王子様はマーメイドを恋の海に溺れさせて
「……どうしよう、誰か、誰か!」

 心細さすら吸収してしまう闇に立ち上がれない。扉を打っていた手が垂れ、西園寺氏のハンカチへ視線を落とす。

 すっかり濡れてしまったものの、刺繍されたイニシャルは不思議と認識できる。
 『H・Y』指の腹でなぞっても、そう記してあった。彼のイニシャルであれば『H・S』なのだがーー。

 あぁ、寒さと恐怖から思考が纏まらない。私は膝を抱え、身体を小さく折り畳む。

「お父さん、お母さん助けて」

 いい歳になっても両親を呼ぶ。二人共、嵐の日は外出してはいけないと口を酸っぱくして言っていたっけ。

 花梨ちゃんの件があって私達はその教えを守ると約束したくせ、懲りずにこんな目に遭っている。

(花梨ちゃんが海に行ったのは人魚姫の影響だったなぁ)

 事故は私が読み聞かせた童話が切っ掛けであったのを巡らす。泳ぎが得意な花梨ちゃんは人魚姫になりきり、存在しない王子様を救うとしたのだ。

 怪我がなければ笑い話として思い出の一ページにでもなろうが、あの傷が花梨ちゃんの競泳選手生命を絶たせた。花梨ちゃんは私より才能があり、世界的に活躍できたかもしれない。

 この手が潰してしまった花梨ちゃんの可能性や未来を思うと胸が裂けそうになる。泣きたい。

 でも、私には泣く資格なんてないから。

 悲劇のヒロインの振りなどしたくない、するものかと唇を噛む。
< 49 / 140 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop