の秋。その歌が暫く流れ、続いて人がいがみ合う音が再生された。真希子の悲鳴が半分聞こえたところで、渋谷はスマホを止めた。
「如何でしょう。衝撃的過ぎるとは思いますが、この歌について、お尋ねしたいのです」
「驚きました。里の秋ですか」
「ええ、この歌に心当たりはありませんか」
「いいえ、何も」
「家で聴いてらしたとか」
「いいえ、自宅では私の仕事上、ジャズばかり掛かってます」
「真希子さんが子供の頃、聴いてらしたとかはありませんか」
「いいえ、それも記憶にありません」
「そうですか、この歌は犯人にとって何らかの意味を持つ歌らしいのですが」
「犯人が犯行前に再生したのでしょうか」
「ええ、何か意味があるはずなんですがね」
「で、動画の方は」
「真っ暗です。ポケットにスマホを入れたままの録画らしい」
矢田輪は額に冷や汗をかいた。彼も服のポケットに手を入れたままで、手には密かにICレコーダーが握られていた。矢田輪は、真希子の最後の録音をレコーダーに録音していた。
3
矢田輪は自宅マンションに帰ると、電灯を付けた。明るくなったリビングは、人の気配がない。生活の気配がないのだ。洋間6畳の真希子の部屋は女子大生らしい調度があるが、主の矢田輪は音楽と酒に唯溺れていた。仕事は生活の手段ながら、それすらその惑溺のなかで辛うじて成立するものでしかなかった。妻の晶子が亡くなってから、彼の暗闇の生活は始まった。
矢田輪は沈黙したまま、ICレコーダーをパソコンに接続した。手早く取り込んだ音声データをUSBに落とした。そうしてUSBを、ミニコンポの挿入端子に差し入れた。
ミニコンポは、童謡里の秋を再生し始めた。矢田輪はコンポの音質を幾度か変換した。求める音声は童謡の裡に、確かにあった。
三度目の再生。矢田輪は神経を尖らせて、童謡に集中した。彼は頷いた。
彼はスマホを手に取った。
「ああ、糸水君。もう寝ていたかな、済まないね」
「ああ、矢田輪さん、ご愁傷様です」
「事件はニュースで報じられているんですね」
「ええ、先程テレビで観ました」
「全国ニュース?」
「ええ、そうです」
「マスコミの餌食になりたくない」
「真希子さんの、大学名まで報じてましたよ」
「それじゃ、時間の問題ですね。このマンションにも報道陣が来るだろうな……真希子は死ぬ前に、現場をスマホで録音していた。これは公には伏せられているかな」
「はい、それは知らない。警察が伏せているのでしょう」
「そうか、でだね、糸水君。その録音に歌が入っている」
「歌と仰有ると」
「童謡だ、里の秋」
「里の秋ですって」
「そうだ、私は警察に隠れて、その歌をICレコーダーに録音した」
「それは思い切ったことを、なさいましたね」
「ああ、で、その歌の中に、何か声が入っているんだ」
「声、どんな声でしょう」
「聴き取れない位、微かに入っている。赤子の鳴き声のような声が」
「赤ん坊の鳴き声?」
「確かかどうか分からない。ギャーギャーという声は或いは鳥の鳴き声かもしれない」
「成る程、それで矢田輪さん、僕にお手伝い出来ることがあるんですか」
「ああ、糸水君、君は前に何処か、音楽スタジオの話をしてくれたことがあったね」
「スタジオというと、マルチスタジオ桜のことでしょうか」
「ああ、それだよ、私は忘れていた。マルチスタジオ桜で、この鳴き声を分離して貰いたいんだ」
「成る程、そういうことですか」
「スタジオの場所を教えてくれないか」
「スマホで検索すれば大丈夫です。電話番号もマップも出ます」
「それはそうだ、思い至らなかった。有難う、夜分に済まなかった」
「それは構いません。矢田輪さんは暫くはジャズバーのお仕事はお休みですよね」
「ああ、葬儀などで忙しいだろうね」
「またお会いしましょう。事件をお一人で追求してらっしゃるんですか」
「そうなるかな」
「僕も、修子も手伝いますよ」
「そうか、有難う」
糸水は電話を切ると、ベッドに腰を下ろした。
ベッド上には、小早川修子がうつぶせに横たわっていた。二人は愛情が高じた余り、別れ話になりかかっていた。様々困難な恋愛関係なのだった。
「矢田輪さんとの話、終わった?」
「ああ、あの人も大変だ。独り娘を異常者に殺されて」
「異常者、そんな言い方しないで。私も異常者なのよ」
「そんな風に考えるなよ。唯の心の病だろう」
「いいえ、私は妄想が現れると何もかも分からなくなる。貴方のこともよ」
「そんなことはない」
「あるわよ、意識混濁したらお終いだわ」
「オープンダイアローグを知っているだろう。周囲と障壁なしに十全対話すれば、心の病なんか消えてしまうんだ。病自体が妄想なんだよ」
「いいえ、それは外国の話よ。日本ではこの病は酷く根深い。周囲は障壁だらけ」
「この国もそれを自覚している。だから法整備を進めているんだ」
「生ぬるい偽善の法律よ、所詮」
「違うな。この国も本気だ。四月から合理的配慮が義務化された」
「だからそれも偽善なの」
「違う、差別解消法の上に権利条約批准がある。合理的配慮は条約の中の言葉だ。これからも条約が日本の法律の中に具現化していく。今後に期待出来る」
「そんなこと言っても、今では未だ条約文と措置主義の法律は矛盾してるんでしょう」
「それはそうだけど」
「矛盾は解消しえないわ。国固有の構造は簡単には変えられない」
「いや、いつか日本にもADA法のようなものが出来る」
「それこそ、救い難い妄想……」
「妄想じゃない。希望だ」
「日本固有の思想がそんな風には出来ていないわ」
「またその話か」
「汚濁に対しては、祓えが基本よ。排除がこの国の思想なの。思想は変えられない」
「そんなこと、僕達には無関係だ、君と僕が幸せになれればそれでいいんだ」
「なれないわ、到底」
「そんな言い方しないでくれ。君の所為ばかりじゃない。僕の仕事が安定しないこともある」
「貴方の仕事は安定してるわ」
「そんなことはない。僕は経理部長に嫌われている」
「その位当たり前。労働者は皆、疎外される」
「それを言ったら、お終いだ。僕は特別駄目社員なんだよ」
「もう嫌、何か楽しい話しましょう。何かない?」
「そうだな。そう言えば、矢田輪さんの娘、真希子さんの大学でロックコンサートがある」
「学生の演奏?余り期待出来ないわね」
「色んなタイプのコピーバンドが出るらしい。気晴らしに良いんじゃないかな」
「ジャンゴモンゴメリーに行った方がましかも」
「矢田輪さん、休みだ。それより派手なロックの方が、たまには良いと思う。ああ、何処かにプログラムがある」
「ベッドサイドにあるわ、取って」
「これだね。ディープパープル、アリスインチェインズ、イングウェイマルムスティーン」
「思うんだけど、素人のコピーって何十年も変化なしね」
「アリスは新しいだろう。まだしも。クラシックロックの演奏は奥が深いだろう」
「そうね、気晴らしにはいいかも。行くわ」
「有難う、コンサート後の喫茶店で、プロポーズするかもしれない」
「病も克服出来ない、この私に?」
「そうだよ、妄想を抱えて、それを上手くコントロールしながら、二人の幸せを掴む」
「リカバリーなんて無理よ」
「違う。だから言っているだろう。病自体を肯定するんだ。すると道が開ける。社会モデルだ。全ては環境の所為」
「ロックコンサート行くわ」
「何だ、聞いてないのか」
「ノーマルな恋愛関係は私には無理」
「スティグマに拘り過ぎるんだよ。反スティグマ運動をしなくちゃ」
「どんな概念も役に立たない。私は明日病棟に入るかもしれない」
「問題ないさ。何時までも退院を待つから」
「結婚は出来ないわ。子供も病気かもしれない」
「優勢保護法なんて、過去の悪夢。僕達は多様性に生きるマイノリティーでいい」
