【コミカライズ化】追放された歌姫は不器用な旦那様に最愛を捧ぐ
番外編1、嵐の夜の過ごし方
時系列的に16話前後のお話です。
しとしとと降り注ぐ雨を眺めながら、エレナはその音に耳を傾ける。
雨の音は好きだ。
まるで世界中が音楽を奏でているみたいで、安心する。
だけど。
(ああ、今夜はきっと)
遠くに浮かぶ黒い雲に微かに走った光の線をぼんやり眺めたエレナは物憂げな表情を浮かべる。
今はまだ薄暗く静かな音を奏でるこの雨は、時間の経過とともに強くなり雷鳴をこの地に轟かせるのだろう。
雷の鳴り響く夜は苦手だ。どうしようもなく、惨めなほど"期待"を抱いてしまうから。
「エレナ」
窓に手をついてぼんやりしていたエレナに目を留めたルヴァルが声をかける。
紫水晶の瞳はゆっくりと瞬き、無表情のまま軽くドレスの裾を持ち上げると綺麗な所作で礼をする。
そんなエレナを見て、ルヴァルはショーウィンドウに飾られている一級品の人形を思い浮かべる。
すべての感情を押し殺した、冷たく硬い無機質な顔。
戸惑いながらも少しずつ言葉を綴り、感情を返してくれるようになってきていた最近のエレナにしては珍しく、ルヴァルはエレナを見ながら眉根を寄せる。
まるで初めてこの城に足を踏み入れた頃のようだ。
「何か、気がかりでもあるのか?」
ルヴァルの問いかけに、戸惑ったようなエレナはただじっと青灰の瞳を見返す。
誰かを楽しませる会話を得意とするタイプではないルヴァルと碌に声の出ないエレナの間に沈黙が生じるのは日常だ。
だが、いつもよりエレナは息苦しさと緊張を覚える。ルヴァルの態度はいつも通りなのだから、そう感じるのならきっとそれは自分の受け取り方の問題だ。
口を開きかけたエレナは、声にならない言葉を飲み込んで、なんでもないとばかりに軽く首を振るとルヴァルから視線を外す。
「そうか」
言葉少なくそう言ったルヴァルにエレナは小さく頷く。
鬱鬱としてしまうのはこの雨と遠くに見える雷の光と随分とズレて聞こえる雷鳴のせいなのだろうとエレナは思う。
記憶の蓋がズレ、苦い思いが込み上げる夜が来る。
ただそれだけのこと。
どうしようもない事でルヴァルを煩わせるわけにはいかない。
気にしないで、とばかりに軽く笑みを浮かべたエレナは、ルヴァルに礼をして静かにその場を立ち去った。
******
「"光"っていうのはね"音"よりも早く届くんだよ」
得意げにエレナにそう教えてくれたのは、少し年上で物知りな婚約者……だった人。
エレナよりも早く魔法を習い始めた彼は、淡い光を指先から飛ばす。それはシャボン玉のようにふわりと浮いて、エレナの周りをくるりと舞った。
「もっと強い光を作る事もできるんだけど、エレナはこっちの方が好きかなって」
目が眩むほどの閃光を親指と人差し指の間で作ったエリオットは、瞬時に光量を抑えて淡い球体を作りエレナに飛ばす。
誰かと争ったり傷つけたりする事を好まないエリオットらしい穏やかな魔法。
それを自分のためだけに見せてくれたのだと思うとエレナはエリオットの優しさが嬉しくて、彼の婚約者になれた事が誇らしかった。
「こんなに綺麗な魔法、私見た事がありません。すごく素敵です!」
母の紡ぐ"音"の魔法と父が時折使っていた風魔法しか知らなかったエレナにとって、その幻想的な魔法は強く心が惹きつけられるもので、綺麗な世界に心が躍った。
「エリオット様、私もエリオット様のように誰かを幸せにできる魔法を紡げるようになりたいです!」
こんなに穏やかで優しい魔法が自分の力で編めたら素敵ですと興奮気味に大絶賛するエレナに顔を赤らめたエリオットは、
「エレナならきっとできるよ」
エレナの紫水晶の瞳に優しく微笑み、
「エレナに何かあれば、僕が光より早く駆けつけるよ」
そう言って小指を絡めて約束してくれた。
幸せ、だった。
幼かった頃の自分にとって、間違いなくエリオットは唯一無二の"王子様"だったのだ。
雷鳴が闇夜に轟き、降り注ぐ雨が大地を叩く。
床に座り込み鉄格子のはめられた小さな窓を見上げるエレナは、空を占領する激しい光を見て小さく名前をつぶやくが、雷鳴に掻き消されたその声は誰の耳にも届かない。
理不尽な理由で納屋に閉じ込められたエレナには逃げ場はなく、しっかりと栓をされたその扉が朝まで開くことはないとわかっている。
初めの頃こそ泣き叫び、手が血まみれになるほど戸を叩いて出して欲しいと懇願したが、躾と称した罰が繰り返さるうちに恐怖心は麻痺して何も感じなくなった。
南部の夜だって寒いけれど、隠しておいたボロボロの布に包まれば凍えて死ぬことはない。
今日は一日中何も食べる事ができなかったのだから、騒がず体力を温存しなければ。
エレナは現状を確認して、大丈夫と自分に言い聞かせる。
大丈夫。
私は、大丈夫。
これはいつもの日常で、困ってなどいない。
そう言い聞かせていないと、また惨めに縋ってしまいそうになる。
いつかエリオットが助けに来てくれるのではないかと、叶う事のない希望に。
光はエレナにとってエリオットを思い浮かべる象徴だった。
強い閃光が目に入るたびに幼かった頃の会話を思い出し、その淡い期待は何度捨てても込み上げてきて。
……捨て去る事ができなくて。
黒鉛で塗りつぶしたような真っ黒な夜はエレナの叫びを飲み込んで雷と雨の音だけが響く。
だから、雷の鳴る夜は苦手だ。
(幸せな思い出なんて、いっそのことなかった方が良かったのかもしれない)
そんな事を思うほど、弱く惨めな自分と向き合わなくてはならないから。
******
誰かに呼ばれた声でエレナの意識は浮上する。
また、あの頃の夢を見た。
ぼんやりとそんな事を思ったエレナは意識の戻り切らない視線を彷徨わせながら声の主に瞳を向ける。
「悪いな、起こして」
ルヴァルは短くそう告げる。
どうして? とエレナはつぶやくがそれは音にならず、唇を動かすだけで暗闇に消えた。
「酷い顔だな」
そっと伸ばされた手がエレナの頬に触れる。
自分以外の体温にホッとして意識が完全に覚醒し、そこでようやくエレナは自分が泣いていることに気がついた。
「どうせ眠れないのなら、ついて来い」
短くそう言ったルヴァルはエレナに羽織りを渡すと早々に立ち上がり歩き出す。
エレナは渡された羽織りを見つめる。見覚えのない真新しく綺麗な菫色をした女性物の羽織り。
ルヴァルの態度は相変わらず素っ気ないけれど、気遣ってくれているのだと分かる。
(もしかして昼間のこと、気にしてくれていたのかしら?)
