惨夢
「……ちょっと待て」
普段より低めた声で朝陽くんが言う。
彼はふらりと踏み出し、そこからは迷いのない足取りで一直線に夏樹くんの元へ進んでいった。
「おまえ、それ2本増えてるよな」
確かめるような口調で、凄みをきかせたまま彼の腕を掴む。
「増えてるけど?」
夏樹くんは、それが何だ、とでも言いたげだった。
憎らしいほど泰然自若としている。
「まさか……」
朝陽くんが結論を口にする前に、素早く高月くんが動いた。
わたしの左腕を取り、半ば確信を持ったような動きで袖を捲る。
そこに傷は2本しかない。
それは紛うことなき事実だった。
「……っ」
慌てて腕を引っ込める。
本当は、できれば言いたくなかった。これ以上、険悪になってこじれてしまうのが怖くて。
夏樹くんに対する怒りや哀しみはあるけれど、それは自分の中でどうにか折り合いをつければ、閉じ込めておけると思った。
それよりも、みんなで協力することを優先したかった。
でも、どのみち無理だった。
奪い、奪われるというシステムなら、残機数の計算が合わなくなるから隠し通せない。
「ふざけんな!」
事態を飲み込むと、今度は朝陽くんが夏樹くんに怒りをぶつけた。
飛びかかるような勢いで胸ぐらを掴んでいる。
「何でそう自分のことしか考えないんだよ! 昨日だって、花鈴はおまえのこと心配してたのに────」
じわ、と気づいたら目の前が滲んでいた。
急に込み上げてきて自分でもびっくりしてしまう。
わたしがさっさと諦めた、わたしのために怒るという感情と権利を、朝陽くんは認めてくれた。
自分で投げ出したことだけれど、代わりに怒ってくれたことでちょっと救われたように思えた。
「だーかーら」
夏樹くんがため息混じりの面倒そうな言い方で反論する。
「残機、返して欲しいなら俺を殺しに来ればいいじゃん」
気だるげな動きで、朝陽くんの指を一本ずつ剥がしていく。
そういう問題じゃない。
そんな話をしているんじゃない。
だけど、その言葉は間違ってもいない。少なくとも、倫理や道徳を抜きにした理論上は。
「ま、返り討ちにしてやるけどな」
そう言うと、最後に朝陽くんの手を払い除けた。
不機嫌そうに彼を見据えたまま、乱れた襟元を正している。
「……最悪」
ぽつりと柚が呟く。最早、激しく罵る気力も湧かないといった具合だった。
本当に最悪だ。最悪の状況だ。
その場に崩れ落ちそうになるのを、わたしはどうにか気力でこらえていた。