惨夢
「……こいつを絶望させるだけでよかったのに、あなたのことまで無駄に傷つけちゃったわね」
芳乃がせせら笑った。そう言いつつも悪びれてはいない。
「さてと、もう十分でしょ。さっさと飛び降りてくれる?」
彼女の言葉を信じるなら、今ここから飛び降りれば、目覚めたときには悪夢から解放されている。
だけど同時に、朝陽くんという存在も抹消されてしまうはずだ。
こんなに、わたしの心を大きく占めている彼が消えてなくなるなんて受け入れられない。
もう二度と会えないなんて。
「……信じたくない……」
思わずそう呟くと、じわ、とまた涙が滲んだ。
芳乃はうんざりしたようにため息をつく。
「だったら、あなたもここに残る?」
顔を上げると、目の前に鉈の刃が迫っていた。
いつの間に、どこから湧いて出てきたのだろう。
「やめろ!」
咄嗟に駆け寄ってきた朝陽くんが、彼女の腕ごと払い除けて鉈を遠ざけてくれた。
それから身体ごとわたしに向き直り、泣きそうな顔で笑う。
切なげで、儚げで、脆く見えた。
「ごめん、花鈴。……返事、聞けそうもないな」
帰り道でのことを思い出した。
今日の出来事なのに、なぜか遠い昔のように感じられる。
「俺は……永遠に夢から覚められない」
そう言った彼の手が伸びてきたかと思うと、肩のあたりに衝撃が走った。
次の瞬間、全体重が後ろ側にかかり、ぐら、と傾いた身体が夕空に投げ出されていた。
「……っ」
浮遊感に包まれながら、必死で上に手を伸ばした。
届かないと分かっているのに。
(朝陽くん……!)
彼が、校舎が、遠ざかっていく。
こぼれて虚空に浮かんだ涙が、水中で揺れて立ち上る泡のようだった。
夢から覚めたら伝えるはずだった想いをぜんぶ抱えたまま、わたしは奈落へ延々と落下していく────。
力が抜けて、そっと目を閉じた。
いつの間にか、そのまま眠るように意識を失っていた。