「恋愛ごっこ」をして過去に上書きしてみませんか?
第5話 「恋人ごっこ」をして過去に上書きしてみませんか?
また最終水曜日がやってくる。前回、山本さんに会ったとき、お互いのつらい過去について語り合った。人に聞いてもらうために淡々と話したが、自分でも驚くほど他人ごとのような感覚で話をしたのを覚えている。それで少し離れて自分自身のことを冷静に見られたと思う。
彼女が言ってくれたように自分はずいぶん変わったのかもしれない。あの時、一人で誠を育てられるのか心配していたが、誠は良い子に育っている。逃げると追いかけられる。何事も逃げずに向かいあえば何とかなるとの自信もついた。
彼女と話していたら気が楽になった。ほかの女性だったらどうだったろうか? 話したことがないから分からない。オーナー夫妻が聞いてくれた時もそれほど気持ちが楽になったとは思わなかった。もう一度彼女と話してみたいと思った。
今日は出かけるのが遅くなった。宿に着いたのは7時を過ぎていた。夕食は僕の分が残されていた。ママさんが厨房から出てきた。
「今日は遅かったですね。でもキャンセルの連絡がなかったので」
「出るときに急な仕事が入ったので」
「山本さんが心配されていましたよ。食事を済ませて今お風呂に入っていらっしゃいます」
「すぐに夕食をいただきます。ビールをお願いします」
ママさんは冷めていた料理をレンジで温めてくれた。食べているところに彼女がお風呂から出てきた。湯上りで髪をアップにしているのに目がいってしまう。笑顔で僕に会釈して部屋へ戻って行った。僕は彼女の笑顔を見てなぜかほっとした。
食事を終えて、僕もお風呂に入った。なぜか彼女の裸身を想像してしまった。それほどさっきの髪のアップと白いうなじが印象的で色っぽかった。
ラウンジでは彼女がもう歌っていた。「マリーゴールド」だと思う。僕は彼女の隣の止まり木に座った。そして小声でオーナーにジョニ黒の水割りを頼んだ。歌い終えたので拍手をする。
「少し明るい曲を歌うようになりましたか?」
「そう思いますか? オーナーご夫妻からもそう言われました」
「表情も少し明るくなっていると思います」
「先月、話を聞いてもらって、少し気が楽になったみたいです。そのせいかもしれません。お話するって必要なことなんですね」
「歌に出るんだね」
「中田さんも一曲歌ってください」
「『君はロックを聴かない』をお願いします」
「中田さんも少し曲の感じが変わった?」
「僕も今日は少し明るい曲を歌いたいと思って」
僕が歌っている間、彼女は熱心に聞いていてくれた。終わると拍手してくれた。僕は少し照れている。こんな感じは久しぶりだった。
「今日は気持ちが少し高ぶっています。こんな気持ち久しぶりです」
「私もです」
「ママ、『20歳のめぐり逢い』を歌ってくれませんか?」
「今日はどうしたのでしょうか? いつもとは少し違っていない?」
「いいの、少し前向きな歌が聞きたい気分なんです」
ママさんの歌を聞いている。70歳を超えているが声は若くて心に響く。ママさんにもいろいろなことがあったに違いない。歌にはそんな奥深さがある。
「私、あれからいろいろ考えてみました。自分ひとりでくよくよしていてもしょうがない。話を聞いてもらって吐き出して、忘れていくのが良いと思うようになりました。それには前向きにならなくてはと」
「だから、明るい歌を歌うようにしているのですね」
「そうです。少しでも前向きに」
「僕も同じです。話を聞いてもらって少し楽になりました。でも忘れようとしても忘れられないこともあります。それはそれで良しとしよう、それを糧にしようと思うことにしました」
「それも前向きな考え方ですね。良いと思います」
それから水割りを飲みながら三曲ずつ歌って二人は引き揚げてきた。歌い疲れたのかよく眠れた。
◆ ◆ ◆
朝、日の出を見に行こうと玄関に出てきたところで山本さんも出て来た。それで二人で一緒に歩いて行った。
「昨日は歌い疲れました。久しぶりに気持ちよく歌えたような気がします」