「嗚呼、愛しているわ」
「僕もだよ」
二人はベッド上で、抱擁した。
4
翌日の夕刻、糸水と小早川修子は矢田輪のマンションを訪れた。三人は、ジャズバーで会うだけでなく、プライベートでも行き来する間柄だった。娘を亡くしたばかりの矢田輪は酷く沈鬱だ。
「真希子さんは」糸水は言った。「まだ司法解剖から帰らないんですか」
「未だだな」矢田輪は答えた。「もう暫くはかかる」
「そうですか、で、マルチスタジオ桜にはいらっしゃったんですね」
「今日の昼に行ってきた。目的は果たして来たよ」
「目的と仰有るとその童謡ですね」
「ああ、犯行現場で掛かった音楽だ」
矢田輪の声は震えていた。
「これなんだがね」
矢田輪はICレコーダーのボタンを押した。
場違いに甘い、夢のような童謡が流れた。里の秋だった。
「この元の録音では、余りにも微かで、気付かないと思う。此方にCDに焼いて貰ったものがある」
矢田輪はミニコンポにCDを掛けた。
今少し音質の良い里の秋が流れた。
「ああ、この部分に」糸水は言った。「針のノイズが入っていますね。大元はレコードから録音されたものですね」
「そうだ、それも重要だが、此処、此処を聴いて欲しい……」
「何も聞こえませんわ」修子は言った。
「うん、非常に聴き取り辛い。もう一度再生するよ」
里の秋が反復された。
「この箇所なんだ」
一同は耳を傾けた。
「分かったかな」
「分かりましたよ」糸水は言った。「何かごく小さな騒音が入っていますね」
「そうだ、分からない程だが、ギャーギャーという赤子の声のようなものが収録されている」
「成る程」
「マルチスタジオ桜で、この声を分離して、増幅して貰った」
矢田輪は別のCDを掛けた。
「……ギャーギャー、グルグル……」
「もう一度再生するよ」
「……ギャーギャー、グルグル……」
一同は息を呑んだ。
「何でしょう」修子は言った。「赤ん坊の声とも違いますわね」
「獣の声のようですが、何かの」糸水は言った。
「私もそう思う。一体何だろうか」
矢田輪は首を傾げた。
「何かの鳥じゃないでしょうか」修子は意見を述べた。
矢田輪は頷いた。
「先ず、鳥ではないかと推測出来る」
「何の鳥でしょうか」糸水は疑問を述べた。
「分からないが、何かの野鳥だろうね」
「野鳥というと……」糸水はスマホで検索を掛けた。「……鹿児島大学、農学部獣医学、鳥類研究、で検索すると、こういう教授が出てきました」
糸水はスマホを二人に見せた。
「鳥類研究、星子太郎博士か」矢田輪は言った。
「どうでしょう、矢田輪さん、この教授にこの録音を聴いて貰ったら」
「それは良いかもしれないな。此処は専門家の力を借りるか」
「それがいいですわ、矢田輪さん」
「うん、ちょっと鹿児島大学に電話してみよう」
「番号をご存知ですか」
「経済学部に知り合いの教授がいる。農学部の内線を尋ねてみよう」
矢田輪は自分のスマホをタップした。
「……嗚呼、広田教授、御無沙汰しております、矢田輪です。実はちょっとお尋ねしたいのですが、はい、ええ、農学部の内線を知りたいんです」矢田輪はメモを取った。「ああ、分かりました、有難うございました」
続けて矢田輪は内線番号に掛けた。
「済みません、矢田輪という者です。経済学部の広田教授の紹介で、星子教授に少し、お尋ねしたいことがあるのですが……はい、ええ、お願いいたします」
数分間要した。
「星子教授ですか。矢田輪という者です。広田教授の友人です。実は、先生にお尋ねしたいことがあるのですが。はい、ええ、実は、野鳥の声らしい録音を聴いて頂いて、何の鳥か教えて頂きたいのです。はい、よろしくお願い致します。はい、明日10時に。では明日お会い致します」
5
日曜日、南西大学キャンパス、午前8時半。
近藤陽子は女子サッカー部の部員だ。今朝は大学に忘れ物を取りに来たのだった。至って健康そのもので、フォワードのリーダー格の陽子は、誰からも慕われていた。殊に目立つ脚の筋肉は、彼女のハードトレーニングを物語っている。会う者全てが羨望する程、陽子の身体能力は高い。
講義室に忘れていた小型の六法全書は、宿題のレポート作成にどうしても必要なものだった。鞄に六法を入れると、陽子は裏門の方向に急いだ。サッカー部の部員達は、今日の午後からの練習の予定を急遽変更していて、間もなく学校に着く筈だが、陽子はその練習には不参加を申し入れていた。宿題が間に合わないのだった。
季節は春本番、桜の開花で衆目が沸き立つ頃、丁度彼氏に振られて、陽子は孤独の渦中にいた。恋愛関係とは難しいものだと、彼女は思う。此方の愛情や善意が常に相手に伝わるものではない。大抵の場合、悪い憶測が先走り、愛情が見えないことが多過ぎる。彼と別れる必要など本来なかった。
一陣の春風が陽子のスカートを巻き上げる。彼女はスカートを押さえた。
その時、彼女の耳に何かの音楽が聞こえてきた。何かしら甘美な、懐かしい音楽、童謡里の秋だった。
陽子は不審に思い、立ち止まった。何だろうか、何処から聞こえてくる音楽なのか。
次の瞬間、陽子は背中に焼き火箸を突き込まれるような激痛を覚えた。
刃渡りの長いキッチンナイフが彼女の背中に突き立てられたのだった。彼女は甲高い悲鳴を上げた。ナイフがゆっくりと引き抜かれた。再び背に突き込まれた。彼女は倒れ臥した。
上部から幾度となくナイフが振り下ろされる。
陽子の筋肉質の躰は鮮血に紅く染まった。
その折り、大学の裏門に20人程の集団が現れた。女子サッカー部の部員だった。
南西大学キャンパス、午前8時10分。
糸水と恋人の修子は一つの講義室に来ていた。
「何だよ、こんなに朝早く。コンサートは午後からの予定だ」
「私達も矢田輪さんの手伝いをしましょうよ」
「手伝いというと、探偵の真似事かい?」
「ええ、私は真希子さんと親しかった。大学にも来たことがあるのよ。彼女の講義室も、いつも座っていた机も知っている」
「その机が、これなのか」
「そう、ちょっと中を調べてみましょうよ」
「既に警察が捜査済みだ、何もないよ、きっと」
「いいえ、何かあるわよ」
修子はデスクの中から、古新聞を取り出した。
「古新聞の束だわ」
「そうだね、一体どんな記事?」
「驚いたわね」
「何なんだい」
「ほら、一昨年鹿児島で、連続猟奇殺人があったでしょう、その記事よ」
「その事件なら、疾っくに解決している」
「ほら、此方も去年の殺人事件の記事だわ」
「これも解決している」
「何故かしら。殺人事件の被害者になった真希子さんが、事前に猟奇殺人の新聞記事を集めていたなんて」
「何故だろうね、本当に」
「何か、予感か予兆のようなものがあったのかしら」
「あったかもしれないな」
二人は講義室を出た。隣の体育館へと向かった。ロックコンサートは其処で行われるのだが、未だ開始時刻に時間が大分あるため、周囲に人影はない。
体育館の舞台上には、既にマーシャルアンプの類が設置されていた。二人は舞台袖のpa機器の前迄来た。
「本格的なアンプ類だな」
「音は良さそうね」
「此処にCDプレーヤーがある」
「ちょっと何か掛けてみましょうか」
「そうだな」
「其処にあるCDで、良いんじゃない?」
「そうしよう」
CDをプレーヤーに挿入した。
大型アンプが唸り始めた。
掛かった曲は、イングウェイマルムスティーンのネヴァーダイだった。二人はテクニカルな演奏に暫しうっとりした。
「やっぱりイングウェイは素晴らしいわ」
「そうだね」
二人は、体育館を後にした。
二人は、コンサート開始迄の長い時間を潰すつもりで、大学前の喫茶店を訪れた。
コーヒーを注文した。
「コンサート迄、何杯コーヒーを呑むのかしら」
「何杯でもいいさ。ランチも此処で摂ろう」
