【リレーヒューマンドラマ】佐伯達男のおへんろさん
【東日本大震災】
Dテレビを退職したぼくは、11年間のブランクを経て再び報道の現場に復帰した。
ぼくは、三陸気仙沼にあるケーブルテレビ局のアナウンサーになった。
ぼくは、地域のニュースの担当を任された。
地域の小学校の入学式や運動会の話題や街の夏祭りの話題などを伝えた。
地域住民と共に歩み続けて20年の歳月《とき》が流れた。
仕事が軌道に乗ってこれからだと言う時に、ぼくの運命が大きく狂った。
忘れもしない2011年3月11日…
あの日、ぼくの運命が大きく狂った。
あの日、ぼくは気仙沼の漁港の近くにある公園にいた。
地域の独身の男女が恋人を募集している番組のロケーションが行われた。
この日は、28歳の地元の信用金庫の女性の職員さんが同じ番組の中でアピールしていた32歳の漁師さんの男性にお付き合いを申し込みたいと言うので、特別編の収録を午後3時頃から行う予定だった。
先に信用金庫の女性の職員さんが来ていたが申し込まれた人がまだ来ていなかった。
申し込まれた漁師さんの男性の人が寝坊したので少し遅れるから開始時刻を変更してくださいと言う電話があった。
この時、スタッフさんたちが申し込まれた男性の家に電話した。
申し込まれた男性は『自信がない…』と泣きそうな声で言うたので、スタッフさんたちが怒った声で『今すぐに来なさい!!』と言うた。
いつになったら開始できるのだ…
司会進行役のぼくは、ひどくイラついた。
その時であった。
(ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ!!ドスーン!!ズシーン!!ズシーン!!)
この時、激しい縦揺れが街に響いた。
時計のはりは、2時46分をさしていた。
それから何分か後に激しい縦揺れがおさまった。
ふう…
死ぬかと思った…
しかし、その直後だった。
防災行政無線のスピーカーから何度も何度もサイレンが鳴り響いた。
この時、ワンセグを見ていたスタッフさんが『大津波警報が出た!!』と叫んだ。
大変だ!!
高台に避難しないと…
火の海に包まれてしまう…
ぼくは、出演者の信用金庫の女性の職員さんとロケーションスタッフさんたちと一緒に大急ぎで離れました。
ぼくたちは、高台を目指して避難を始めた。
海岸から離れたのはいいが、いつになったら高台の公園に着くのか?
ぼくたちは、不安な表情で高台を目指して避難した。
午後3時25分頃であった。
ぼくたちは、高台の公園に到着した。
市内各所から避難をしてきた人たちが高台の広場に集まっていた。
それから2分後であった。
(ドドドドド…グォーグォー…ドカーン!!)
恐ろしい火の竜が海から現れた。
海が燃えている…
(ドカーン!!ドドドドド!!
気仙沼市内は、火の海に包まれた。
高台に避難をしてきた住民たちは、火の海に包まれた街を目の当たりにしたのでおどろきと悲しみの表情を浮かべた。
この時、思い出したくもないことを思い出した。
あれは…
昭和21年のことだった。
ぼくは、昭和21年の南海大地震の現場を目の当たりにした。
あの時、ぼくは和歌山県のみなべ町にあるおじの家にいた。
戦時中に、母と幼い兄弟妹《きょうだい》たちと共に東京から父方の実家があるみなべ町に疎開した。
終戦の年に不幸な出来事がつづいた。
父がインパール作戦のさ中に戦死《ぎょくさい》した…
おじの家の長男も、ラバウルで戦死《ぎょくさい》した…
さらに、おじの長女が広島市内の工場で朝礼中に発生した原爆投下で亡くなった…
更にその上にまた、満州に渡っていたおばたちが引き揚げのさ中にソ連兵に連れて行かれた…
不幸事がつづいている中で、南海大地震が発生した。
ぼくは、母と幼い兄弟妹《きょうだい》たちと共に高台に避難した。
その時、紀伊水道で恐ろしい火の竜が現れたのぼくは見た。
あの時に見た恐ろしい火の竜が…
またよみがえった…
ボウゼンジシツのぼくは、何も言えずにたたずんでいた。
それから4日後であった。
津波に関する警報注意報が解除された。
ぼくは、変わり果てた気仙沼市内《しないちゅうしんぶ》をトボトボと歩いた。
津波によって打ち上げられた漁船が街のあちらこちらにあった。
揮発油のきついにおいがただよっていた…
街の人々は、途方にくれていた。
この時、ぼくはDテレビにいた時のことを思い出した。
昭和47年に発生した北陸地方の急行列車の火災事故の時、棺《ひつぎ》の安置所でひどく泣きじゃくっているご遺族のみなさまに対して名古屋のLテレビのリポーターが行き過ぎたインタビューをしていた…
あれは許せない!!