きっとそうだ。
エレナは小さく笑って、羽織りを抱きしめる。
それはとても暖かくて、優しい香りがした。
肩に羽織りをかけてルヴァルの背を追いかけたどり着いた先は食堂だった。
「いらっしゃいませ、エレナ様! エレナ様は"夜更かしの会"初参加ですね」
こちらにどうぞ、と出迎えてくれたのはリーファだった。
明かりの灯された食堂の机の上に所狭しと載せられた飲食物の数々。
そこにいたのはリーファだけではなく、医師であるソフィアや錬金術師のノクス、城内で見かけたことのあるバーレーの騎士達。
ざわめく会場の音と雰囲気に驚いたエレナは紫水晶の瞳を瞬かせ、思わずルヴァルの袖を引く。
「って、お館様、もしかしかくてもまた何の説明もせずにエレナ様を連れてきましたね?」
めちゃくちゃ引いてるじゃないですか! と抗議するリーファに、
「見た方が早いだろ」
と取り合わないルヴァル。
「じゃ、あと任せた」
ちょっと状況確認してくるとエレナをリーファに任せてルヴァルは立ち去る。
リーファがいるのなら大丈夫なのだろうけれど、これは一体、何事だろうか? と疑問符を浮かべるエレナに近づいて来たノクスが、
「なんなん? ひーさんも来たん?」
はい、駆けつけ一杯とホットワインの入ったグラスを渡す。
が、反射的にエレナが受け取るより前にソフィアがホットワインを取り上げて、
「バカ者、エレナ様はまだお酒を飲める程回復してないっつーの」
ドクターストップと代わりにホットミルクを差し出した。
「いや、そもそもエレナ様未成年だし。大体ノクス関係ないのに勝手に参加して飲み過ぎ」
ノクスに対し、引っ込め酔っ払いと冷たく釘を刺したリーファは、蜂蜜入れます? と侍女らしくエレナの前に彼女が食べられそうな軽食を持って来て席を勧める。
「関係ないとか寂しいこと言うなよ。今からお前らが壊してくる装具だの破損した家屋だの直すの俺らじゃん」
俺様超大活躍と大袈裟に肩をすくめるノクスに、
「つまり、今現在錬金術師はお呼びじゃないって事じゃない」
リーファはハイハイと呆れた口調でそう流す。
「まったく。どうせこのあと忙しいんだから休める時に休んでおけばいいのに」
「バーカ。せっかくのタダ酒の機会を逃してたまるか」
だからこその参加だろとノクスは楽しげに口角を上げる。
「ほらほら、2人とも。エレナ様が話について行けずに置いてけぼりになってるじゃない」
そう言って苦笑したソフィアはエレナに視線を向けて、手に持っていたコーヒーを飲むと、
「つまりですね、こんな嵐の夜は何かあった時のために当番制で"待機"してるんです。要請があればすぐ出られるように」
まぁ関係なく騒いでる人間も多数混ざってるんですけど、と苦笑しながら状況を説明する。
そう言われたエレナは改めて食堂内に視線を流す。
同じように騒いではいるけれど、ラフな格好でお酒を飲んでいる人もいれば、今すぐ出ていけそうな騎士服のまま軽食を口にしている人もいる。
確かにこんな日には災害が発生し、人が巻き込まれる可能性も大いにあるだろう。
「エレナ様、そんなに心配しないでください。領民の避難はすでに完了していますし、この程度の嵐であれば大概は何もないことの方が多いです」
何かあっても私が治療しますしと、ソフィアはにこやかな笑顔を浮かべ、白衣から取り出した銃を構える。
「ま、騒ぎ過ぎたお馬鹿さん達がケガをする場合は多少手荒になりますけどね」
そう言ったソフィアは酒が入り力比べと称して取っ組み合いを始めた男達に向かって麻酔銃を連射した。
医療行為と呼ぶにはあまりに荒すぎる対応なのだが、誰一人止めないのできっとこれがここの普通なのだろう。
「俺ドクターには逆らわない」
ガチめなトーンで白旗を上げ、おとなしくワインを飲み干したノクスに、
「懸命な判断ね」
とリーファが頷く。
そんなやり取りを見てクスクスとエレナが笑ったタイミングで、窓の外で眩しいほどの閃光と大きな音が鳴り響く。
紫水晶瞳でそれを捉えたエレナは思わず身を固くする。さっきまで見ていた夢のせいで、生家での記憶が生々しく蘇ってきて。
目を逸らしたいのに、閃光から目が離せなくて。
「何なに? ひーさん雷怖い人?」
そんなエレナの様子を見たノクスは軽く目を細め、
「じゃ、今度俺が音と光遮れる魔法陣入れたカーテン錬成してやんよ」
任せとけと親指を立てる。
「あら、ノクスにしては珍しく気が利くじゃない」
「人間、苦手なもんの1個や2個有るだろ。こんな日は特に古傷痛むし」
やや遠い目をしたノクスを見ながら、まぁ確かにねとつぶやきリーファは同意する。
そんな2人のやり取りを見ながら、エレナはみんながここに集う理由は"待機"以外にも有るのかもしれない、と思う。
もしかしたら、ここにいる誰かも自分と同じあるいはそれ以上の苦い思いを抱えているのではないか、と。
思考が暗くなりかけたところでエレナは頭にポンと何かが乗った重みを感じる。
乗せられたのはルヴァルの手だった。
「まったく、お前ら好き勝手しすぎだろ」
辺りを見渡しいつも通り淡々とそう言ったルヴァルは、
「うちではこれもまた"日常"だ。慣れろよ。これから何度だってこんな日を過ごすんだから」
エレナの隣に座り、彼女の黒髪をやや乱暴な動作で撫でた。
これが、日常?
