16歳年下の恋人は、そう甘くはなかった
エピローグ
6年後、2023年9月。
都心のとあるマンションのリビング。テレビから、大きな歓声が鳴り響いている。
FIBAバスケットボールワールドカップの、日本対カーボベルデ戦が今終わったところだ。
「いや、もう見てるだけで疲れた~。こんなに緊張したのは初めてだよ。自分が出てる方がマシだわ~」
「パリオリンピック出場が決まって良かったね。バスケは間違いなくこれからもっと日本でも注目されるよ。去年は、スラムダンクの映画も公開されたし、バスケブーム到来だね」
トオルはこの春のシーズン閉幕と同時に引退し、六年間という短いプロ生活に終止符を打った。
最後まで1部リーグのチームを牽引するエースとして、惜しまれて引退した。
周りはまだまだ彼の活躍を期待し引き止めたが、本人はサッパリとした様子だった。
今は、出身大学のチームの臨時コーチとして指導に当たっていて、プレーヤーとしての未練は微塵もないようだ。
「パパも出てたらよかったのに、ね~」
マヤがキッチンから戻り、缶ビールのプルタブをあけながら、隣に座るトオルの膝の上の幼い少女に顔を寄せる。
「パパ、ここがいい。テレビの中、いや」
ディズニーアニメの主人公がプリントされたパジャマを身に付けたその少女は、大きな瞳をキラキラさせて、自分を包んでいる太くて逞しい腕をポンポンと叩く。
「だよな~、ハルはずっとパパと一緒にテレビを観るのがいいよな」
大きな体を屈めて、腕の中の石鹸の匂いがする小さな顔に頬ずりをすると、キャッキャッと高い声でハルが笑う。
「パパ見て。これママに買ってもらった」
少女はまだ折り目のついた真新しいパジャマの胸の部分を、小さな手で摘まみ上げ得意げに言う。
毒入りリンゴで眠らされる美しいお姫様のプリントだ。
「うん、可愛いね。お姫様だな」
「王子さまはいないの」
「そうだね、王子さまはどこにいないね」
トオルがハルのパジャマをつまんであちこち見回す。
「可哀そう~」
小さくてフワフワの眉を寄せて目を伏せる。
が、次の瞬間にはその顔はパーっと明るくなった。
「ハルの王子さまはパパだよね」
「え?」
「ハルはお姫様だから、パパはハルの王子様」
小さな唇を引き結び、白くて丸い顎を突き出す。
保育園に通い始めてから、表情がずっと豊かになったような気がする。
キラキラした瞳で父親を見つめている姿が微笑ましい。
「残念でした〜。パパは王子様だけど、ハルの王子様じゃありません~」
「ええ?」
マヤは飲んでいた缶ビールを吹き出しそうになった。
ハルの表情がさっと曇る。
「パパのお姫様は、ママでした~」
ハルがトオルの腕の中から体を起こし、隣に座るマヤを覗き込む。
そしてまた顔をトオルの方に向けると、みるみるうちにその小さな顔がゆがんだ。
「ちょっと、トオル」
マヤは眉間に皺を寄せ、トオルをたしなめた。
「あ、ごめんごめん、ハル」
少女の両脇のすき間に大きなトオルの手が入ると、ふわっと少女は浮いて、トオルと向かい合わせになる。
「でも、パパのお姫様はママだから」
この人はこういうところがある。大人も子供も関係ないのだ。
呆れた顔でマヤはハルの方に手を伸ばし、尖らせているピンクの唇をちょんちょんと突いた。
しかし、その手は小さく細い腕に、にべもなく払いのけられた。
「いや!ハルがパパのお姫様!」
「お姫様はママ」
いい加減にして、と手のひらを払い、マヤはトオルを睨む。
不穏な空気が漂うリビングに、陽気なテレビCMが流れている。
「じゃあ、ハルは…?」
ハルの大きな透き通った瞳からは、今にも涙が零れ落ちそうだ。
「ハルはね」
トオルは少女のさらさらの髪を撫でながらいった。
「パパの、、、天使だよ」
「天使?」
「そ。パパとママの天使。エンジェル」
「天使って?」
「パパとママを最高に幸せにしてくれる人。天使がいなかったら王子様とお姫様はこの世界で生きていけない。だから天使のハルは、パパたちにとってこの世で一番かわいくて大切な存在なんだ」
少女は一瞬首を傾げながら、何かを考える様子だったが、すぐに父親を見上げて聞いた。
「天使って、ドレス着れる?」
「もちろん。どんなドレスも世界一似合う人が天使だよ」
トオルは抱き上げたままの天使を自分の顔に引き寄せ、その茹で卵のようにすべすべの白いおでこにキスをした。
大きな目をぱちくりさせているハルをそのまま膝に載せると、今度は長い左腕を伸ばし、隣に座るマヤの肩を抱き寄せた。
ふわりと柔らかな笑顔をマヤに向けると、そのまま体ごと顔を近づける。
天使は大きな右腕に抱きかかえられたまま、王子さまがお姫様に優しいキスを落とすのを、黙って見つめていた。
