死に戻り令嬢と顔のない執事
記憶にない彼
「さっきはありがとう。実のところ少し気分が悪かったから、助かったわ」
ハロルドが帰ったのを確認して執事然した男に声を掛けると、男は安堵したように小さな笑みを浮かべた。
「あんな男のために無理をなさらないでください。あの男、結局お嬢様を心配するひと言すらなかったですね……」
「仕方ないわ、彼の言うとおり辛気くさい女だもの。気遣う必要も感じられないのでしょう」
溜め息をつきながら、部屋の壁に飾られた鏡へちらりと目を走らせた。記憶通りの姿がそこには映し出されている。
老人のような白い長髪は重くまっすぐに落ちていて、最近の流行りの柔らかな巻き毛風のセットはほぼ落ちているし、そもそも似合っていない。
切れ長の薄い水色の瞳はキリリとしていて可愛さの欠片もなく、長身の身体は痩せて女性的な柔らかさからは程遠い。
血管が透ける程に白い肌もそれだけ挙げれば長所だが、白い髪、水色の瞳と色素の薄いパーツが相まって、その佇まいはまるで亡霊のよう。
こうしてあらためて見ても、可愛さの欠片もない外見だ。可憐さに満ちたハロルドの浮気相手とは真逆の姿。
「辛気くさいなんて、とんでもない!」
彼女としては至極当然のことを口にしただけだったのに、男は憤ったようにその言葉を否定する。
「お嬢様のように美しい方など、他には居ないというのに。お嬢様の優美で綺麗な御姿は、流行などに左右されない、絶対のものです」
あまりに買いかぶった男の賛辞に苦笑を浮かべながらリーシャは立ち上がった。
「ありがとう、その言葉だけでも嬉しいわ。ひとまず、自室に下がらせてちょうだい」
「かしこまりました」
リーシャの言葉を聞いて、彼はテキパキとメイドに室内着の手配等を指示しはじめる。その手際は慣れたもので、彼がこの屋敷で長く働いていることを窺わせた。
(それなのに……どうして、私は彼のことを知らないのかしら……?)
過去に戻ったのだとしたら、知らない人物が居ることは不自然だ。
底知れぬ不安を覚えながら、リーシャはズキズキと痛みを訴えるこめかみを手のひらで押さえて自室へと向かった。
♢♦︎♢
「ハロルド様の要望された素材を確認しましたが……どれも稀少で一般には流通していないものばかりですね」
室内着に着替えてひと息ついたところで、リーシャの元に男は再び現れた。その姿を見るに、彼はどうやらリーシャ付きの執事らしい。
自分に執事など居ただろうか――そんな疑問をリーシャが抱えているうちに、男はひと呼吸置いて「お言葉ですが」と言葉を続ける。
「素材の中には、違法なものもいくつか含まれています。禁忌とされている呪いや、悪魔召喚に使われるもの……ハロルド様はそういった禁術に手を出そうとしているのかもしれません。手に入れること自体は可能ですが、いかがいたしましょう」
――悪魔召喚、という言葉にリーシャは心臓を鷲掴みされたような痛みを覚えた。
かつての彼女が手をつけたとされる禁術……悪魔召喚。
そのための素材を集めたことで、リーシャは罪に問われた。そして罪を裁かれる前に、口封じのために殺されてしまった。
利用されるだけされて殺されてしまったから結果はわからないけれど、リーシャに罪を押し付けたハロルドは結局、悪魔を召喚したのだろうか。そして、自身の望みを叶えたのだろうか――そんなことを考えながら、リーシャはゆっくりと首を振る。
「その件に関しては、すぐ動かなくても良いわ。少し考えさせてちょうだい」
なにしろその素材を集め終えたら、ハロルドに殺されてしまうのだ。これからどうすべきか、先に考えをまとめたい。
「……承知いたしました」
リーシャの答えが意外だったのだろう。少しだけ目を見開いてから、男は静かに一礼した。
(まぁ今までの私だったら、少しでも早くハロルドの依頼に応えようとしていたものね……彼に、そしてお父様に認められるために)
彼の反応に苦い納得感を覚えつつ、リーシャは目の前の見覚えのない男にそっと目を向ける。
リーシャの傍らに控え、彼女の次の言葉を待つ執事。
黒い髪は短く切り揃えられ、薄暗い室内でも光を反射してサラサラとこぼれている。うつむき加減でもわかる、すっと通った鼻梁と綺麗な首筋。
背は長身のリーシャでも見上げる程に高い。黒い短髪とがっしりとした体躯は、執事というよりは護衛騎士の方が似合いそうな姿である。
年の頃は二十を少し過ぎたくらいだろうか。今年十八を迎えたリーシャより上には見えるが、その落ち着いた物腰のわりにはまだ年若い青年だ。
けれど不思議なことに、そうして個々のパーツがととのっていることは分かるのに、彼の外見は何処か漠然としていて記憶に残らない。
目を凝らせば凝らす程に正体が見えなくなるその感覚は、まるで夢の中で書を読もうとしている時のようだった。
ただひとつ確実に言えることは、いくら過去を浚っても彼に関する記憶は何もないということだけ。それは些か、不自然過ぎる程に。
「ねぇ」
声を掛けると、男はゆっくりとこちらを向く。そしてその瞳があらわになった途端、リーシャは思わず息を呑んだ。
今まで目にしたことのない、灰緑の瞳。ふたつの色が混じり合うような不思議な色調の瞳は、見ていて吸い込まれそうな程に深くて底が見えなかった。夜明けの空のような、黄昏時の影のような揺らめきで、その瞳はリーシャを深淵へと誘い込んでいく。
印象に残らない彼の姿の中で、その双眸だけはやけに鮮明にリーシャの記憶に刻み込まれる。
「貴方のその目……すごく、綺麗ね」
思わず言葉がこぼれ出した。その賛辞に、男は驚いたように顔を上げる。彼の表情に一瞬だけ歓喜と辛さのない混ぜになったやるせない感情が浮かび、そしてたちまちのうちに消えていった。
あまりに刹那の感情に、リーシャはその意味を読み解くことができない。
「貴方、名前は何というの」
「ツルギ、と申します」
突然名を問われたにも関わらず、答える声は落ち着いている。
「……そう。変わった名前ね」
「ロマの出身ですので。お嬢様に拾っていただき、この屋敷に置いていただけるようになりましたが」
「ロマの……」
ロマとは、定住せずに各地を渡り歩く民族のことだ。
音楽や踊り、占術などに秀でた者が多く、その実力は王城や貴族の館にも招かれる程に高い。そこで評価されて貴族の家に取り立てられるという話すら、珍しいものではなかった。
実際、婚約者であるハロルドの母親もかつてはロマの踊り子だった。
そこまで考えたリーシャは、ハロルドのことへと思考が誘導されて小さく息をついた。とにかく今は、落ち着いて考える時間が欲しい。
「今日はもう休むことにするわ」
「お薬、お持ちしましょうか」
「いえ、いいわ。疲れが出ただけだと思うから。貴方も下がってちょうだい」
「承知しました」
やがて足音が遠ざかっていく。
離れていく気配を耳で追いながら、リーシャはつい眉を顰めた。
――今去って行ったばかりの彼の顔が、上手く思い出せなかったのだ。