これから先、何度でも?
エレナはルヴァルの言葉を心の中で繰り返しながら目を瞬く。
「ここでは俺がルールだ。文句は言わせない」
(そうか、もう私は)
ルヴァルがそうだと言う限り、自由で。
雷雨の夜に真っ暗な納屋に閉じ込められて鉄格子の嵌めらた窓を眺める事はもうないのだ、とエレナは急に実感する。
「どうせ眠れないなら、ここにいればいい。眠くなれば寝ればいい。どう過ごしたって朝は来るんだからな」
(ああ、やっぱりルヴァル様の声はすごく安心する)
頷いたエレナは目を閉じ、耳を澄ます。
食堂は騒がしくて、たくさんの音で溢れていて。
窓の外の嵐の音が霞んでしまう。
(なんだか、今とっても)
トンっとエレナはルヴァルに寄りかかる。ルヴァルが視線を向ければ安心し切った顔で小さな寝息を立てていた。
「おやすみ、エレナ」
ルヴァルが静かにつぶやいたセリフは、喧騒の中に消える。
その夜にエレナが見たのは、幼い自分が閉じ込められた暗闇から逃げ出す夢で。
連れ出してくれたのは、剣を握る骨ばった優しい手だった。
これから先もきっと苦い思いの込み上げるどうしようもない夜はあるのだろう。
だが、そんな日があったとしても。
きっと、もうひとりで泣いたりしない。
朝を迎え目が覚めたエレナはそんな事を思いながら、からりと晴れた青空を眺め、ベッドの側に置かれていた菫色の羽織りを抱きしめたのだった。
しとしとと降り注ぐ雨を眺めながら、エレナはその音に耳を傾ける。
雨の音は好きだ。
まるで世界中が音楽を奏でているみたいで、安心する。
だけど。
(ああ、今夜はきっと)
遠くに浮かぶ黒い雲に微かに走った光の線をぼんやり眺めたエレナは物憂げな表情を浮かべる。
今はまだ薄暗く静かな音を奏でるこの雨は、時間の経過とともに強くなり雷鳴をこの地に轟かせるのだろう。
雷の鳴り響く夜は苦手だ。どうしようもなく、惨めなほど"期待"を抱いてしまうから。
「エレナ」
窓に手をついてぼんやりしていたエレナに目を留めたルヴァルが声をかける。
紫水晶の瞳はゆっくりと瞬き、無表情のまま軽くドレスの裾を持ち上げると綺麗な所作で礼をする。
そんなエレナを見て、ルヴァルはショーウィンドウに飾られている一級品の人形を思い浮かべる。
すべての感情を押し殺した、冷たく硬い無機質な顔。
戸惑いながらも少しずつ言葉を綴り、感情を返してくれるようになってきていた最近のエレナにしては珍しく、ルヴァルはエレナを見ながら眉根を寄せる。
まるで初めてこの城に足を踏み入れた頃のようだ。
「何か、気がかりでもあるのか?」
ルヴァルの問いかけに、戸惑ったようなエレナはただじっと青灰の瞳を見返す。
誰かを楽しませる会話を得意とするタイプではないルヴァルと碌に声の出ないエレナの間に沈黙が生じるのは日常だ。
だが、いつもよりエレナは息苦しさと緊張を覚える。ルヴァルの態度はいつも通りなのだから、そう感じるのならきっとそれは自分の受け取り方の問題だ。
口を開きかけたエレナは、声にならない言葉を飲み込んで、なんでもないとばかりに軽く首を振るとルヴァルから視線を外す。
「そうか」
言葉少なくそう言ったルヴァルにエレナは小さく頷く。
鬱鬱としてしまうのはこの雨と遠くに見える雷の光と随分とズレて聞こえる雷鳴のせいなのだろうとエレナは思う。
記憶の蓋がズレ、苦い思いが込み上げる夜が来る。
ただそれだけのこと。
どうしようもない事でルヴァルを煩わせるわけにはいかない。
気にしないで、とばかりに軽く笑みを浮かべたエレナは、ルヴァルに礼をして静かにその場を立ち去った。
******
「"光"っていうのはね"音"よりも早く届くんだよ」
得意げにエレナにそう教えてくれたのは、少し年上で物知りな婚約者……だった人。
エレナよりも早く魔法を習い始めた彼は、淡い光を指先から飛ばす。それはシャボン玉のようにふわりと浮いて、エレナの周りをくるりと舞った。