「そうね、何がある?」
「北欧ランチだそうだ」
「高そうね」
「たまにはいいさ」
「で、矢田輪さん、どう思います?」
「探偵熱心だね」
「自分の娘を殺されたのだから、当然だわね」
「しかし、あの人には悪いが、無駄だと思うよ」
「どうして」
「素人がどう動いても、常にプロの警察が先回りしていると思う」
「じゃ、警察も鳥の声を捜査済み?」
「ああ、警察も音声分析位遣っているさ」
「そうね」
その刹那、けたたましいパトカーのサイレンが、大学前に近付いてきた。パトカーは一台、二台ではなかった。凄まじい騒音。
「どうしたのかしら」
「何だろう、大学で何かあったらしいが」
「また殺人事件?」
「まさかとは思うが」
カウンターの奥で、喫茶店の主人らしい人物がスマホで会話していた。
「……何ですって、そうなんですか。分かりました、それは大変だ……」
マスターは、スマホの会話を終えると、糸水達に近寄ってきた。
「お客様方は、コンサートにいらっしゃるお積もりでは?」
「ええ、コンサートに行きます」糸水は答えた。
「コンサートは中止になりました」
「ええっ、何故?」
「大学内で、殺人事件がありました」
「本当ですか」
「ええ、間違いありません」
「それはまた。楽しみにしていたのに」
「今から、軽音楽部の佐川君が店に来ますが」
「ああ、佐川さん」修子は言った。「知り合いですわ」
「そうなんですか。佐川君に事情を聞いてみられたら」
「そうしますわ」
10分程度後に、ロックコンサート主催者側の学生、佐川が喫茶店に来た。
佐川はミュージシャンらしい長髪の青年だ。
「マスター、大変なことになっているよ」
「一体誰が殺されたんだ」
「女子サッカー部の近藤陽子さん」
「知っている、筋肉質の女性だろう」
「そう、彼女」
「佐川さん」修子は呼びかけた。
「誰、嗚呼、小早川さん」
「佐川さん、私達、先刻迄体育館に居たのよ」
「こんな朝早く、体育館で何をしていたの?」
「CDを聴いていたわ」
「CDだって。アンプの所にあったCDかい?」
「ええ」
「それは、練習用CDだった?」
「違うわ、イングウェイマルムスティーンよ」
「そうなんだ」佐川は頭を掻いた。「真希子のお父さんが、昨日練習用CDを持って来てくれる筈だったんだけど」
6
矢田輪は、とある古ビルのエレベーターを三階迄上がった。テナント料金の安い事務所ばかりが、そのビルを埋めていた。彼は、本当に営業しているか否か疑問の、極めて簡易な事務所の前迄来た。
看板に、NPO法人奄美野鳥保護会、と記されている事務所のドアをノックした。
「はい、どちら様でしょう」
「鹿児島大学農学部、星子教授の紹介で、来ました」
「そうですか、どうぞ、お入りください」
「失礼致します」
矢田輪はドアを開いた。
殺風景な事務所内、閑古鳥が鳴いていそうだった。
「どうぞ、其処にお掛けください」
「有難うございます」
「で、どちら様ですか」
「矢田輪と言います。しがないミュージシャンを致しております」
「ミュージシャン?」
「ジャズのギタリストです」
「ギタリストが、奄美の野鳥に興味をお持ちですか」
「ええ、用件は前もって電話でお伝えしてありますが」
「済みません。何分小さなNPOで、手違いがありまして、電話メモを紛失しております」
矢田輪は当惑した。
「そうですか、では少し、この声を聴いてみてください」
矢田輪はICレコーダーを取り出し、ボタンを押した。
「……ギャーギャー、グルグル……」
「もう一度お聴きください」
「……ギャーギャー、グルグル……」
「星子教授は、この鳴き声は、奄美の野鳥ルリカケスのものと断定なさいました」
「ええ」
「何か、ルリカケスについて、情報をお持ちではありませんか」
「ええ」
相手の冷淡な返答に、矢田輪は当惑を重ねた。
「ご返事の淡泊なのは何か理由でもあるんですか」
「ええ、実は申し上げて良いかどうか分からないものですから」
「と仰有ると」
「実は昨日、警察が来て、これと同じ録音を聴かせて、同じ質問をなさいました」
「ええっ、警察がですか」
「渋谷という警部補の方です」
「ああ、あの警部補が」
「そうです」
「で、どんな情報をお話なさいました?」
「それをお話して良いかどうか」
「私は殺人事件の被害者の父親です」
「それならば、構わないかもしれないですね」
「そうです」
「実は、或る頭のおかしな人が、私共からルリカケスを奪ったんです」
「奪った?」
「ええ、県鳥だから飼いたいと言って」
「誰ですか、それは」
「小渕静馬という人ですが」
「小渕静馬、で、その人の現住所は?」
7
高級腕時計の秒針がアップ映像で映しだされた。続けて横文字の時計のブランドが映る。
薄型テレビの中で、コマーシャルが終わり、夕方の報道番組が始まった。
アナウンサーは正面を向いて会釈した。
「皆様こんばんは、報道速報のお時間です。今日は先ず、三面記事から、鹿児島市で起きた連続猟奇殺人事件の特集です」
画面が鹿児島市の南西大学キャンパスからの中継に変わった。
レポーターは体育館の前を歩きながら、報じた。
「田舎街、鹿児島にて連続猟奇殺人が発生しました。今日は事件の核心に迫りたいと思います。事件は、先ず、矢田輪真希子さん殺害から始まりました。真希子さんは、殺される直前に、現場をスマホで録音していました。その録音に、童謡里の秋が収録されていました。犯人が犯行直前にスマホにて再生したものでした。一体何故犯人は殺人の前に、童謡などを再生したのでしょうか」
「レポーター、田中さん、もう何故かは分かっているんですよね」
「はい、既に警察が全て解明しました」
「成る程、その解明の前に、犯人逮捕の経緯をお伝え願えませんか」
「はい、その録音に、ごく微かに鳥の鳴き声が入っていたんですね。警察はその声を特殊な装置で分離増幅しました。すると、それが鳥類専門家の指摘で、ルリカケスの声と分かりました。希少な奄美の野鳥で、其処から、犯人の身元が割れることが期待された訳です」
「ルリカケスですか、聞いたことない鳥ですね」
「そういった経緯で、希少なルリカケスを自宅で飼っていた、小渕静馬容疑者に、警察は辿り着いたのでした」
「小渕静馬というのは、精神科の患者ですよね」
「はい、重度の精神疾患です。暴力癖も有しています」
「結局、この事件の殺害動機は、何なのでしょう」
「はい、小渕には独り娘がありまして、あかね、といいます。あかね、は重度の身体障害者でして、車椅子を常時使用しています」
「つまり、病人親子の、健康に対する一種の救い難い僻みが、今回の事件の動機になります」
画面が端麗な容姿の、車椅子の少女の写真を映した。
「美しい少女ですね。12歳くらいですか」
「あかねは今年で丁度12です」
「母親は既に他界しているんですね」
「ええ、父娘二人の生活保護世帯でした」
「そして、第二の事件ですが」
「はい、第二の殺人、近藤陽子さんの事件はこのわたくしの居ります大学キャンパスで、起きました。陽子さんは女子サッカー部に所属していて、見るからに筋肉質の健康体でした。因みに真希子さんはテニスプレーヤーで此方もかなりの健康体でした。で、陽子さんは丁度この裏門と体育館の中程にて殺害されました。キッチンナイフで酷く刺殺された直後、裏門から女子サッカー部の部員達が、予定を変更して、急に朝練に訪れたのです」
「裏門からですか、容疑者は逃げ場がありませんね」
「ええ、ですから小渕容疑者は、急遽此方の体育館に逃走し、一時身を隠しました」
「体育館のどの辺りでしょう」
「これから私が向かいます。舞台袖の控え室です」
レポーターは速歩で、舞台袖に移動した。