完
都心のとあるマンションのリビング。テレビから、大きな歓声が鳴り響いている。
FIBAバスケットボールワールドカップの、日本対カーボベルデ戦が今終わったところだ。
「いや、もう見てるだけで疲れた~。こんなに緊張したのは初めてだよ。自分が出てる方がマシだわ~」
「パリオリンピック出場が決まって良かったね。バスケは間違いなくこれからもっと日本でも注目されるよ。去年は、スラムダンクの映画も公開されたし、バスケブーム到来だね」
トオルはこの春のシーズン閉幕と同時に引退し、六年間という短いプロ生活に終止符を打った。
最後まで1部リーグのチームを牽引するエースとして、惜しまれて引退した。
周りはまだまだ彼の活躍を期待し引き止めたが、本人はサッパリとした様子だった。
今は、出身大学のチームの臨時コーチとして指導に当たっていて、プレーヤーとしての未練は微塵もないようだ。
「パパも出てたらよかったのに、ね~」
マヤがキッチンから戻り、缶ビールのプルタブをあけながら、隣に座るトオルの膝の上の幼い少女に顔を寄せる。
「パパ、ここがいい。テレビの中、いや」
ディズニーアニメの主人公がプリントされたパジャマを身に付けたその少女は、大きな瞳をキラキラさせて、自分を包んでいる太くて逞しい腕をポンポンと叩く。
「だよな~、ハルはずっとパパと一緒にテレビを観るのがいいよな」
大きな体を屈めて、腕の中の石鹸の匂いがする小さな顔に頬ずりをすると、キャッキャッと高い声でハルが笑う。
「パパ見て。これママに買ってもらった」
少女はまだ折り目のついた真新しいパジャマの胸の部分を、小さな手で摘まみ上げ得意げに言う。
毒入りリンゴで眠らされる美しいお姫様のプリントだ。
「うん、可愛いね。お姫様だな」
「王子さまはいないの」
「そうだね、王子さまはどこにいないね」
トオルがハルのパジャマをつまんであちこち見回す。
「可哀そう~」
小さくてフワフワの眉を寄せて目を伏せる。
が、次の瞬間にはその顔はパーっと明るくなった。
「ハルの王子さまはパパだよね」
「え?」
「ハルはお姫様だから、パパはハルの王子様」
小さな唇を引き結び、白くて丸い顎を突き出す。
保育園に通い始めてから、表情がずっと豊かになったような気がする。
キラキラした瞳で父親を見つめている姿が微笑ましい。
「残念でした〜。パパは王子様だけど、ハルの王子様じゃありません~」
「ええ?」
マヤは飲んでいた缶ビールを吹き出しそうになった。
ハルの表情がさっと曇る。
「パパのお姫様は、ママでした~」
ハルがトオルの腕の中から体を起こし、隣に座るマヤを覗き込む。
そしてまた顔をトオルの方に向けると、みるみるうちにその小さな顔がゆがんだ。
「ちょっと、トオル」
マヤは眉間に皺を寄せ、トオルをたしなめた。
「あ、ごめんごめん、ハル」
少女の両脇のすき間に大きなトオルの手が入ると、ふわっと少女は浮いて、トオルと向かい合わせになる。
「でも、パパのお姫様はママだから」
この人はこういうところがある。大人も子供も関係ないのだ。
呆れた顔でマヤはハルの方に手を伸ばし、尖らせているピンクの唇をちょんちょんと突いた。
しかし、その手は小さく細い腕に、にべもなく払いのけられた。
「いや!ハルがパパのお姫様!」
「お姫様はママ」
いい加減にして、と手のひらを払い、マヤはトオルを睨む。
不穏な空気が漂うリビングに、陽気なテレビCMが流れている。
「じゃあ、ハルは…?」
ハルの大きな透き通った瞳からは、今にも涙が零れ落ちそうだ。
「ハルはね」
トオルは少女のさらさらの髪を撫でながらいった。
「パパの、、、天使だよ」
「天使?」
「そ。パパとママの天使。エンジェル」
「天使って?」
「パパとママを最高に幸せにしてくれる人。天使がいなかったら王子様とお姫様はこの世界で生きていけない。だから天使のハルは、パパたちにとってこの世で一番かわいくて大切な存在なんだ」
少女は一瞬首を傾げながら、何かを考える様子だったが、すぐに父親を見上げて聞いた。
「天使って、ドレス着れる?」
「もちろん。どんなドレスも世界一似合う人が天使だよ」
トオルは抱き上げたままの天使を自分の顔に引き寄せ、その茹で卵のようにすべすべの白いおでこにキスをした。
大きな目をぱちくりさせているハルをそのまま膝に載せると、今度は長い左腕を伸ばし、隣に座るマヤの肩を抱き寄せた。
ふわりと柔らかな笑顔をマヤに向けると、そのまま体ごと顔を近づける。
天使は大きな右腕に抱きかかえられたまま、王子さまがお姫様に優しいキスを落とすのを、黙って見つめていた。
完