「もっと強い光を作る事もできるんだけど、エレナはこっちの方が好きかなって」
目が眩むほどの閃光を親指と人差し指の間で作ったエリオットは、瞬時に光量を抑えて淡い球体を作りエレナに飛ばす。
誰かと争ったり傷つけたりする事を好まないエリオットらしい穏やかな魔法。
それを自分のためだけに見せてくれたのだと思うとエレナはエリオットの優しさが嬉しくて、彼の婚約者になれた事が誇らしかった。
「こんなに綺麗な魔法、私見た事がありません。すごく素敵です!」
母の紡ぐ"音"の魔法と父が時折使っていた風魔法しか知らなかったエレナにとって、その幻想的な魔法は強く心が惹きつけられるもので、綺麗な世界に心が躍った。
「エリオット様、私もエリオット様のように誰かを幸せにできる魔法を紡げるようになりたいです!」
こんなに穏やかで優しい魔法が自分の力で編めたら素敵ですと興奮気味に大絶賛するエレナに顔を赤らめたエリオットは、
「エレナならきっとできるよ」
エレナの紫水晶の瞳に優しく微笑み、
「エレナに何かあれば、僕が光より早く駆けつけるよ」
そう言って小指を絡めて約束してくれた。
幸せ、だった。
幼かった頃の自分にとって、間違いなくエリオットは唯一無二の"王子様"だったのだ。
雷鳴が闇夜に轟き、降り注ぐ雨が大地を叩く。
床に座り込み鉄格子のはめられた小さな窓を見上げるエレナは、空を占領する激しい光を見て小さく名前をつぶやくが、雷鳴に掻き消されたその声は誰の耳にも届かない。
理不尽な理由で納屋に閉じ込められたエレナには逃げ場はなく、しっかりと栓をされたその扉が朝まで開くことはないとわかっている。
初めの頃こそ泣き叫び、手が血まみれになるほど戸を叩いて出して欲しいと懇願したが、躾と称した罰が繰り返さるうちに恐怖心は麻痺して何も感じなくなった。
南部の夜だって寒いけれど、隠しておいたボロボロの布に包まれば凍えて死ぬことはない。
今日は一日中何も食べる事ができなかったのだから、騒がず体力を温存しなければ。
エレナは現状を確認して、大丈夫と自分に言い聞かせる。
大丈夫。
私は、大丈夫。
これはいつもの日常で、困ってなどいない。
そう言い聞かせていないと、また惨めに縋ってしまいそうになる。
いつかエリオットが助けに来てくれるのではないかと、叶う事のない希望に。
光はエレナにとってエリオットを思い浮かべる象徴だった。
強い閃光が目に入るたびに幼かった頃の会話を思い出し、その淡い期待は何度捨てても込み上げてきて。
……捨て去る事ができなくて。
黒鉛で塗りつぶしたような真っ黒な夜はエレナの叫びを飲み込んで雷と雨の音だけが響く。
だから、雷の鳴る夜は苦手だ。
(幸せな思い出なんて、いっそのことなかった方が良かったのかもしれない)
そんな事を思うほど、弱く惨めな自分と向き合わなくてはならないから。
******
誰かに呼ばれた声でエレナの意識は浮上する。
また、あの頃の夢を見た。
ぼんやりとそんな事を思ったエレナは意識の戻り切らない視線を彷徨わせながら声の主に瞳を向ける。
「悪いな、起こして」
ルヴァルは短くそう告げる。
どうして? とエレナはつぶやくがそれは音にならず、唇を動かすだけで暗闇に消えた。
「酷い顔だな」
そっと伸ばされた手がエレナの頬に触れる。
自分以外の体温にホッとして意識が完全に覚醒し、そこでようやくエレナは自分が泣いていることに気がついた。
「どうせ眠れないのなら、ついて来い」
短くそう言ったルヴァルはエレナに羽織りを渡すと早々に立ち上がり歩き出す。
エレナは渡された羽織りを見つめる。見覚えのない真新しく綺麗な菫色をした女性物の羽織り。
ルヴァルの態度は相変わらず素っ気ないけれど、気遣ってくれているのだと分かる。
(もしかして昼間のこと、気にしてくれていたのかしら?)