「……此処です。此処の床に血痕があります」
「容疑者は一時身を隠してから、隙を見て、裏門から逃走したのですね」
「はい、その通りです、小渕容疑者の自宅から、凶器のナイフが見つかっています」
「成る程、有難うございます。続けて、コメンテーターの意見を伺いましょう、どうぞ、若山さん」
画面は、金縁眼鏡のインテリらしい中年のコメンテーターを映した。
「父親の、病身の娘に対する歪んだ愛が動機でしょう。童謡は、あかねが好んで聴いている歌らしい。この童謡は、病者の抱く健康へのドス黒い僻みが、凝縮されている。父親の娘に対する愛と共に怨念がこもっているのでしょう。里の秋そのものには父親賛美しかないが、この父娘にとってはドス黒い怨念以外のなにものでもない」
「障害者差別解消法が改正されたばかりですが、一体どう考えたら良いでしょう。こんな事件が後を絶たないということは」
「結局社会システムの包摂か排除かの二者択一でしょう。趨勢は包摂に向かっているが、果たしてそれが正しいのか。しばしば悪者扱いされる排除が幾らかは必須ではないのかということです。結局のところ、措置入院の厳格化は必要なのです。このような陰惨な事件を未然に防ぐためにも」
糸水は会社を5時上がりしていた。修子も同席して、矢田輪宅にて細やかな事件解決のお祝いをしていた。三人はテレビの報道番組を観て、事件を反芻整理した。
「矢田輪さん、僕も修子も、警察の取り調べをうけたんです」
「それは大変だったね」
「いえいえ」
三人はビールで乾杯した。
「矢田輪さん、アルディメオラのCDはありませんか」糸水は言った。
「さあ、何処かにある筈だが」
「どこら辺ですかね」
「さあ」
「押し入れを探して良いですか」
「嗚呼、待ちたまえ」
糸水は委細構わず、押し入れの扉を開けた。
「糸水君、辞めて、辞めてくれたまえ」
矢田輪は制止した。
「嗚呼、やっぱり。何だろう、これは」
押し入れの中には、山積みの雑誌があった。可愛い幼女の表紙写真。
「矢張り、矢田輪さん、これはアリスクラブですね。悪名高いロリコンヌード写真集だ」
「……」
「矢田輪さん、これでデータは揃った」
「何だって」
「最初からして余りに不自然だったのです。最愛の娘の遺体を前に、冷静にICレコーダーを操作している。そんなことが一体可能でしょうか。しどろもどろになり、そんな余裕を持てないのが自然の筈。そして、貴方は真希子さんに、最近の鹿児島の殺人事件の新聞記事を渡しましたね。恐らく、危険に遭遇したら、スマホで録音するように、予め教唆していたのでしょう。そして、周囲にバレないよう、素人探偵の真似事をした。警察はルリカケスの声から、小渕さんを犯人と割り出すと分かっていた。それに多分合い鍵を使って、凶器のキッチンナイフを小渕宅に捨てた」
「どうしてそんなことが言えるんだ」
「体育館に僕と修子が行った時、犯人は舞台袖に潜伏していた。僕達はCDを掛けた。それは前日貴方が持ってきた。ギター練習用のマイナスワンテープだった。詰まりギター抜きの、他の楽器演奏のテープです。しかし僕達は確かにイングウェイのギタープレイを聴いた。舞台袖で貴方はCDに合わせてギターを弾いたのですね。練習用CDを前日に持ってきたことを知られたくなかった。また学生ではイングウェイマルムスティーンの速弾きの完コピーは無理。貴方のギターテクニックがなければそれは不可能です」
「動機は何です?実の娘まで殺したのですか」修子は尋ねた。
「貴方は、あかねという少女を愛していたらしい。貴方は幼女愛好症だ」
矢田輪は暫く、口がきけなかった。が、漸く言い放った。
「その通りだ。私は、あかねを深く愛していた。健康な女全てを憎悪している。自分の娘であっても」
「小渕宅付近で、貴方の目撃情報は多々得られるでしょう。貴方の逮捕は確実だ。お願いします。自首して頂けませんか……」
矢田輪真希子は大学のテニスコートにて十全汗をかいてから、帰宅する途中だった。最前の自分のテニスプレーを様々反芻していた。サーブが未だ甘い。あれではどのようにも打ち返されてしまう。昨年は大会惜しくも準優勝に終わった。サーブからして主導権を取れない所為だと思った。
真希子は自分のテニスを夢想しながら、暗い闇に包まれた街路を歩いていた。常夜灯はどうしたのだろうか。蛍光灯が切れでもしたのだろうか。
3月末、南国も未だ風は冷気を含んでいる。桜の便りは今少しという開花予報だった。4月初めにはサークルで、花見の予定がある。
帰宅しても家には誰も居ない。母は数年前に肝癌で亡くなり、真希子は独り娘、親しい父は夜の仕事なのだった。寂しさに溢れつつ、家路を急いでいた。今夜どうしようか。俗悪なテレビ番組に関心はない。ネットのプログラムにも最近飽きてきた。幼い頃はテレビ放映される外国映画、殊にフランス映画が好きだった。時が経ち、番組改編が進み、映画放映は現在では皆無に近くなった。何故なのだろう。テレビは芸術を拒絶し始めた。それならば、まだしも日本映画だけを放送してくれたら良いのに。貧乏学生の身では、2000円近い映画館に足を運ぶことは、頻繁には無理だった。
不思議なこともあるもので、先程から歩を進めても、街灯の故障は未だ続いていた。漆黒の闇が彼女を押し包んでいるのだった。夜風の冷気も増してきたようだ。真希子は自然速歩になった。早く自宅マンションに帰り、シャワーを浴びたかった。夜は何故か不安を煽る。治安は決して悪くない田舎町としても、夜の不安は妥当だった。
自然男性のことを想起した。父は余り頼もしくない。当然彼氏のことを思い浮かべた。そうだ、スマホで彼氏に電話しようか。ながらスマホで夜道を歩けば、不安も幾らかは軽減される。幾度も試みたことだった。何故なのだろう、今夜はスマホを手に取る気がしない。それより、一刻も早く帰宅したかった。
最近何となく体調不良だった。食欲不振で、暫く不眠も続いた。季節の変わり目の所為かもしれないが、今現在歩いていることすら、疲労感故に不快で、嘔吐を催した。誰か医師を受診すべきかとも考えていた。或いはこの不調は精神的なものかとも思われた。テニスにも今一つ熱中出来ない自分が居た。
風が強くなってきて、衣服の裾を巻き上げた。空は闇に包まれているが、高い空には雨雲の層があるのかもしれない。
交差点の角を曲がった折り、その刹那、何かの音楽が耳の底に響いた。彼女は立ち止まった。
何かの歌が路上で流れていた。真希子は反射的にポケットの中のスマホを取り、躊躇わず録音ボタンを押した。何かしら、自分にとって重要な歌であるかのような、直感が働いた。危険を察知したのだ。
歌は童謡、有名な里の秋だった。空虚な路上で、この童謡を聴くのは甚だ異様に思われた。
次の瞬間、矢庭に彼女は背後に人の気配を覚えた。直ぐさま振り向こうとしたが、叶わなかった。
彼女の後方から、革手袋の手が伸びてきて、彼女の口を塞いだ。呼吸が出来なかった。続いて、後ろから、刃渡りの長いナイフが突き込まれ、彼女の腹部を冷酷に刺した。彼女は悲鳴を上げた。
夜闇に煌めくナイフの刃が引き抜かれた。更に一突き、腹部をえぐられた。彼女の絶叫。ナイフは留まることを知らず、胸に向かって切り上げられた。彼女はアスファルトの路面に倒れ臥した。
その上部から執拗にナイフは振り下ろされた。鮮血が路上に迸った。
2
ドラムが激しくシンバルを叩いた。其処にテナーサックスが即興を加えた。フレットレスベースは重低音を刻んでいる。ギターはどちらかと言えば的外れにライトハンドのタッピングを叩く。オリジナル曲ながら、今夜は明らかに低空飛行だった。もっと良い演奏ができる筈だがと、ギタリストの矢田輪栄二は訝った。
