私の好きな人には、好きな人がいます
ラベンダーの入浴剤の香りに包まれながら、愛華の口元は緩んでいた。
「三浦くん…三浦くんかぁ…」
今日は水原にこっぴどくお叱りを受け、椿の姿を見られなかった。そんな日にまさか椿と直接話す機会がやってくるとは思わなかった。
なんてラッキー!と思い掛けて、よくよく考えてみれば電車に轢かれて死ぬ寸前だったことにようやく思い至る。遅延によってホームが混雑していたとはいえ、思い返してみるとぶるりと身体に震えが走った。
怖い思いをしたのだ。他のことで気を紛らわそうとしても、深層心理や潜在意識までは誤魔化しようがない。
(…ピアノの練習、しなきゃ)
愛華は肩までゆっくりと湯船に浸かって、頭を何とかピアノに切り替える。発表会が近い。椿のことならまだしも、怖い思いをしたことなんかに脳のリソースを割くだけ無駄だ。
「よし!」
気合を入れ風呂から上がった愛華は、ピアノに向き合った。
しかしそれでも、夜に電気を消し目を瞑ると、瞼の裏に焼き付いた目の前に迫る電車の映像がフラッシュバックする。耳をつんざく様な警笛の音が聞こえるような気さえしてくる。
愛華は慌てて閉じていた目を開け、枕元で充電していたスマートフォンを手に取る。
普段は寝る直前にスマートフォンを触るようなことはしない。寝付きや睡眠の質が悪くなると訊くし、寝る一時間前から見ないように徹底しているのだが、今日はどうにも心が落ち着かなくて、真っ暗な部屋の中スマートフォンを付けてしまった。
何か落ち着く様なクラシックを流そうか。それとも猫や犬などの可愛い動物たちの動画で癒されようか。
そんなことを考えながらも、愛華の指は自然とメッセージアプリを開いていた。
新着通知にはっとするも、メッセージ相手は水原であり、明日のレッスンがどうのこうのと書かれていたので、げんなりしてメッセージを閉じた。返信は明日教室で会った時でもいいだろう。
友だち欄を開き、「新しい友達」に表示されている一つの名前を見つめる。
(あ、三浦くんのアイコン、柴犬だ。飼ってるのかな?)
画面のこちらに向けてにへらと笑う柴犬が、何だか妙に愛らしい。柴犬にリードを引っ張られながら笑顔で走っている椿を想像して、愛華はまた口元が緩んだ。
(走ること以外には、どんなことが好きなのかな。どんな曲を聞いたりするんだろう。好きな食べ物とか、誕生日だって知りたい)
愛華は椿に想いを馳せる。そうしているうちに段々と眠気がやってきて、気が付くと愛華は意識を手放していた。