きっとそうだ。
エレナは小さく笑って、羽織りを抱きしめる。
それはとても暖かくて、優しい香りがした。
肩に羽織りをかけてルヴァルの背を追いかけたどり着いた先は食堂だった。
「いらっしゃいませ、エレナ様! エレナ様は"夜更かしの会"初参加ですね」
こちらにどうぞ、と出迎えてくれたのはリーファだった。
明かりの灯された食堂の机の上に所狭しと載せられた飲食物の数々。
そこにいたのはリーファだけではなく、医師であるソフィアや錬金術師のノクス、城内で見かけたことのあるバーレーの騎士達。
ざわめく会場の音と雰囲気に驚いたエレナは紫水晶の瞳を瞬かせ、思わずルヴァルの袖を引く。
「って、お館様、もしかしかくてもまた何の説明もせずにエレナ様を連れてきましたね?」
めちゃくちゃ引いてるじゃないですか! と抗議するリーファに、
「見た方が早いだろ」
と取り合わないルヴァル。
「じゃ、あと任せた」
ちょっと状況確認してくるとエレナをリーファに任せてルヴァルは立ち去る。
リーファがいるのなら大丈夫なのだろうけれど、これは一体、何事だろうか? と疑問符を浮かべるエレナに近づいて来たノクスが、
「なんなん? ひーさんも来たん?」
はい、駆けつけ一杯とホットワインの入ったグラスを渡す。
が、反射的にエレナが受け取るより前にソフィアがホットワインを取り上げて、
「バカ者、エレナ様はまだお酒を飲める程回復してないっつーの」
ドクターストップと代わりにホットミルクを差し出した。
「いや、そもそもエレナ様未成年だし。大体ノクス関係ないのに勝手に参加して飲み過ぎ」
ノクスに対し、引っ込め酔っ払いと冷たく釘を刺したリーファは、蜂蜜入れます? と侍女らしくエレナの前に彼女が食べられそうな軽食を持って来て席を勧める。
「関係ないとか寂しいこと言うなよ。今からお前らが壊してくる装具だの破損した家屋だの直すの俺らじゃん」
俺様超大活躍と大袈裟に肩をすくめるノクスに、
「つまり、今現在錬金術師はお呼びじゃないって事じゃない」
リーファはハイハイと呆れた口調でそう流す。
「まったく。どうせこのあと忙しいんだから休める時に休んでおけばいいのに」
「バーカ。せっかくのタダ酒の機会を逃してたまるか」
だからこその参加だろとノクスは楽しげに口角を上げる。
「ほらほら、2人とも。エレナ様が話について行けずに置いてけぼりになってるじゃない」
そう言って苦笑したソフィアはエレナに視線を向けて、手に持っていたコーヒーを飲むと、
「つまりですね、こんな嵐の夜は何かあった時のために当番制で"待機"してるんです。要請があればすぐ出られるように」
まぁ関係なく騒いでる人間も多数混ざってるんですけど、と苦笑しながら状況を説明する。
そう言われたエレナは改めて食堂内に視線を流す。
同じように騒いではいるけれど、ラフな格好でお酒を飲んでいる人もいれば、今すぐ出ていけそうな騎士服のまま軽食を口にしている人もいる。
確かにこんな日には災害が発生し、人が巻き込まれる可能性も大いにあるだろう。
「エレナ様、そんなに心配しないでください。領民の避難はすでに完了していますし、この程度の嵐であれば大概は何もないことの方が多いです」
何かあっても私が治療しますしと、ソフィアはにこやかな笑顔を浮かべ、白衣から取り出した銃を構える。