もういやだ…
あんな理不尽な現場を見るのはもうたくさんだ…
そう思っていた時だった。
ところ変わって、JR南気仙沼駅の付近にて…
ぼくは、ひどいやけどを負って苦しんでいる男性を見かけた。
Dテレビ時代の時にぼくが配属されていた報道局の元キャップだった。
キャップは、大震災が発生した時間帯に気仙沼市内にあるスーパーストアにいた。
逃げ遅れたことが原因でひどい火傷を負った。
ぼくは、苦しんでいるキャップに声をかけた。
キャップは、か細い声でぼくに言うた。
「バチが当たったのだよ…視聴率第一主義だ…万が一があれば火消し役がいると言うて丸投げをした結果、ブザマな目にあった…マスコミ人失格は…わしだ…」
キャップは、ぼくに言い残したあと亡くなった。
ぼくは、三陸気仙沼にあるケーブルテレビ局のアナウンサーになった。
ぼくは、地域のニュースの担当を任された。
地域の小学校の入学式や運動会の話題や街の夏祭りの話題などを伝えた。
地域住民と共に歩み続けて20年の歳月《とき》が流れた。
仕事が軌道に乗ってこれからだと言う時に、ぼくの運命が大きく狂った。
忘れもしない2011年3月11日…
あの日、ぼくの運命が大きく狂った。
あの日、ぼくは気仙沼の漁港の近くにある公園にいた。
地域の独身の男女が恋人を募集している番組のロケーションが行われた。
この日は、28歳の地元の信用金庫の女性の職員さんが同じ番組の中でアピールしていた32歳の漁師さんの男性にお付き合いを申し込みたいと言うので、特別編の収録を午後3時頃から行う予定だった。
先に信用金庫の女性の職員さんが来ていたが申し込まれた人がまだ来ていなかった。
申し込まれた漁師さんの男性の人が寝坊したので少し遅れるから開始時刻を変更してくださいと言う電話があった。
この時、スタッフさんたちが申し込まれた男性の家に電話した。
申し込まれた男性は『自信がない…』と泣きそうな声で言うたので、スタッフさんたちが怒った声で『今すぐに来なさい!!』と言うた。
いつになったら開始できるのだ…
司会進行役のぼくは、ひどくイラついた。
その時であった。
(ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ!!ドスーン!!ズシーン!!ズシーン!!)
この時、激しい縦揺れが街に響いた。
時計のはりは、2時46分をさしていた。
それから何分か後に激しい縦揺れがおさまった。
ふう…
死ぬかと思った…
しかし、その直後だった。
防災行政無線のスピーカーから何度も何度もサイレンが鳴り響いた。
この時、ワンセグを見ていたスタッフさんが『大津波警報が出た!!』と叫んだ。
大変だ!!
高台に避難しないと…
火の海に包まれてしまう…
ぼくは、出演者の信用金庫の女性の職員さんとロケーションスタッフさんたちと一緒に大急ぎで離れました。
ぼくたちは、高台を目指して避難を始めた。
海岸から離れたのはいいが、いつになったら高台の公園に着くのか?
ぼくたちは、不安な表情で高台を目指して避難した。
午後3時25分頃であった。
ぼくたちは、高台の公園に到着した。
市内各所から避難をしてきた人たちが高台の広場に集まっていた。
それから2分後であった。
(ドドドドド…グォーグォー…ドカーン!!)
恐ろしい火の竜が海から現れた。
海が燃えている…
(ドカーン!!ドドドドド!!
気仙沼市内は、火の海に包まれた。
高台に避難をしてきた住民たちは、火の海に包まれた街を目の当たりにしたのでおどろきと悲しみの表情を浮かべた。
この時、思い出したくもないことを思い出した。
あれは…
昭和21年のことだった。
ぼくは、昭和21年の南海大地震の現場を目の当たりにした。
あの時、ぼくは和歌山県のみなべ町にあるおじの家にいた。
戦時中に、母と幼い兄弟妹《きょうだい》たちと共に東京から父方の実家があるみなべ町に疎開した。
終戦の年に不幸な出来事がつづいた。
父がインパール作戦のさ中に戦死《ぎょくさい》した…
おじの家の長男も、ラバウルで戦死《ぎょくさい》した…
さらに、おじの長女が広島市内の工場で朝礼中に発生した原爆投下で亡くなった…
更にその上にまた、満州に渡っていたおばたちが引き揚げのさ中にソ連兵に連れて行かれた…
不幸事がつづいている中で、南海大地震が発生した。
ぼくは、母と幼い兄弟妹《きょうだい》たちと共に高台に避難した。
その時、紀伊水道で恐ろしい火の竜が現れたのぼくは見た。
あの時に見た恐ろしい火の竜が…
またよみがえった…
ボウゼンジシツのぼくは、何も言えずにたたずんでいた。
それから4日後であった。
津波に関する警報注意報が解除された。
ぼくは、変わり果てた気仙沼市内《しないちゅうしんぶ》をトボトボと歩いた。
津波によって打ち上げられた漁船が街のあちらこちらにあった。
揮発油のきついにおいがただよっていた…
街の人々は、途方にくれていた。
この時、ぼくはDテレビにいた時のことを思い出した。
昭和47年に発生した北陸地方の急行列車の火災事故の時、棺《ひつぎ》の安置所でひどく泣きじゃくっているご遺族のみなさまに対して名古屋のLテレビのリポーターが行き過ぎたインタビューをしていた…
あれは許せない!!
もういやだ…
あんな理不尽な現場を見るのはもうたくさんだ…
そう思っていた時だった。
ところ変わって、JR南気仙沼駅の付近にて…
ぼくは、ひどいやけどを負って苦しんでいる男性を見かけた。
Dテレビ時代の時にぼくが配属されていた報道局の元キャップだった。
キャップは、大震災が発生した時間帯に気仙沼市内にあるスーパーストアにいた。
逃げ遅れたことが原因でひどい火傷を負った。
ぼくは、苦しんでいるキャップに声をかけた。
キャップは、か細い声でぼくに言うた。
「バチが当たったのだよ…視聴率第一主義だ…万が一があれば火消し役がいると言うて丸投げをした結果、ブザマな目にあった…マスコミ人失格は…わしだ…」
キャップは、ぼくに言い残したあと亡くなった。