乗りも即興もメンバー間でかみ合わなかった。曲は終盤に入ってきている。仕方がなかった。矢田輪はドラムに指示を出した。彼はバンドマスターだ。長いドラムソロで終わりにするしかなかった。バンドメンバーはドラマー以外、舞台から離れた。
ジャズバー、ジャンゴモンゴメリーで、演奏は二時間を超えて続いた。矢田輪は其の儘客席に入った。拍手は矢張り疎らだった。舞台も客席も全くフラットな極く小さなバーだ。矢田輪は喉が渇いているので、常連客と一緒にハイボールを飲み干した。
「矢田輪さん、お疲れさま」
常連の糸水良介が労をねぎらった。
「有難う、今夜は最悪だけどね」
「いいえ、良かったですわ」
糸水のガールフレンド、小早川修子はお世辞を言った。
「いや、良くないよ」
狭い店の入り口から、その折り物々しく制服警官が数人入ってきた。
「あれ、何事かな」
糸水は首を傾げた。
「何だろう」
矢田輪も其方を見た。
警官達は、ボーイに何事か尋ねていた。次の瞬間、驚いたことに、矢田輪達のテーブルにドカドカとやって来た。
「矢田輪栄二というのは貴方ですか」
「お巡りさん、私達の演奏に何かありましたか」
「演奏に問題はないです。しかし貴方に署に御同行願いたいのですが」
「それはまた何故」
「矢田輪真希子さんは、貴方の娘さんですね」
「そうですが、娘が何か」
「真希子さんは、今夜亡くなられました」
「何ですって」
矢田輪はグラスを取り落とした。
「どうして、交通事故ですか」
「いいえ、誠にお気の毒ながら、何者かに殺害されたのです」
「えっ、まさか……」
「事実なんです、矢田輪さん」
「信じられません。あの子は他人の恨みを買うようなことはない筈ですが」
「その辺りの事情を、署にてお聞かせ願いたいのですが」
「分かりました」
事情聴取とはいいながら、何か連行される物々しさで、矢田輪は警官達と共に店を出た。通りにパトカーが停車しており、それに乗り込んだ。矢田輪は後部シートで瞑目した。
「大学のゼミ担任、山川教授に遺体の確認はして頂きましたが、お父さんも確認をお願い致します」
「何故、山川教授が先に」
「遺体の身元は所持品の学生証で知れたのです。教授の方が大学に問い合わせて、先に呼ばれました。教授から矢田輪さんのことをお聞きしたのです」
その警官は口振りは親切だった。
「そうだったんですね」
パトカーはけたたましいサイレンを鳴らして、夜道を快走した。矢田輪は未だ心構え出来ていなかった。
「本当に、間違いだったら良いんですけど」
パトカーは制限速度ぎりぎりで疾駆した。
先ずは遺体の確認から、と言われ、安置所に向かった。
「まだ解剖に付しておりません。躰は36箇所の刺し傷があり、未だ縫合もしていないんですが」
「36箇所……」
「ええ、お気の毒です。傷はシーツで隠れておりまして、意外にお顔立ちは綺麗なものです」
案内してくれたのは、渋谷という五十格好の警部補だった。他に木村という三十代の刑事が同行した。
渋谷警部補は、遺体の顔布を取り払った。
「如何です、矢田輪さん」
「娘に間違いありません」
矢田輪は声を詰まらせた。
「信じられません、朝はあんなに元気だったのに」
「心中お察し致します」
「しかし、そんな酷く刺されるような、憎悪を他人から抱かれていたとは信じられません。真希子は温厚な性格で」
「異常者の犯行でしょう」
「異常者ですか」
「ええ、で、矢田輪さん」
「何でしょう」
渋谷は紅いスマホを取り出した。
「これは真希子さんのものですね」
「そのようですが」
「実は、真希子さんは危険を察知したのでしょう。犯行現場をスマホで録音しておられました」
「何ですって」
「甚だ、お聞き苦しいとはお察し致しますが、聞いてみてください」
「ええ、構いません」
渋谷警部補はスマホをタップした。
いきなり、何かの音楽が流れた。童謡、里の秋。その歌が暫く流れ、続いて人がいがみ合う音が再生された。真希子の悲鳴が半分聞こえたところで、渋谷はスマホを止めた。
「如何でしょう。衝撃的過ぎるとは思いますが、この歌について、お尋ねしたいのです」
「驚きました。里の秋ですか」
「ええ、この歌に心当たりはありませんか」
「いいえ、何も」
「家で聴いてらしたとか」
「いいえ、自宅では私の仕事上、ジャズばかり掛かってます」
「真希子さんが子供の頃、聴いてらしたとかはありませんか」
「いいえ、それも記憶にありません」
「そうですか、この歌は犯人にとって何らかの意味を持つ歌らしいのですが」
「犯人が犯行前に再生したのでしょうか」
「ええ、何か意味があるはずなんですがね」
「で、動画の方は」
「真っ暗です。ポケットにスマホを入れたままの録画らしい」
矢田輪は額に冷や汗をかいた。彼も服のポケットに手を入れたままで、手には密かにICレコーダーが握られていた。矢田輪は、真希子の最後の録音をレコーダーに録音していた。
3
矢田輪は自宅マンションに帰ると、電灯を付けた。明るくなったリビングは、人の気配がない。生活の気配がないのだ。洋間6畳の真希子の部屋は女子大生らしい調度があるが、主の矢田輪は音楽と酒に唯溺れていた。仕事は生活の手段ながら、それすらその惑溺のなかで辛うじて成立するものでしかなかった。妻の晶子が亡くなってから、彼の暗闇の生活は始まった。
矢田輪は沈黙したまま、ICレコーダーをパソコンに接続した。手早く取り込んだ音声データをUSBに落とした。そうしてUSBを、ミニコンポの挿入端子に差し入れた。
ミニコンポは、童謡里の秋を再生し始めた。矢田輪はコンポの音質を幾度か変換した。求める音声は童謡の裡に、確かにあった。
三度目の再生。矢田輪は神経を尖らせて、童謡に集中した。彼は頷いた。
彼はスマホを手に取った。
「ああ、糸水君。もう寝ていたかな、済まないね」
「ああ、矢田輪さん、ご愁傷様です」
「事件はニュースで報じられているんですね」
「ええ、先程テレビで観ました」
「全国ニュース?」
「ええ、そうです」
「マスコミの餌食になりたくない」
「真希子さんの、大学名まで報じてましたよ」
「それじゃ、時間の問題ですね。このマンションにも報道陣が来るだろうな……真希子は死ぬ前に、現場をスマホで録音していた。これは公には伏せられているかな」
「はい、それは知らない。警察が伏せているのでしょう」
「そうか、でだね、糸水君。その録音に歌が入っている」
「歌と仰有ると」
「童謡だ、里の秋」
「里の秋ですって」
「そうだ、私は警察に隠れて、その歌をICレコーダーに録音した」
「それは思い切ったことを、なさいましたね」
「ああ、で、その歌の中に、何か声が入っているんだ」
「声、どんな声でしょう」
「聴き取れない位、微かに入っている。赤子の鳴き声のような声が」
「赤ん坊の鳴き声?」
「確かかどうか分からない。ギャーギャーという声は或いは鳥の鳴き声かもしれない」
「成る程、それで矢田輪さん、僕にお手伝い出来ることがあるんですか」
「ああ、糸水君、君は前に何処か、音楽スタジオの話をしてくれたことがあったね」
「スタジオというと、マルチスタジオ桜のことでしょうか」
「ああ、それだよ、私は忘れていた。マルチスタジオ桜で、この鳴き声を分離して貰いたいんだ」
「成る程、そういうことですか」
「スタジオの場所を教えてくれないか」
「スマホで検索すれば大丈夫です。電話番号もマップも出ます」
「それはそうだ、思い至らなかった。有難う、夜分に済まなかった」
「それは構いません。矢田輪さんは暫くはジャズバーのお仕事はお休みですよね」
「ああ、葬儀などで忙しいだろうね」
「またお会いしましょう。事件をお一人で追求してらっしゃるんですか」
「そうなるかな」
「僕も、修子も手伝いますよ」
