惨夢

「!」

 ふと、壁に光が当たって息をのんだ。

 職員室前の壁、その一部分に、塗料をぶちまけたみたいに鮮やかな血の跡が広がっている。

 ちょうど目線の高さくらいだ。そこから垂れた血が、床にも染みを広げていた。

(まさか……)

 あの化け物が何かをしていた痕跡(こんせき)だろうか。
 何を、と考えかけてすぐにひらめく。

 恐らく、頭を打ちつけていたのだ。何度も何度も何度も何度も。狂ったように笑いながら。

 ぞっとした。
 その様を想像し、悪寒(おかん)が止まらなくなる。

 わたしは逃げるようにその場をあとにすると、南校舎側へ駆けていった。



 東階段を通り過ぎ、まずは一番端である保健室へ向かう。
 そのときだった。

「ねぇ」

 不意に声をかけられ、驚いて肩が跳ねる。
 身を硬くしながら振り向いた。

「……柚?」

 いつもの彼女らしくない、感情の(とぼ)しい無機質な声色だった。
 (いぶか)しく思いながら照らすと、階段から柚が現れる。

「夏樹知らない?」

 彼女の姿を見て、一瞬ぎょっとした。あの化け物が現れたのかと。

「柚、それ……っ」

 顔にも制服にも真っ赤な血飛沫を浴びている。怪物の手形みたいな返り血が、濃くべったりと染みていた。

 彼女が緩慢(かんまん)とした動きで腕をもたげ、逆手(さかて)で握り締めている包丁を見下ろす。
 光を弾き、鈍色(にびいろ)にぎらついた。

「刺そうと思ったんだけど……逃げられちゃった」

 ゆったりとした口調が、常軌(じょうき)(いっ)していることを如実(にょじつ)に示す。

 今の柚は(たが)が外れている。ぞくりと背筋が凍えた。

「あんなんでもやっぱ力強くてさぁ、死ぬ気で抵抗されて。包丁奪われそうになったから適当に振り回したら、たまたまあいつの首が切れて。……でも、逃げられた」

 自嘲(じちょう)でもするかのように力なく笑っていたけれど、ふとその顔から表情が消える。温度が抜け落ちる。

「ねぇ……夏樹、知らない?」

 その問いが繰り返される。
 低めた声に込もっている明確な殺意を肌で感じ取った。
 冷ややかなのに(たぎ)るような、()るほど鋭い眼差しに怯んでしまう。

「柚……」

「聞いてる? 知ってんだったら教えてよ。あたし、殺さなきゃなんないの……あいつだけは絶対。殺す。殺してやる……」

 うなるような調子でうわ言みたいに繰り返し、きつく包丁の()を握り締めている。

 憎悪(ぞうお)に歪んだ表情を目の当たりにして、気圧(けお)されながらも悲しくなった。

「……やめようよ、もう」
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