「ま、騒ぎ過ぎたお馬鹿さん達がケガをする場合は多少手荒になりますけどね」
そう言ったソフィアは酒が入り力比べと称して取っ組み合いを始めた男達に向かって麻酔銃を連射した。
医療行為と呼ぶにはあまりに荒すぎる対応なのだが、誰一人止めないのできっとこれがここの普通なのだろう。
「俺ドクターには逆らわない」
ガチめなトーンで白旗を上げ、おとなしくワインを飲み干したノクスに、
「懸命な判断ね」
とリーファが頷く。
そんなやり取りを見てクスクスとエレナが笑ったタイミングで、窓の外で眩しいほどの閃光と大きな音が鳴り響く。
紫水晶瞳でそれを捉えたエレナは思わず身を固くする。さっきまで見ていた夢のせいで、生家での記憶が生々しく蘇ってきて。
目を逸らしたいのに、閃光から目が離せなくて。
「何なに? ひーさん雷怖い人?」
そんなエレナの様子を見たノクスは軽く目を細め、
「じゃ、今度俺が音と光遮れる魔法陣入れたカーテン錬成してやんよ」
任せとけと親指を立てる。
「あら、ノクスにしては珍しく気が利くじゃない」
「人間、苦手なもんの1個や2個有るだろ。こんな日は特に古傷痛むし」
やや遠い目をしたノクスを見ながら、まぁ確かにねとつぶやきリーファは同意する。
そんな2人のやり取りを見ながら、エレナはみんながここに集う理由は"待機"以外にも有るのかもしれない、と思う。
もしかしたら、ここにいる誰かも自分と同じあるいはそれ以上の苦い思いを抱えているのではないか、と。
思考が暗くなりかけたところでエレナは頭にポンと何かが乗った重みを感じる。
乗せられたのはルヴァルの手だった。
「まったく、お前ら好き勝手しすぎだろ」
辺りを見渡しいつも通り淡々とそう言ったルヴァルは、
「うちではこれもまた"日常"だ。慣れろよ。これから何度だってこんな日を過ごすんだから」
エレナの隣に座り、彼女の黒髪をやや乱暴な動作で撫でた。
これが、日常?
これから先、何度でも?
エレナはルヴァルの言葉を心の中で繰り返しながら目を瞬く。
「ここでは俺がルールだ。文句は言わせない」
(そうか、もう私は)
ルヴァルがそうだと言う限り、自由で。
雷雨の夜に真っ暗な納屋に閉じ込められて鉄格子の嵌めらた窓を眺める事はもうないのだ、とエレナは急に実感する。
「どうせ眠れないなら、ここにいればいい。眠くなれば寝ればいい。どう過ごしたって朝は来るんだからな」
(ああ、やっぱりルヴァル様の声はすごく安心する)
頷いたエレナは目を閉じ、耳を澄ます。
食堂は騒がしくて、たくさんの音で溢れていて。
窓の外の嵐の音が霞んでしまう。
(なんだか、今とっても)
トンっとエレナはルヴァルに寄りかかる。ルヴァルが視線を向ければ安心し切った顔で小さな寝息を立てていた。
「おやすみ、エレナ」
ルヴァルが静かにつぶやいたセリフは、喧騒の中に消える。
その夜にエレナが見たのは、幼い自分が閉じ込められた暗闇から逃げ出す夢で。
連れ出してくれたのは、剣を握る骨ばった優しい手だった。
これから先もきっと苦い思いの込み上げるどうしようもない夜はあるのだろう。
だが、そんな日があったとしても。
きっと、もうひとりで泣いたりしない。
朝を迎え目が覚めたエレナはそんな事を思いながら、からりと晴れた青空を眺め、ベッドの側に置かれていた菫色の羽織りを抱きしめたのだった。