「そうか、有難う」
糸水は電話を切ると、ベッドに腰を下ろした。
ベッド上には、小早川修子がうつぶせに横たわっていた。二人は愛情が高じた余り、別れ話になりかかっていた。様々困難な恋愛関係なのだった。
「矢田輪さんとの話、終わった?」
「ああ、あの人も大変だ。独り娘を異常者に殺されて」
「異常者、そんな言い方しないで。私も異常者なのよ」
「そんな風に考えるなよ。唯の心の病だろう」
「いいえ、私は妄想が現れると何もかも分からなくなる。貴方のこともよ」
「そんなことはない」
「あるわよ、意識混濁したらお終いだわ」
「オープンダイアローグを知っているだろう。周囲と障壁なしに十全対話すれば、心の病なんか消えてしまうんだ。病自体が妄想なんだよ」
「いいえ、それは外国の話よ。日本ではこの病は酷く根深い。周囲は障壁だらけ」
「この国もそれを自覚している。だから法整備を進めているんだ」
「生ぬるい偽善の法律よ、所詮」
「違うな。この国も本気だ。四月から合理的配慮が義務化された」
「だからそれも偽善なの」
「違う、差別解消法の上に権利条約批准がある。合理的配慮は条約の中の言葉だ。これからも条約が日本の法律の中に具現化していく。今後に期待出来る」
「そんなこと言っても、今では未だ条約文と措置主義の法律は矛盾してるんでしょう」
「それはそうだけど」
「矛盾は解消しえないわ。国固有の構造は簡単には変えられない」
「いや、いつか日本にもADA法のようなものが出来る」
「それこそ、救い難い妄想……」
「妄想じゃない。希望だ」
「日本固有の思想がそんな風には出来ていないわ」
「またその話か」
「汚濁に対しては、祓えが基本よ。排除がこの国の思想なの。思想は変えられない」
「そんなこと、僕達には無関係だ、君と僕が幸せになれればそれでいいんだ」
「なれないわ、到底」
「そんな言い方しないでくれ。君の所為ばかりじゃない。僕の仕事が安定しないこともある」
「貴方の仕事は安定してるわ」
「そんなことはない。僕は経理部長に嫌われている」
「その位当たり前。労働者は皆、疎外される」
「それを言ったら、お終いだ。僕は特別駄目社員なんだよ」
「もう嫌、何か楽しい話しましょう。何かない?」
「そうだな。そう言えば、矢田輪さんの娘、真希子さんの大学でロックコンサートがある」
「学生の演奏?余り期待出来ないわね」
「色んなタイプのコピーバンドが出るらしい。気晴らしに良いんじゃないかな」
「ジャンゴモンゴメリーに行った方がましかも」
「矢田輪さん、休みだ。それより派手なロックの方が、たまには良いと思う。ああ、何処かにプログラムがある」
「ベッドサイドにあるわ、取って」
「これだね。ディープパープル、アリスインチェインズ、イングウェイマルムスティーン」
「思うんだけど、素人のコピーって何十年も変化なしね」
「アリスは新しいだろう。まだしも。クラシックロックの演奏は奥が深いだろう」
「そうね、気晴らしにはいいかも。行くわ」
「有難う、コンサート後の喫茶店で、プロポーズするかもしれない」
「病も克服出来ない、この私に?」
「そうだよ、妄想を抱えて、それを上手くコントロールしながら、二人の幸せを掴む」
「リカバリーなんて無理よ」
「違う。だから言っているだろう。病自体を肯定するんだ。すると道が開ける。社会モデルだ。全ては環境の所為」
「ロックコンサート行くわ」
「何だ、聞いてないのか」
「ノーマルな恋愛関係は私には無理」
「スティグマに拘り過ぎるんだよ。反スティグマ運動をしなくちゃ」
「どんな概念も役に立たない。私は明日病棟に入るかもしれない」
「問題ないさ。何時までも退院を待つから」
「結婚は出来ないわ。子供も病気かもしれない」
「優勢保護法なんて、過去の悪夢。僕達は多様性に生きるマイノリティーでいい」
「嗚呼、愛しているわ」
「僕もだよ」
二人はベッド上で、抱擁した。
4
翌日の夕刻、糸水と小早川修子は矢田輪のマンションを訪れた。三人は、ジャズバーで会うだけでなく、プライベートでも行き来する間柄だった。娘を亡くしたばかりの矢田輪は酷く沈鬱だ。
「真希子さんは」糸水は言った。「まだ司法解剖から帰らないんですか」
「未だだな」矢田輪は答えた。「もう暫くはかかる」
「そうですか、で、マルチスタジオ桜にはいらっしゃったんですね」
「今日の昼に行ってきた。目的は果たして来たよ」
「目的と仰有るとその童謡ですね」
「ああ、犯行現場で掛かった音楽だ」
矢田輪の声は震えていた。
「これなんだがね」
矢田輪はICレコーダーのボタンを押した。
場違いに甘い、夢のような童謡が流れた。里の秋だった。
「この元の録音では、余りにも微かで、気付かないと思う。此方にCDに焼いて貰ったものがある」
矢田輪はミニコンポにCDを掛けた。
今少し音質の良い里の秋が流れた。
「ああ、この部分に」糸水は言った。「針のノイズが入っていますね。大元はレコードから録音されたものですね」
「そうだ、それも重要だが、此処、此処を聴いて欲しい……」
「何も聞こえませんわ」修子は言った。
「うん、非常に聴き取り辛い。もう一度再生するよ」
里の秋が反復された。
「この箇所なんだ」
一同は耳を傾けた。
「分かったかな」
「分かりましたよ」糸水は言った。「何かごく小さな騒音が入っていますね」
「そうだ、分からない程だが、ギャーギャーという赤子の声のようなものが収録されている」
「成る程」
「マルチスタジオ桜で、この声を分離して、増幅して貰った」
矢田輪は別のCDを掛けた。
「……ギャーギャー、グルグル……」
「もう一度再生するよ」
「……ギャーギャー、グルグル……」
一同は息を呑んだ。
「何でしょう」修子は言った。「赤ん坊の声とも違いますわね」
「獣の声のようですが、何かの」糸水は言った。
「私もそう思う。一体何だろうか」
矢田輪は首を傾げた。
「何かの鳥じゃないでしょうか」修子は意見を述べた。
矢田輪は頷いた。
「先ず、鳥ではないかと推測出来る」
「何の鳥でしょうか」糸水は疑問を述べた。
「分からないが、何かの野鳥だろうね」
「野鳥というと……」糸水はスマホで検索を掛けた。「……鹿児島大学、農学部獣医学、鳥類研究、で検索すると、こういう教授が出てきました」
糸水はスマホを二人に見せた。
「鳥類研究、星子太郎博士か」矢田輪は言った。
「どうでしょう、矢田輪さん、この教授にこの録音を聴いて貰ったら」
「それは良いかもしれないな。此処は専門家の力を借りるか」
「それがいいですわ、矢田輪さん」
「うん、ちょっと鹿児島大学に電話してみよう」
「番号をご存知ですか」
「経済学部に知り合いの教授がいる。農学部の内線を尋ねてみよう」
矢田輪は自分のスマホをタップした。
「……嗚呼、広田教授、御無沙汰しております、矢田輪です。実はちょっとお尋ねしたいのですが、はい、ええ、農学部の内線を知りたいんです」矢田輪はメモを取った。「ああ、分かりました、有難うございました」
続けて矢田輪は内線番号に掛けた。
「済みません、矢田輪という者です。経済学部の広田教授の紹介で、星子教授に少し、お尋ねしたいことがあるのですが……はい、ええ、お願いいたします」
数分間要した。
「星子教授ですか。矢田輪という者です。広田教授の友人です。実は、先生にお尋ねしたいことがあるのですが。はい、ええ、実は、野鳥の声らしい録音を聴いて頂いて、何の鳥か教えて頂きたいのです。はい、よろしくお願い致します。はい、明日10時に。では明日お会い致します」
5
日曜日、南西大学キャンパス、午前8時半。