「僕もそうです。悲しい身につまされる曲が好きというか心情に合うと思って歌っていましたが、いつまでもそうではいけないと思って、やはり少しでも前向きの歌の方が楽しいですね」
「そうですね。そう思います」
岬の突端に来た。今日も晴天で朝日が昇ってもう明るくなっている。海がキラキラ輝いている。これを見ていると気持ちが鼓舞される。
「山本さん、唐突ですが、僕と『恋愛ごっこ』をしてくれませんか?」
「『恋愛ごっこ』ですか?」
『ごっこ』というのは本気じゃなくていいんです。もちろん真似をするだけです。そして忘れられないことに上書きしてみませんか? 過去に上書きしてみませんか? それがお芝居でも良いと思っています」
「上書きするってどういうことですか?」
「パソコンを廃棄するときにどうすべきか知っていますか?」
「ええ、残っている個人情報が悪用されないように、初期化すればいいんじゃないですか」
「そのとおりですが、回復ソフトというのがあって元に戻せるんです。誤って情報を消してしまった場合のためのソフトですが、それを使えば可能です」
「じゃあ、どうすればいいんですか?」
「データ消去ソフトというのがあって、パソコンのハードディスクのデータに複数回の上書きをして元のデータを復元できないようにします」
「そういう方法なんですね」
「忘れられない過去の記憶に新しい思い出を何回も上書きして過去を思い出せなくするのです」
「それならやってみましょうか、その『恋愛ごっこ』を」
「そうですか、山本さんとならやれそうな気がして、ここへ来る途中で考えていました」
「私の方こそ、お願いします」
「それじゃあ、さっそく来月第1回目の『恋愛ごっこ』をしましょうか?」
「どうしますか?」
「宿へ早めに来ることはできますか?」
「早くても3時ごろですが、遅れるかもしれません」
「翌日は何時までに帰れば良いのですか?」
「12時までに着ければ良いのですが」
「僕も昼までに帰れば良いので、朝早く僕の車でどこかへ行きませんか? もちろんあなたの車でも良いのですが、10時過ぎにここへ戻って来て、それから帰ることでどうですか?」
「それなら時間にゆとりがありますから、そうしましょう」
無理かとも思ってお願いしたが、受け入れてもらえた。約束はできた。来月が楽しみだ。どこへ行こうか?
彼女が言ってくれたように自分はずいぶん変わったのかもしれない。あの時、一人で誠を育てられるのか心配していたが、誠は良い子に育っている。逃げると追いかけられる。何事も逃げずに向かいあえば何とかなるとの自信もついた。
彼女と話していたら気が楽になった。ほかの女性だったらどうだったろうか? 話したことがないから分からない。オーナー夫妻が聞いてくれた時もそれほど気持ちが楽になったとは思わなかった。もう一度彼女と話してみたいと思った。
今日は出かけるのが遅くなった。宿に着いたのは7時を過ぎていた。夕食は僕の分が残されていた。ママさんが厨房から出てきた。
「今日は遅かったですね。でもキャンセルの連絡がなかったので」
「出るときに急な仕事が入ったので」
「山本さんが心配されていましたよ。食事を済ませて今お風呂に入っていらっしゃいます」
「すぐに夕食をいただきます。ビールをお願いします」
ママさんは冷めていた料理をレンジで温めてくれた。食べているところに彼女がお風呂から出てきた。湯上りで髪をアップにしているのに目がいってしまう。笑顔で僕に会釈して部屋へ戻って行った。僕は彼女の笑顔を見てなぜかほっとした。
食事を終えて、僕もお風呂に入った。なぜか彼女の裸身を想像してしまった。それほどさっきの髪のアップと白いうなじが印象的で色っぽかった。
ラウンジでは彼女がもう歌っていた。「マリーゴールド」だと思う。僕は彼女の隣の止まり木に座った。そして小声でオーナーにジョニ黒の水割りを頼んだ。歌い終えたので拍手をする。
「少し明るい曲を歌うようになりましたか?」
「そう思いますか? オーナーご夫妻からもそう言われました」
「表情も少し明るくなっていると思います」
「先月、話を聞いてもらって、少し気が楽になったみたいです。そのせいかもしれません。お話するって必要なことなんですね」
