眠れる海の人魚姫〜政略結婚のはずが、御曹司の一途な執着愛に絡め取られました〜
 テーブルの上に置かれた、真っ白な紙を呆気に取られて眺める。枠内は丁寧に綴られた端正な文字で埋められている――美雨の署名欄以外は。
 すっと万年筆が差し出された。黒檀の軸に金色の天冠が美しい逸品だった。

 反射的に受け取り呆然として嶺人を見つめる。嶺人の表情は揺らがず、じっと美雨に視線を注いでいた。そこでふと気づく。そういえば嶺人も窓向こうの景色を気にしない。最初からずっと、美雨だけにその綺麗な目を向けていたのだ。
 もう一度婚姻届を確認し、ごくりと唾を飲み込む。証人欄には両家の父親の名前もある。抜かりない。あとはもう美雨の覚悟次第というわけだ。

「……後戻りできませんよ?」
「するつもりは一切ない。美雨はどうなんだ」
「私、は……」

 右手に持った万年筆がやけに重く感じられた。蓋を開け、ペン先を婚姻届に近づける。
 こんなことは間違っている。人の弱みにつけこんで、恋を叶えようとする卑怯な真似は許されない。
 それでも、と祈るような気持ちで美雨は名前を書き記す。一画一画心を込めて丁重に名をしたためていく。嶺人の視線が突き刺さるようだった。それが断罪なのか、もしくは他の何かなのか、額に冷や汗を浮かべる美雨には判別できない。
 やがて完成した婚姻届を受け取って、嶺人がほのかに笑った。

「美雨、とは綺麗な名前だ。西城美雨も捨て難がったが、岬美雨も悪くないと思う」
「そうでしょうか」

 弱々しく頷き、美雨は万年筆に蓋を嵌めた。とんでもないことをしてしまったという絶望感と、だとしてもという希望がないまぜになって心臓を締めつける。
 いずれ罰が下るとしても、瞬きの間だけでも、甘い夢を見ていたい。
 目の前に吊るされた甘美な未来に抗えるほど、美雨は強くない。

(……それができるなら、私はとうに歩けるようになっているわ)

 窓の外で、花吹雪がざあと舞い散った。

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