眠れる海の人魚姫〜政略結婚のはずが、御曹司の一途な執着愛に絡め取られました〜
 思ってもみない返しに美雨は頬を染めて狼狽えた。「何、とは……その……普通の……」
 しかし言われてみれば美雨だって「普通の」経験があるわけではない。思わずうつむき「えっと」とか「つまり」とかもごもご呟いてしまう。嶺人はそんな美雨をしばらく眺めていたが、やがて美雨の顎をついと持ち上げ瞳の奥底を覗き込んだ。

「今のうちに聞いておいた方が良さそうだな。――美雨が嫌なことはなんだ?」
「えっ? あ、あまり思いつきませんが……痛いのは、嫌、かもしれません……?」

 考える余裕もなくとっさに口をついて出たのはそれだった。何をされてもいいけれども痛みは苦手だ。目の前の嶺人がほのかに微笑む。

「わかった。痛い思いはさせないと誓おう」
「は、はい」

 こくんと頷けば、ますます嶺人の笑みが深くなる。間違った返答をしたのではと不安になって口を開きかけると「美雨」と頬を撫でられた。

「俺は美雨がそばにいてくれればそれだけでいい。他には何も望まない」

 かけられる言葉は労りに満ちていて、声色は蜜を垂らしたように甘い。
 けれどそれは何よりも的確に美雨の心を貫いた。高揚していた胸の内側がすうっと冷えていく。

(ああ、私には何にもできることがないのだわ)

 そもそもが家同士の繋がりを持たせるために組まれた結婚だ。嶺人がかけてくれる優しさは、責任感から生まれるものだ。愛ではない。
 ――何年かかっても必ず責任を取る。
 過去からの呼び声は耳にこびりつき、右足が沼に取られたようにどんどん重くなっていく。
 美雨は何とか笑顔を作り、頬に触れる嶺人の手に己の手を重ねた。

「はい。私は嶺人さんのおそばにおります」

 少なくとも、必要とされなくなるまでは、ずっと。
 ぎこちなく微笑む美雨に嶺人はかすかに眉を寄せ――それからもう一度、二人の距離を埋めるように唇を重ねた。

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