近藤陽子は女子サッカー部の部員だ。今朝は大学に忘れ物を取りに来たのだった。至って健康そのもので、フォワードのリーダー格の陽子は、誰からも慕われていた。殊に目立つ脚の筋肉は、彼女のハードトレーニングを物語っている。会う者全てが羨望する程、陽子の身体能力は高い。
講義室に忘れていた小型の六法全書は、宿題のレポート作成にどうしても必要なものだった。鞄に六法を入れると、陽子は裏門の方向に急いだ。サッカー部の部員達は、今日の午後からの練習の予定を急遽変更していて、間もなく学校に着く筈だが、陽子はその練習には不参加を申し入れていた。宿題が間に合わないのだった。
季節は春本番、桜の開花で衆目が沸き立つ頃、丁度彼氏に振られて、陽子は孤独の渦中にいた。恋愛関係とは難しいものだと、彼女は思う。此方の愛情や善意が常に相手に伝わるものではない。大抵の場合、悪い憶測が先走り、愛情が見えないことが多過ぎる。彼と別れる必要など本来なかった。
一陣の春風が陽子のスカートを巻き上げる。彼女はスカートを押さえた。
その時、彼女の耳に何かの音楽が聞こえてきた。何かしら甘美な、懐かしい音楽、童謡里の秋だった。
陽子は不審に思い、立ち止まった。何だろうか、何処から聞こえてくる音楽なのか。
次の瞬間、陽子は背中に焼き火箸を突き込まれるような激痛を覚えた。
刃渡りの長いキッチンナイフが彼女の背中に突き立てられたのだった。彼女は甲高い悲鳴を上げた。ナイフがゆっくりと引き抜かれた。再び背に突き込まれた。彼女は倒れ臥した。
上部から幾度となくナイフが振り下ろされる。
陽子の筋肉質の躰は鮮血に紅く染まった。
その折り、大学の裏門に20人程の集団が現れた。女子サッカー部の部員だった。
南西大学キャンパス、午前8時10分。
糸水と恋人の修子は一つの講義室に来ていた。
「何だよ、こんなに朝早く。コンサートは午後からの予定だ」
「私達も矢田輪さんの手伝いをしましょうよ」
「手伝いというと、探偵の真似事かい?」
「ええ、私は真希子さんと親しかった。大学にも来たことがあるのよ。彼女の講義室も、いつも座っていた机も知っている」
「その机が、これなのか」
「そう、ちょっと中を調べてみましょうよ」
「既に警察が捜査済みだ、何もないよ、きっと」
「いいえ、何かあるわよ」
修子はデスクの中から、古新聞を取り出した。
「古新聞の束だわ」
「そうだね、一体どんな記事?」
「驚いたわね」
「何なんだい」
「ほら、一昨年鹿児島で、連続猟奇殺人があったでしょう、その記事よ」
「その事件なら、疾っくに解決している」
「ほら、此方も去年の殺人事件の記事だわ」
「これも解決している」
「何故かしら。殺人事件の被害者になった真希子さんが、事前に猟奇殺人の新聞記事を集めていたなんて」
「何故だろうね、本当に」
「何か、予感か予兆のようなものがあったのかしら」
「あったかもしれないな」
二人は講義室を出た。隣の体育館へと向かった。ロックコンサートは其処で行われるのだが、未だ開始時刻に時間が大分あるため、周囲に人影はない。
体育館の舞台上には、既にマーシャルアンプの類が設置されていた。二人は舞台袖のpa機器の前迄来た。
「本格的なアンプ類だな」
「音は良さそうね」
「此処にCDプレーヤーがある」
「ちょっと何か掛けてみましょうか」
「そうだな」
「其処にあるCDで、良いんじゃない?」
「そうしよう」
CDをプレーヤーに挿入した。
大型アンプが唸り始めた。
掛かった曲は、イングウェイマルムスティーンのネヴァーダイだった。二人はテクニカルな演奏に暫しうっとりした。
「やっぱりイングウェイは素晴らしいわ」
「そうだね」
二人は、体育館を後にした。
二人は、コンサート開始迄の長い時間を潰すつもりで、大学前の喫茶店を訪れた。
コーヒーを注文した。
「コンサート迄、何杯コーヒーを呑むのかしら」
「何杯でもいいさ。ランチも此処で摂ろう」
「そうね、何がある?」
「北欧ランチだそうだ」
「高そうね」
「たまにはいいさ」
「で、矢田輪さん、どう思います?」
「探偵熱心だね」
「自分の娘を殺されたのだから、当然だわね」
「しかし、あの人には悪いが、無駄だと思うよ」
「どうして」
「素人がどう動いても、常にプロの警察が先回りしていると思う」
「じゃ、警察も鳥の声を捜査済み?」
「ああ、警察も音声分析位遣っているさ」
「そうね」
その刹那、けたたましいパトカーのサイレンが、大学前に近付いてきた。パトカーは一台、二台ではなかった。凄まじい騒音。
「どうしたのかしら」
「何だろう、大学で何かあったらしいが」
「また殺人事件?」
「まさかとは思うが」
カウンターの奥で、喫茶店の主人らしい人物がスマホで会話していた。
「……何ですって、そうなんですか。分かりました、それは大変だ……」
マスターは、スマホの会話を終えると、糸水達に近寄ってきた。
「お客様方は、コンサートにいらっしゃるお積もりでは?」
「ええ、コンサートに行きます」糸水は答えた。
「コンサートは中止になりました」
「ええっ、何故?」
「大学内で、殺人事件がありました」
「本当ですか」
「ええ、間違いありません」
「それはまた。楽しみにしていたのに」
「今から、軽音楽部の佐川君が店に来ますが」
「ああ、佐川さん」修子は言った。「知り合いですわ」
「そうなんですか。佐川君に事情を聞いてみられたら」
「そうしますわ」
10分程度後に、ロックコンサート主催者側の学生、佐川が喫茶店に来た。
佐川はミュージシャンらしい長髪の青年だ。
「マスター、大変なことになっているよ」
「一体誰が殺されたんだ」
「女子サッカー部の近藤陽子さん」
「知っている、筋肉質の女性だろう」
「そう、彼女」
「佐川さん」修子は呼びかけた。
「誰、嗚呼、小早川さん」
「佐川さん、私達、先刻迄体育館に居たのよ」
「こんな朝早く、体育館で何をしていたの?」
「CDを聴いていたわ」
「CDだって。アンプの所にあったCDかい?」
「ええ」
「それは、練習用CDだった?」
「違うわ、イングウェイマルムスティーンよ」
「そうなんだ」佐川は頭を掻いた。「真希子のお父さんが、昨日練習用CDを持って来てくれる筈だったんだけど」
6
矢田輪は、とある古ビルのエレベーターを三階迄上がった。テナント料金の安い事務所ばかりが、そのビルを埋めていた。彼は、本当に営業しているか否か疑問の、極めて簡易な事務所の前迄来た。
看板に、NPO法人奄美野鳥保護会、と記されている事務所のドアをノックした。
「はい、どちら様でしょう」
「鹿児島大学農学部、星子教授の紹介で、来ました」
「そうですか、どうぞ、お入りください」
「失礼致します」
矢田輪はドアを開いた。
殺風景な事務所内、閑古鳥が鳴いていそうだった。
「どうぞ、其処にお掛けください」
「有難うございます」
「で、どちら様ですか」
「矢田輪と言います。しがないミュージシャンを致しております」
「ミュージシャン?」
「ジャズのギタリストです」
「ギタリストが、奄美の野鳥に興味をお持ちですか」
「ええ、用件は前もって電話でお伝えしてありますが」
「済みません。何分小さなNPOで、手違いがありまして、電話メモを紛失しております」
矢田輪は当惑した。
「そうですか、では少し、この声を聴いてみてください」
矢田輪はICレコーダーを取り出し、ボタンを押した。
「……ギャーギャー、グルグル……」
「もう一度お聴きください」
「……ギャーギャー、グルグル……」
「星子教授は、この鳴き声は、奄美の野鳥ルリカケスのものと断定なさいました」
「ええ」
「何か、ルリカケスについて、情報をお持ちではありませんか」
「ええ」
相手の冷淡な返答に、矢田輪は当惑を重ねた。
「ご返事の淡泊なのは何か理由でもあるんですか」