「歌に出るんだね」
「中田さんも一曲歌ってください」
「『君はロックを聴かない』をお願いします」
「中田さんも少し曲の感じが変わった?」
「僕も今日は少し明るい曲を歌いたいと思って」
僕が歌っている間、彼女は熱心に聞いていてくれた。終わると拍手してくれた。僕は少し照れている。こんな感じは久しぶりだった。
「今日は気持ちが少し高ぶっています。こんな気持ち久しぶりです」
「私もです」
「ママ、『20歳のめぐり逢い』を歌ってくれませんか?」
「今日はどうしたのでしょうか? いつもとは少し違っていない?」
「いいの、少し前向きな歌が聞きたい気分なんです」
ママさんの歌を聞いている。70歳を超えているが声は若くて心に響く。ママさんにもいろいろなことがあったに違いない。歌にはそんな奥深さがある。
「私、あれからいろいろ考えてみました。自分ひとりでくよくよしていてもしょうがない。話を聞いてもらって吐き出して、忘れていくのが良いと思うようになりました。それには前向きにならなくてはと」
「だから、明るい歌を歌うようにしているのですね」
「そうです。少しでも前向きに」
「僕も同じです。話を聞いてもらって少し楽になりました。でも忘れようとしても忘れられないこともあります。それはそれで良しとしよう、それを糧にしようと思うことにしました」
「それも前向きな考え方ですね。良いと思います」
それから水割りを飲みながら三曲ずつ歌って二人は引き揚げてきた。歌い疲れたのかよく眠れた。
◆ ◆ ◆
朝、日の出を見に行こうと玄関に出てきたところで山本さんも出て来た。それで二人で一緒に歩いて行った。
「昨日は歌い疲れました。久しぶりに気持ちよく歌えたような気がします」
「僕もそうです。悲しい身につまされる曲が好きというか心情に合うと思って歌っていましたが、いつまでもそうではいけないと思って、やはり少しでも前向きの歌の方が楽しいですね」
「そうですね。そう思います」
岬の突端に来た。今日も晴天で朝日が昇ってもう明るくなっている。海がキラキラ輝いている。これを見ていると気持ちが鼓舞される。
「山本さん、唐突ですが、僕と『恋愛ごっこ』をしてくれませんか?」
「『恋愛ごっこ』ですか?」
『ごっこ』というのは本気じゃなくていいんです。もちろん真似をするだけです。そして忘れられないことに上書きしてみませんか? 過去に上書きしてみませんか? それがお芝居でも良いと思っています」
「上書きするってどういうことですか?」
「パソコンを廃棄するときにどうすべきか知っていますか?」
「ええ、残っている個人情報が悪用されないように、初期化すればいいんじゃないですか」
「そのとおりですが、回復ソフトというのがあって元に戻せるんです。誤って情報を消してしまった場合のためのソフトですが、それを使えば可能です」
「じゃあ、どうすればいいんですか?」
「データ消去ソフトというのがあって、パソコンのハードディスクのデータに複数回の上書きをして元のデータを復元できないようにします」
「そういう方法なんですね」
「忘れられない過去の記憶に新しい思い出を何回も上書きして過去を思い出せなくするのです」
「それならやってみましょうか、その『恋愛ごっこ』を」
「そうですか、山本さんとならやれそうな気がして、ここへ来る途中で考えていました」
「私の方こそ、お願いします」
「それじゃあ、さっそく来月第1回目の『恋愛ごっこ』をしましょうか?」
「どうしますか?」
「宿へ早めに来ることはできますか?」
「早くても3時ごろですが、遅れるかもしれません」
「翌日は何時までに帰れば良いのですか?」
「12時までに着ければ良いのですが」
「僕も昼までに帰れば良いので、朝早く僕の車でどこかへ行きませんか? もちろんあなたの車でも良いのですが、10時過ぎにここへ戻って来て、それから帰ることでどうですか?」
「それなら時間にゆとりがありますから、そうしましょう」
無理かとも思ってお願いしたが、受け入れてもらえた。約束はできた。来月が楽しみだ。どこへ行こうか?