「ええ、実は申し上げて良いかどうか分からないものですから」
「と仰有ると」
「実は昨日、警察が来て、これと同じ録音を聴かせて、同じ質問をなさいました」
「ええっ、警察がですか」
「渋谷という警部補の方です」
「ああ、あの警部補が」
「そうです」
「で、どんな情報をお話なさいました?」
「それをお話して良いかどうか」
「私は殺人事件の被害者の父親です」
「それならば、構わないかもしれないですね」
「そうです」
「実は、或る頭のおかしな人が、私共からルリカケスを奪ったんです」
「奪った?」
「ええ、県鳥だから飼いたいと言って」
「誰ですか、それは」
「小渕静馬という人ですが」
「小渕静馬、で、その人の現住所は?」
7
高級腕時計の秒針がアップ映像で映しだされた。続けて横文字の時計のブランドが映る。
薄型テレビの中で、コマーシャルが終わり、夕方の報道番組が始まった。
アナウンサーは正面を向いて会釈した。
「皆様こんばんは、報道速報のお時間です。今日は先ず、三面記事から、鹿児島市で起きた連続猟奇殺人事件の特集です」
画面が鹿児島市の南西大学キャンパスからの中継に変わった。
レポーターは体育館の前を歩きながら、報じた。
「田舎街、鹿児島にて連続猟奇殺人が発生しました。今日は事件の核心に迫りたいと思います。事件は、先ず、矢田輪真希子さん殺害から始まりました。真希子さんは、殺される直前に、現場をスマホで録音していました。その録音に、童謡里の秋が収録されていました。犯人が犯行直前にスマホにて再生したものでした。一体何故犯人は殺人の前に、童謡などを再生したのでしょうか」
「レポーター、田中さん、もう何故かは分かっているんですよね」
「はい、既に警察が全て解明しました」
「成る程、その解明の前に、犯人逮捕の経緯をお伝え願えませんか」
「はい、その録音に、ごく微かに鳥の鳴き声が入っていたんですね。警察はその声を特殊な装置で分離増幅しました。すると、それが鳥類専門家の指摘で、ルリカケスの声と分かりました。希少な奄美の野鳥で、其処から、犯人の身元が割れることが期待された訳です」
「ルリカケスですか、聞いたことない鳥ですね」
「そういった経緯で、希少なルリカケスを自宅で飼っていた、小渕静馬容疑者に、警察は辿り着いたのでした」
「小渕静馬というのは、精神科の患者ですよね」
「はい、重度の精神疾患です。暴力癖も有しています」
「結局、この事件の殺害動機は、何なのでしょう」
「はい、小渕には独り娘がありまして、あかね、といいます。あかね、は重度の身体障害者でして、車椅子を常時使用しています」
「つまり、病人親子の、健康に対する一種の救い難い僻みが、今回の事件の動機になります」
画面が端麗な容姿の、車椅子の少女の写真を映した。
「美しい少女ですね。12歳くらいですか」
「あかねは今年で丁度12です」
「母親は既に他界しているんですね」
「ええ、父娘二人の生活保護世帯でした」
「そして、第二の事件ですが」
「はい、第二の殺人、近藤陽子さんの事件はこのわたくしの居ります大学キャンパスで、起きました。陽子さんは女子サッカー部に所属していて、見るからに筋肉質の健康体でした。因みに真希子さんはテニスプレーヤーで此方もかなりの健康体でした。で、陽子さんは丁度この裏門と体育館の中程にて殺害されました。キッチンナイフで酷く刺殺された直後、裏門から女子サッカー部の部員達が、予定を変更して、急に朝練に訪れたのです」
「裏門からですか、容疑者は逃げ場がありませんね」
「ええ、ですから小渕容疑者は、急遽此方の体育館に逃走し、一時身を隠しました」
「体育館のどの辺りでしょう」
「これから私が向かいます。舞台袖の控え室です」
レポーターは速歩で、舞台袖に移動した。
「……此処です。此処の床に血痕があります」
「容疑者は一時身を隠してから、隙を見て、裏門から逃走したのですね」
「はい、その通りです、小渕容疑者の自宅から、凶器のナイフが見つかっています」
「成る程、有難うございます。続けて、コメンテーターの意見を伺いましょう、どうぞ、若山さん」
画面は、金縁眼鏡のインテリらしい中年のコメンテーターを映した。
「父親の、病身の娘に対する歪んだ愛が動機でしょう。童謡は、あかねが好んで聴いている歌らしい。この童謡は、病者の抱く健康へのドス黒い僻みが、凝縮されている。父親の娘に対する愛と共に怨念がこもっているのでしょう。里の秋そのものには父親賛美しかないが、この父娘にとってはドス黒い怨念以外のなにものでもない」
「障害者差別解消法が改正されたばかりですが、一体どう考えたら良いでしょう。こんな事件が後を絶たないということは」
「結局社会システムの包摂か排除かの二者択一でしょう。趨勢は包摂に向かっているが、果たしてそれが正しいのか。しばしば悪者扱いされる排除が幾らかは必須ではないのかということです。結局のところ、措置入院の厳格化は必要なのです。このような陰惨な事件を未然に防ぐためにも」
糸水は会社を5時上がりしていた。修子も同席して、矢田輪宅にて細やかな事件解決のお祝いをしていた。三人はテレビの報道番組を観て、事件を反芻整理した。
「矢田輪さん、僕も修子も、警察の取り調べをうけたんです」
「それは大変だったね」
「いえいえ」
三人はビールで乾杯した。
「矢田輪さん、アルディメオラのCDはありませんか」糸水は言った。
「さあ、何処かにある筈だが」
「どこら辺ですかね」
「さあ」
「押し入れを探して良いですか」
「嗚呼、待ちたまえ」
糸水は委細構わず、押し入れの扉を開けた。
「糸水君、辞めて、辞めてくれたまえ」
矢田輪は制止した。
「嗚呼、やっぱり。何だろう、これは」
押し入れの中には、山積みの雑誌があった。可愛い幼女の表紙写真。
「矢張り、矢田輪さん、これはアリスクラブですね。悪名高いロリコンヌード写真集だ」
「……」
「矢田輪さん、これでデータは揃った」
「何だって」
「最初からして余りに不自然だったのです。最愛の娘の遺体を前に、冷静にICレコーダーを操作している。そんなことが一体可能でしょうか。しどろもどろになり、そんな余裕を持てないのが自然の筈。そして、貴方は真希子さんに、最近の鹿児島の殺人事件の新聞記事を渡しましたね。恐らく、危険に遭遇したら、スマホで録音するように、予め教唆していたのでしょう。そして、周囲にバレないよう、素人探偵の真似事をした。警察はルリカケスの声から、小渕さんを犯人と割り出すと分かっていた。それに多分合い鍵を使って、凶器のキッチンナイフを小渕宅に捨てた」
「どうしてそんなことが言えるんだ」
「体育館に僕と修子が行った時、犯人は舞台袖に潜伏していた。僕達はCDを掛けた。それは前日貴方が持ってきた。ギター練習用のマイナスワンテープだった。詰まりギター抜きの、他の楽器演奏のテープです。しかし僕達は確かにイングウェイのギタープレイを聴いた。舞台袖で貴方はCDに合わせてギターを弾いたのですね。練習用CDを前日に持ってきたことを知られたくなかった。また学生ではイングウェイマルムスティーンの速弾きの完コピーは無理。貴方のギターテクニックがなければそれは不可能です」
「動機は何です?実の娘まで殺したのですか」修子は尋ねた。
「貴方は、あかねという少女を愛していたらしい。貴方は幼女愛好症だ」
矢田輪は暫く、口がきけなかった。が、漸く言い放った。
「その通りだ。私は、あかねを深く愛していた。健康な女全てを憎悪している。自分の娘であっても」
「小渕宅付近で、貴方の目撃情報は多々得られるでしょう。貴方の逮捕は確実だ。お願いします。自首して頂けませんか……」